クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

狸は有名人

先人が築き上げてきた知の集積が、音を立てて崩れていく。

 

傑出した才能を持つひと握りしか生き残れない世界よりも、凡百の人間でも生き残れる世界をめざすのは、圧倒的に正しいやね。

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(今年も狸が空を飛ぶ季節がやってきた)

飲食店が比較的多いエリアに住んでいる&生活圏にしている。

 

ステキ!おしゃれ!と思うお店もそうでないお店も、続々とオープンしては、いつの間にか店名が入れ替わって違うお店になっている。昔の名前、オープン当初の名前でやってるお店は、やっぱりメディアへの露出が多いお店。

 

桃栗三年柿八年で、三年程度で開花定着するための準備として、開店当初に肥やしとして多めにメディアに露出して、その後はゆるゆるっと世間に認知されるのを待ってる感じ。待てないお店は、あっさり他のお店に変わってる。

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食べ歩きっぽく、行ったお店の記録をブログに書いていた時期もあったけれど、そろそろ閉店したお店の数の方が多くなってきたような気がする。なので最近はその手のお店訪問記、書くのを躊躇している。

 

気軽に偵察に行けるほど近くに住んでいると、本当に繁盛しているお店なのかどうかはよくわかる。予約必須の人気店でも閑古鳥が鳴いてる時期は確実にあって、しょせんは地方都市の悲しさで、お客さんが足りない。

 

街、あるいはエリアごとのキャパシティーは絶対にあって、キャパを越えて飽和し始めると、開店から閉店までのサイクルが短くなる肌感覚あり。だから新しく作るより、「同じ場所だけど違うお店がやってます」みたいな、中身は変わってるけどとりあえず何かが食べられる場所は、だいたいいつまでもそのまんま。だったんだけど。

 

そもそもテナントが入っていたビルが古くなりすぎると、その限りでもなくなってきた。

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目立つエリア、駅前のビルは次々と建て替えられ、新しくてきれいで便利な場所にあるお店が増え過ぎた。道内資本とは限らない道外のチェーン店も増えて、隠れ家っぽいお店を珍重するようなこだわりがなければ、客としてドライに振る舞えるそっちの方がいい。

 

客が客として楽しめない場所に、お客さんなんて来やしないが持論なので、常連が常連にしか通じない話題で盛り上がっているお店は居心地が悪い。

 

ある程度の都市になると、客が客としてドライに振る舞える場所の方が居心地のよさを感じる層は絶対に居て、彼らはドライな空間にお金を落とす。

 

ウェットな空間のウェットな人間関係にもためらいなくコミットしてFOしていくのは、転勤や就職といった「上がり」が待っている層。「上がり」というゴールを持たずにウェットな関係性に巻き込まれると、面倒が待っている。

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ドライな空間を作ろうと思うとそれなりに資本を必要とするので、駅前の目立つ場所にあるお店はやっぱり資本の大きなお店に限られる。経営の近代化とドライな空間はセットで、「中の人」にとってもドライな方が、なにかと都合がいいはず。

 

ドライな場所が嫌になれば、ウェットな場所に移ればいいだけのこと。ウェットな場所からドライな場所への移動も、スムーズに行けばなおよろし。

 

古くからある個人商店が次々にお店をたたんで、“昔の面影”は年々薄くなる商店街だけど、飲食店を中心に新しいお店が増えてきた。ドライ&ウェットがほどよく融合した空間になるのか、それともここもやっぱりウェットに偏るのか。

 

とりあえず夏の夜の狸小路商店街は、一年のうちでもっとも魅力的な場所になる。北の街なのにアジアンな雰囲気が濃厚になって、ちょっと無国籍風。

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この狸、相当数の観光客が嬉しげに記念撮影していて、世界全体でこの狸はいったい何万枚撮られたんだと、カウントしたくなる。

 

さして怖い思いをせずにぶらぶら街歩きが楽しめる、旧市街の雰囲気も濃厚な場所。日本にはそういう場所が多いけれど、それわりと希少よな。

 

お休みなさーい。