クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

大きな背中

今年は“伝統“が強かったYOSAKOI

 

強豪チームの芸風も、伝統と革新に分かれるけれど、見ていて楽しいのはやっぱり革新に振った方。だけどYOSAKOIって何でどういうものさ?と問われた時に、説明しやすいのは伝統に振った方。

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メジャーになり模倣犯も増えてアイデンティティーが揺らぎ始めると、伝統に還る。みたいな。ワイドビジョンにビジョンカー。ついでにチームの記念撮影スポットまであって、一番熱心な観客は、結局は演者。

 

転がり落ちる恐怖に晒されてる人の声ほど、デカくて耳障り。越えられるもんなら越えて行けと、態度で示す伝統を背負った人の背中は、何にも言わなくても大きく見える。この背中になら寄りかかっても大丈夫と、大きな背中を見せてくれる人ほど、新しいものに優しいかもね。かもかも。

 

裸一貫からとは言わないまでも、それなりに辛酸をなめつつ成功した人の伝記的な読み物のなかで、某経済紙を「株屋の新聞」と評していて興味深かった。

 

記事にしたいと依頼が来たけれど、他紙ならともかく株屋の新聞に出て、評判を落とさないかと心配していた。当時(昭和)の素朴な差別感情が見て取れて、やんごとなき生まれの人でもないのにそんな風にとらえていたのかと、面白い。

 

料亭のおばさんのご託宣を聞くために、銀行や証券会社の人間が日参し、後には巨額の金融詐欺を引き起こすという事件がバブルの頃にありまして。そのおばさんが、根拠希薄に上がる下がると言った銘柄を、ご託宣を受けた金融マンたちが売買してたと報じる記事に、ただ呆れた。

 

景気よくお金が出回ってたわりにはシステムは前近代的で、アナリストやその他専門職の数が圧倒的に少なかったせいなのか。いかさまがはびこるのは不正を許す土壌があったからで、土壌、環境を変えなきゃいつまでたっても前近代的なまま。

 

それからずいぶん経った今はパラダイムシフトの真っ最中で、明日はどっちか見えない状況。だから著名な会社に所属する多数のアナリストが真面目に精査した結果であっても、簡単にゴミクズになる可能性があって、おお怖い。

 

だったら何でもAIのせいにしてしまい、どうしてそういう結論になるのかわからないと抗弁して逃げちゃうのも、生き残りをかけたひとつの手段に見える。

 

どうしてそういう結果になったのか。判断の分岐点を理路整然と説明できないブラックボックス状態なら、神懸かった、あるいは憑き物つきっぽいオバサンの戯言と大して変わりゃしない。未来予測は当たるも八卦、当たらぬも八卦で、占いとよく似てる。

 

だったらAIのせいにしときましょ。だと今っぽく、高度に発達したAIの思考は、時にトレースできないほど複雑怪奇と流布しておけば、そんなもんかと納得もするかもね。専門職を使うのか、神掛かったオバサンを使うのか、それともAIに頼るのか。

 

明日が見えない状態だったら、何を選べば、会社あるいは組織という器を守るのに最適なのか。守ることから考えた結論がソレ。という場合は往々にして、守る対象外の人にとっては面白くないものになるわな。あるいは罠。守るべき人を守るのは、組織としては極めて真っ当な行動なんだよ。

 

6月なのに、気温は10℃前半と鳥肌立ちそうなほど。日中も肌寒かった。湿気が少ないのがいいところなのに、今週はそれも怪しいかも。

 

お休みなさーい。