クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

モノポリー

パッときたらガツン。何かの名人と呼ばれる人に秘訣を尋ねた時、抽象とも呼べないほど稚拙な答えしかかえってこなかったらガッカリ。

 

ガッカリするけれど、名人の域まで達した人が、あれはこうでここはこうでと懇切丁寧な解説までしてしまったら、文字に起こすのも話のタネにするにも楽になる。その代わり、楽しかしてこなかった人は、いつまでたっても他者に解説あるいは解釈を委ねることになり、いつまでたっても主観は持てないまま。

 

主観が持てない人は、権威に頼りがち。

 

利口な人が利口ではない人の真似をするはずがなく、利口ではない人が利口な人の真似をする。利口ではないのに権威の座を手にしたあとで、誰かや何かに権威の人らしく講釈を垂れる必要が出てきたとき、その地位に相応の講釈ができるレベルにないとバレたら権威も失墜。

 

パッときたらガツン程度の講釈しかできない人でも、代わりに手や足を動かして名人であることを証明できたら勝手に尊敬も集まるけれど、手も足も舌も動かなかったらどうしましょ。どうやって、権威の座にふさわしいことを証明するんでしょ。

 

学ぶは真似ぶで真似から入るのが常道とはいえ、真似ることを選んだ時点で当方はバカでございますと頭下げてるようなもの。利口ではない人が、利口な人の真似をするんだから。

 

天賦の才と努力の掛け算で到達した、名人ならいざ知らず。そうでない人は謙虚に粛々と、利口な人に頭下げつつモノマネ一流をめざすしかない。

 

そして愚者の列が長くなるほど、利口な側に居る人の立場は不動になる。モノマネ一流をめざせば他者の思考パターンがこびりついて、やっぱり主観からは遠くなるものだから、出来上がるのは劣化コピー模倣犯劣化コピー模倣犯こそを量産したかった人にとっては、願ったり叶ったり。勝手に真似してくれるんだから。

 

だから権威をさらなる権威に押し上げるのは、権威じゃないポジションにいる人。そもそも権威じゃない人は、飴が好きで鞭がキライなもの。

 

器用に何でもこなせる名人は、手も足も舌も動かさない分野を決めて、いつまでたっても人に頼るばっかりで楽する側に鞭をくれてやる。楽するのは、そっちじゃないだろと。

 

いつまでたっても他者に解説あるいは解釈をゆだねる人が、複数ある解釈に疲れて唯一絶対の正解を求めはじめたらモノポリー。世界はごく少数の名人や達人あるいは権威と、その他大勢の劣化コピー模倣犯だらけになるけれど、モノポリーが誕生したら複数の解釈やものの見方に翻弄されることもなく、疲労のタネがひとつ減るから常にお疲れな人にとってはひとまず安らげる。

 

独善・独裁・モノポリー。大いなる何かに身をゆだねるのは、楽したいから。楽に背を向ける方が、だいたい難しい。 

 

大勢の楽したいという願望に応えたんだから、実はいい奴じゃん。と、言うことができるのは、同時代で楽が出来た人だけ。その楽は、世代やあるいは人種あるいは特定地域を超えることがなかったら、いい奴から悪い奴へと修正される。

 

モノポリーの心地悪さに気付くのは、疲労から回復したあと。その頃には、もう後戻りすることもできないほどモノポリーが進んでたら、疲れも吹っ飛ぶのかそれともさらなる疲労に襲われるのか。どっちなんでしょ。