クローズドなつもりのオープン・ノート

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『ボリショイ・バビロン 華麗なるバレエの舞台裏』見た

華麗なるバレエの舞台裏と聞くと、トップバレリーナをめざすダンサーたちの、苦悩と挑戦の日々かと思ってしまう。ところがこの映画は、ロシアのボリショイ・バレエ団で2013年に実際にあったスキャンダルがテーマ。登場するのは全員舞台関係者で有名人のため、犯人も含めた事件関係者のすべてが実名・顔出し。豪華といえば豪華なキャスティング。

 

ロシア芸術史に残るスキャンダルに見舞われた、バレエ団の再生を追ったドキュメンタリー。企業再生に興味があるような、芸術とは無縁の人でも楽しめる。


世界的に有名なバレエ団に迫る!映画『ボリショイ・バビロン 華麗なるバレエの舞台裏』予告編 ...

 人気ダンサーを経てボリショイの芸術監督に就任したセルゲイ・フィーリンの顏に硫酸がかけられ、バレエ団所属の男性ダンサー・ドミトリチェンコが逮捕された。犯行動機は、恋人の女性ダンサーが配役を下ろされた恨みだったと報道され、ロシアのみならず、世界中で話題になった。そこまでは、日本でも報道されたからよく覚えてる。

 

 人間関係がもつれた背後には労使の対立あり。犯人のドミトリチェンコには、150人もの団員(正規ダンサー総数200人+α)から潔白を訴える嘆願書が出されるなど、団員の信頼も厚い人だった。それもそのはずで、ドミトリチェンコは労働組合の若きリーダー。一方硫酸をかけられたフィーリンの方は、芸術監督就任後にバレエ団の改革中でメンバーの入れ替え中、つまりリストラの真っ最中。おかげで事件後のボリショイバレエ団は、大揉めに揉める。

 

 ついには殺人未遂事件にまで発展する労使の対立。舞台はロシア芸術のみならず、ロシアを代表する団体。日本でいえば、スタジオジブリで事件が起こるようなものか。(ジブリさんすいません)ついでに労使が激しく対立するとくれば、ブラック企業臭も濃厚。一見きらびやかで、生活の苦労とは無縁に見えた芸術の殿堂でさえ、内部は火の車っぽくついでに前近代的だったことがわかる。

 

 映画の進行とともに現れる、ボリショイ・バレエの豪華な劇場や、舞台で華やかに踊るダンサーだけ見てる観客にはわからない、バレエ団の内紛。労使の対立、ひいては犯行にいたった原因究明よりも、ドロ沼からの再生により焦点があたってた。

 

 この映画そのものが「再生の成果」で、どのような再生の道を選んだかが、犯行にいたった犯人や犯人に同情する団員への返歌、アンサーソングにもなってる

 

 犯人のドミトリチェンコは、ダンサーの両親をもち、他の多くのダンサーがそうであるように、幼い時からバレエに打ち込んでいた人。バレエという芸術をなりわいとするダンサーの仲間ゆえ、彼の断罪はボリショイ・バレエを分裂させてしまう危険性があった。

 

 ロシアを象徴する芸術集団。バルスTwitterを動揺させ、「ジブリの法則」で株式市場を混乱させるスタジオジブリ(たびたびスミマセン)のようにボリショイ・バレエはロシアが誇る強力なブランド。観光客と海外公演という外貨獲得手段でもあるから、そのスキャンダル鎮火のために、国家の強力な介入が入る。

 

 Too big to failでつぶすにつぶせない巨大企業に、公的資金とともに政府任命の再生請負人が派遣されてくるようなもの。しかも、政府の意向をうけボリショイ劇場総帥に就任したウーリンは、硫酸をかけられた芸術監督フィーリンとは過去に因縁のある人。本来なら「ボリショイ・バレエ団の再生」で共闘すべき二人なのに、そうしっくりとはいかないから、これもどこかのゾンビ企業を見ているよう。

 

 総裁のウーリン、芸術監督のフィーリン、そして犯人のドミトリチェンコ。彼らはそれぞれ背負っているものが違う。

 

年功序列で並べてみた

ウーリン>フィーリン>ドミトリチェンコ。

 

彼らがそれぞれ背負っているものは

芸術>ボリショイ・バレエ団>バレエ団のダンサー(≒団員)*1

 

 ロシアが誇るブランドで外貨獲得手段でもあるボリショイ・バレエ団を、再生させる手段として総裁が選んだのは「ビジネス」。最高峰の芸術がお金を産み、お金を産むから国家の庇護が受けられるという、正論で内紛に立ち向かう。ボリショイ・バレエ団への貢献ではなく、芸術に貢献するものがボリショイ・バレエ団に所属することを許され、待遇も保障されるという正論。その結果は、映画を見てのお楽しみ。

 

