クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

『セッション』見てきた

共感を寄せるのが難しい、面倒な人VS面倒な人を描いた音楽映画、『セッション』を見てきた。

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(この映画でアカデミー助演男優賞に輝いたJ.K.シモンズ。このオッサンコワすぎ。)
 
全米最高峰の音楽院で教える名教師フレッチャーVS生活のすべてを音楽に捧げる覚悟のできた生徒ニーマン。どちらも個性的すぎて、同じ世界を目指す人にしかその真価は理解されなさそう。とはいえ共感と良し悪しはまったくの別もので、共感しづらい人物を描いていても、魅力的だった。
 
 
筋肉隆々で、見るからにコワそうなフレッチャーは、音楽には色んな楽しみ方があっていいという、お気楽な楽しみ方を否定する人。スタバで売ってるような、”Good Job!”と言われそうな音楽がお嫌いでFBのイイね!も嫌いそう。ってかFBなんかやってる暇もなさそう。彼が探しているのは次世代のチャーリー・パー カー。JAZZの世界に革新を起こす人。目標が高いから、その指導は苛烈で超コワイ。
 
 
なぜ革新、新しいものが生まれるのかと考えれば、不自由だから。不自由さから逃れて自由になった時、そこには新しい地平が待っている。
 
 
フレッチャーの指導はムチャクチャ。口汚くののしりながら、時には暴力も振るう。生徒の人権なんか無視で横暴。こんなムチャクチャな指導から、人をうれしい 楽しい気分にさせる美しい音楽なんか、生まれっこない。反感を抱くけど、でもそもそもフレッチャーは、うれしい楽しいを目指してない人だから、反感を抱いてもしょうがない。ナニクソ見返してやるとがんばれる人は、フレッチャーの同類。
 
 
結局似たもんなんだよね、この二人。
 
 
不自由で窮屈な世界から抜け出すには、もがいてあがいて、血みどろになって。そうなることでしか自由に、新しい何者かになれないと、誰に教えられなくてもわかってる。ついでに、プロの世界は生きるか死ぬかの戦場だから、常軌を逸したシゴキも、死なないために必要と思えば、愛情の裏返しにも見える。とってもわ かりにくいけど。
 
 
もしもこの二人が、教師と生徒ではなかったら。指揮者と演奏家ではなかったら。音楽に対する情熱という共通言語で結ばれた、仲のよい友人になれたのかもしれない。
 
 
そうはならない、ことごとく期待を裏切ってくれるところが、この映画の面白いところ。シゴキシーンは苛烈でお腹いっぱいになる。だからといって、シゴキ、ダメ絶対で思考停止するには、もったいない映画。
 
 
ラストの演奏シーンは圧巻。同時に、フレッチャーのエゴも全開で呆然あ然。
 
 
お客さん置いてけぼりにしてどーすんのさ。
 
 
同じステージに立ったプロの演奏家たちは、何やってんだと言いながらもニーマンに合わせてくれる。お客さん置いてけぼりにできない、それでご飯食べてる人たちだから。同時に鬼気迫るニーマンの演奏を間近に見て、心を動かされない人がプロを名乗ってるとお客さんが知ったら、がっかりするんじゃないかな。
 
 
不自由で窮屈な世界から、もがき抜いて自由な世界に羽ばたいたニーマン。エゴを優先させる師とは違った新しいスタイルで、もっと複雑で豊かになった、新しい音楽シーンを切り開いていきそう。
 
 
音楽にはうれしい楽しいだけじゃない。もっと複雑でドロドロとしていて、それでいて豊かな世界もある、産みの苦しみも描いていた。
 
 
ミュージシャンやクリエイターといった創作方面の人だけでなく、不自由さから逃れて自由になるために、新しい何かを生み出そうとする人の心にストンとはまりそう。
 
 
産みの苦しみには敬意を払うけど、産みの苦しみなんか微塵も感じさせない。うれしい楽しいに満ちた何かがやっぱり好きなんだと、個人的には再確認した。