わっさわさと茂る桜などの木々のもとに、大勢の人が集まって飲めや歌えやと浮かれ騒ぐ日本のお花見スタイルは、世界的に見れば珍しいんだってさ。
公園や広場など、パブリックな場所での飲食(アルコール含む)を禁止してないってところがまず珍しいやね。花木のあるなしに関わらず、ただ飲み食いして騒ぎたいだけの人だったら、キャンプ場へでもどうぞと棲み分け可能なのが今どき。
桜爛漫。
美しく咲いた桜を撮りたい人と、美しく咲いた桜と一緒に写る僕たち私たちを撮りたい人と。小競り合いさえ勃発しそうで、時に緊張感が漂う。そんななか、美しく咲いた桜と一緒に写りたいのが幼子を連れたご家族連れだったら、どうぞどうぞと素直に譲り合いが発揮されるあたり、社会の縮図っぽい。
桜の向こうに見える、青が印象的な建物は豊平館。札幌界隈ではもっともステキな歴史的建造物で、新緑にも桜にも雪景色にも映えるブルーに彩った人、センスあり過ぎ。
円山公園に比べれば、そうたくさん桜の木があるわけではない中島公園だけど、ソメイヨシノ率多目で、桜目当てにそぞろ歩くにはちょうど良い人出なのも嬉しいところ。
人が写り込まない桜を撮ろうとすると至難の技。どうしても接写となって面白みに欠けるので、水面に映った桜を撮る。鳩もひなたぼっこする陽気。桜と青空の組合せは、やっぱりいい。
勝手にハート型空間を見つける遊び。些細なことを気にせず無理すりゃ、あそこにもここにもハート形空間が見つけられるので、思ったほどココロ踊らず、芸もない。某所のような作り込みは大事やね。
雰囲気のある建物と桜もよく似合う。
右がいいか、左がいいか。好みでしかないものに歩み寄りを期待するのは無粋かつ無理だから、どっちでもいいんだけどさ。
桜は散り際がまたきれい。とは言うものの、普通花びらが散った後はこのありさま(注:桜じゃない)で、到底きれいとは言えない。詩的にロマンチックに、言葉を尽くして散り際の美しさを誉め讃えるよりも、見たこともないものの良さを伝えるなら一枚の写真の方が説得力ありまくる。
昔住んでいたところには、春になると桜で覆いつくされる小さな公園があった。
ソメイヨシノが終わる頃には八重桜が満開になり、上を見ても下、地面を見ても桜の花びらがいっぱいで、小さいながらも風情があった。
ある年、桜の花びらが地面を覆いつくす頃、浅黒い肌恐らく西インド系の母子連れが公園で遊んでた。桜の花びらが珍しいのか。水をすくうように花びらをすくい、互いにピンクの花びらをかけっこしては、とても楽しそうに笑ってた。
桜の季節になると思い出すワンシーン。
ついでに、映画『グラントリノ』のラストシーンも思い出す。肌の色、クリント・イーストウッド演じる偏屈爺の遺産である往年の名車を受け継いだのは、肌の色、文化の違う子供たち。
価値を共有できるのなら、相手が同じ文化圏でなくとも構わず血縁であるか否かも関係なし。という価値観の端的な表れで、移民が社会に受け入れられてきた理由も表しているようで暗示的。
大事にしてきたものを大事にしてくれる。これに勝る理由は、ちょっと思いつけない。
お休みなさーい。