 有吉佐和子の『SWAN』に『アプローズ』、小野弥夢の『Lady Love』とはちょっと様子の違う、有名バレエ団の舞台裏。バレエ漫画ではトップバレリーナになれない苦悩が語られるけど、『ボリショイ・バビロン 華麗なるバレエの舞台裏』では、トップバレリーナになった後の苦悩まで語ってる。ダンサーの人たちの生活、すごく地味。母親業をこなしながら踊る人もいて、来る日も来る日もただ踊り続けてるだけ。

アプローズ―喝采 (1) (秋田文庫)

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Lady Love (1) (講談社漫画文庫)

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 エカテリーナ2世が設立したボリショイ・バレエ団は、かつては皇室御用達。その伝統ゆえに兵役も免除された特権も、今は昔。ソ連崩壊後は国家の資金難により辛酸もなめていた。

ボリショイはもうダメよ、ダメ。めぼしい連中は皆外国に出稼ぎに行ってしまったし、残った人たちも金の亡者。芸は荒れすさんじゃって、行くのは、時間の無駄どころか、不快な思いをするだけ。

あそこには、もう外国人観光客とおのぼりさんしかいないことになってるの。

『オリガ・モリソヴナの反語法』より引用。

どの団も慢性的金欠状態にあるのよ。

桁違いに多数の視聴者を相手にする映画やテレビがある時代に、コピー不可能な舞台芸術を経営的に成り立たせるのは、そもそも無理がある。

『オリガ・モリソヴナの反語法』より引用。

 ロシアもいっときは景気良かったから、2013年の事件当時はそこまで困窮してるとも思えない。娯楽にあふれた日本と違って、ロシアではハイカルチャーは根強い人気がある。ただ映画を見ているかぎりでは、前近代的な家族経営に近かったよう。

 

 総裁ウーリンが選んだ芸術回帰路線は、ダンサーの待遇向上とセットになった近代化策。ブラック企業の再生も、かくありたい。

 

 この映画を見てると、硫酸かけられた芸術監督にして元花形ダンサーのフィーリンが気の毒になってくる。

芸術監督に抜擢された日から始まったイヤガラセの数々にも負けず、「より良く」を願って改革に乗り出したリストラでは団員から恨みを買う。恨みを買ったあげくに硫酸かけられ視力も失う。それでも芸術監督の座を降りずに、最後まで改革を見届けようとするけれど、改革は時に彼が望む方向には向かわない。ふんだり蹴ったり。

 

 ふんだり蹴ったりでも改革に従うフィーリンは、芸術家でもあるから。事件を起こしたドミトリチェンコは、芸術家の前に労働者でありすぎた。

 

 総裁ウーリンと芸術監督フィーリン。異なる年代のふたりは、金欠状態になる以前のロシア芸術界を知っている。犯人のドミトリチェンコは知らない。

才能は自分のものじゃなくて、神様が与えてくれたもの(中略)自分が努力して得たものならそれは自分のものだけれども、これは神から与えられたものだから自分のものではない。

『オリガ・モリソヴナの反語法』より引用。

 

至高の芸術は、神様からの贈り物。神様からもらったものだから、広く世の中に返す。

 

 賄賂が当たり前で、札束で頬をひっぱたかれるのが当たり前のロシア。芸術ファーストで押し切ってもダンサーがついてきて、改革に成功するのもこの考えが共有されてのことに思えてくる。

 

 バレエ団がスキャンダルに見舞われ、出番も失うかもしれない日々で、それでも毎日踊り続けたダンサーだけが残ったんだから。才能は自分のものと思う人だったら、最も高値をつけてくれる、どこかに移籍すればいいんだから。

 

 ボリショイ劇場の豪華さ、白鳥の湖のような古典作品以外にもモダンなレパートリーを持つダンサーたちが踊る舞台。

時おり現れる絵になる街並みを見てると、ロシアに遊びに行きたくなる。モスクワの地下鉄駅構内がステキ。ロシア芸術史に残るスキャンダルをも外貨獲得手段のひとつに変える、ロシアの商魂(監督はイギリスだけど。。)にも恐れ入った。

 

 ホーム、ボリショイ・バレエ団への愛ゆえとはいえ、芸術に泥を塗った形になったドミトリチェンコは禁固刑となる。若さゆえのあやまちと大目にみるよりも、芸術への愛に勝る、これもロシアらしいところ。

 

 ロシアバレエや、バレエに代表される舞台芸術。日本と同じくスマホに夢中のデジタル・ネイティブに、どこまで届くかは未知数。国内が心許ないのなら、世界に発信しようとするその心意気は、歌舞伎がNYに進出するのと同根のもの。

 

 舞台芸術が至高の芸を競い合うのを、映画で観賞するという贅沢が味わえる時代。神様からの贈りものを、惜しみなく分け与える彼らに返せるのは、映画代と拍手喝采。面白かった。芸術に奉仕する労働者だったら、より一層楽しめそう。

 

 お休みなさーい。

*1:署名したうちの何人がダンサーかは不明だから≒にした。ダンサーとダンサーを支える裏方の対立があったかどうかは不明