クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

十月は紅葉に鹿

河の馬はカバ、河の豚はフグで河の童(わらし)はカッパ。では、河の童が成長して大人になったら何になるんだ???ということは深く考えず、馬に鹿でバカで、紅葉に鹿で十月なんだよなぁとしみじみする。

 

事実として日本の社会インフラはそれなりに整っていて、かなりの辺境まで行ってもコンビニがある。配送車が通れる道があり、辺境であってもコンビニで扱っている標準的な商品を必要とする、標準的な暮らしをしている人がいる。

 

辺境に行ったら文化が隔絶してるなんてことはなくて、ひと昔ふた昔前に比べれば、偏差はかなり解消されている。テレビやネットのおかげか極端な方言を聞くこともなくなり、転勤その他で人の移動が増えるほどに、地方の独自色も自然と薄くなってきた。

 

東京のような都市が日本中にあるわけじゃないけどさ。東京のような都市を日本国中に作ろうと思ったら、足りないものがいっぱいある。

 

まずお金が足りない。お金を稼ぐための仕事が足りない。仕事があっても働く人が足りない。と、足りない尽くし。

 

実際にドンパチやってる国に比べれば、国際紛争今そこにある危機となってるわけでもなし。社会革命前夜のどこかの国のように、天文学的な格差が社会を覆って憎悪の連鎖を呼んでるわけでもなし。平均的にそこそこ住みやすい。

 

事実として、国共内戦で荒む故国から集団移住で国境を越えてお引越しした文化人や経済人その他によって作り変えられた国が此方にあり、国境が消失したら大量の難民が流れ込んでくるかもしれない国も彼方にある。

 

二度あることは三度あるで、その国をその国たらしめていた、最良のエッセンスとなる人材だけを集団移住させれば、文化の毀損は最小で済む。ノアの箱舟かつ隕石衝突前の終末っぽい発想だけど、絶滅の不安に怯えた時は、とんでもない寝言にも耳を貸しそうになるもの。

 

道徳や常識といった善し悪しを動かす道具として文化を使おうとする人は好きになれなくて、文化を道具にする人が文化を好きなわけないじゃん。

 

便利に使える道具だから文化好きな文化人は、より便利で使い勝手のいい道具が見つかったら、とっととそっちに乗り換え文化人という看板さえ簡単に放り出す。感受性を動かす文化そのものが好きな文化人とは、同列には語れない。

 

キレイねステキねと感じる感受性を失くしたか、そもそも感受性そのものを持ち合わせてなかったら、便利な道具として文化を酷使してやれくらい考えそうなこと。

 

憎まれっ子世に憚るで、すでに千人あるいは万人に嫌われていたら、今さら一人二人に嫌われたところでどってことないから、そりゃいい仕事する。主に、人の嫌がるお仕事方面で。

 

社会インフラが整った、住民が居なくなった街は集団移住の場所を求めてる人たちにとっては魅力的で、集団移住を考える人が、最良のエッセンスを集めた文化人や経済人とは限らない。特殊な文化や特殊な経済に依存してる可能性も大いにあるから、特殊ではない、コンビニに代表される標準的な生活に馴染める人の方が、何かにつけて好ましい。

 

文化も経済も特殊で、標準的なものには馴染めないから自分たち専用の文化と経済をしょってきて、地元経済には負担になるばかりだったら、軋轢はひどくなるばかりさ。