クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

死んでしまった人の本を読もうと思った

 今現在生きていて、絶賛メディアで大活躍中の人の本を読むと、刺々しさが先立って一定量以上読み進むことができない。

 

noteあるいはcakesを読まなくなったのも同じ理由。例えて言うなら、活気ある市場-アメ横とか錦とか黒門とかーに放り込まれたような違和感が先立って、気分が乗らない。面白いという感覚よりも、うるさい、安っぽいという気持ちが先立つ。

 

市場で、「これ美味しいよ!安いよ!」「寄ってって!食べてって!」と激しい売り込みにあったらうんざりする。観光でたまーに立ち寄る場所だったら、激しい呼び込みもお祭り気分で甘受できる。たまには寄り切られてるけど、毎回続くとげんなりする。

 

テキストを読みたいのであって、売り込みの声は聞きたくない。邪魔。本を読むことは、文字の海に潜っていくようなもの。ただ海に入りたいだけなのに、ビーチパラソルいかがっすかーや休憩いかがですかーといちいち横槍が入る感じ。イキが良すぎてすごく邪魔。

 

その上絶賛メディアで活躍中だから、営業活動にも余念がなくて、お互い仲良くやりましょうやでネゴネゴしてるビジュアルイメージまでついてくる。あぁほんとに邪魔。

 

今はもうこの世にいない、死んでしまった人、あるいは棺桶に片足突っ込んでるような人が書いた文章だと、すんなりと頭に入ってくる。

 

もう死んでしまった人で、その上SNSもなかった時代の人だったら、“人となり”がまったく聴こえてこないので静か。総体として静かだから、海水浴場でもないひとけのない場所で、文字の海にも思う存分深く潜りにいくことができる。

 

書籍や雑誌は売れないらしいから、売り込みの声やセールス手法もあざとくなった。何につけても露出が多くてうるさい。全車両をジャックした、電車の車内広告のようなものが必要なのは理解しているけれど、観光客でもなければたまにしか文字に触れないわけでもないから、ただひたすら今を生きる人の声がうるさい。

ドラマを見返すことはあっても、ワイドショーを録画して何度も見返す人がどれほどいるのか、にも通じてる。

 

死んでしまった人が書いたものは静かで、その静けさが心地いい。新しい本はポイポイ捨てられるけど、古い本ほど捨てられないのはきっとそのせい。