クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

実用とその他

劣化コピー模倣犯がやらかすことは、たいていすじ悪。

 

他人が敷いたレールの上を全速力で突っ走るのは得意だけど、レールそのものを敷く作業は誰かにおまかせな人は効率厨。最初のレールを敷く作業がいっちゃん大変なのに、無責任に煽るだけ煽る人は、出来上がったレールを我が物にする気まんまんなドロボー体質と思ってる。

 

盗む。コピーする。剽窃する。効率を求めたら、手ずから何かを作るより、出来上がった何かをぶんどる方が早く、手っ取り早く見掛け倒しの効率や生産性の向上にこだわる人は、効率や生産性の向上が評価の対象になってる人だから知らんがな。

 

朱子学者に陽明学者。ついでに本草学者とくれば江戸時代の学問体系で、今となっては何をやっていたのかよくわからない。本草学と漢方の違いは、特によくわからず。

 

実学の漢方に対して、非実用的な薬草全般についての博物誌的な何か。ではないかと勝手に理解しているけれど、本草学とは何かを解説している文章の中で、孫引きに頼らずその薬草その他の薬効を明らかにするものとあって、それでようやくわかったような気になった。

 

後世に伝えることを目的に、植物その他、薬効があると伝わっているものを体系化して記録する作業、言わば辞書を作るものと考えれば漢方との違いも自ずから明らかで腑に落ちる。

 

後世に伝えることを目的にしたものと、必ずしも後世に伝わる必要はなく、ただ実用に徹するものと。学問その他においてもだいたいこの二つに分けられそうで、気にすべきはどっちに行きたくてどっちに居るか。行きたい場所と今いる場所が一致してないときっと辛く、不器用な外科医が最悪なように適性の問題もあるから、望みが叶うとはかぎらない。

 

江戸時代には、中国由来の学問であったから漢学者、そして医者が本業の傍ら本草学に傾倒してたとか。辞書を作る作業そのものでは、当時も食えなかったのか。学問の一分野として発展させるためには、本業の傍らで熱狂する人を必要とするあたり、今も昔も大して変わらないのかも。

 

それまでになかった新しいもの。特に大きく育てたい新しいビジネスを根付かせるには、まずは最初に誰を仲間にするかが肝心で、余裕があって余技と割り切れる人を巻き込めると、新しい何かも変質せずにうまく育つ。

 

成功体験を踏襲した側と、逆張りを行った側と。どちらの選択がより早くゴールにたどり着くのか。審判が下るのはもう少し先。成功体験を踏襲し過ぎると、逆回転した時の反動もまた、大きくなり過ぎて困るやね。

 

お休みなさーい。