クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

『ビッグ・アイズ』見てきた。

見た順番としては前後してるけど、『ビッグ・アイズ』見てきた。
実際にあったアート界のスキャンダルを映画化したもの。

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悲 しげで大きな目をした子どもを描いたウォルター・キーンの「ビッグ・アイズ」シリーズは、ハリウッド女優たちにも愛され、世界中で大ブームになる。作者の ウォルターも美術界の寵児として脚光を浴びるが、実はその絵はウォルターの妻マーガレットが描いていたものだった 
http://eiga.com/movie/80081/   (映画.comより引用。)

 

妻が描いた絵を、自分が描いたものと偽り夫が売り捌く。夫がプロデューサーあるいはプロモーターに徹していたら、このスキャンダルはあるいは表面化しなかったのかも。観終わった時にはそう思った。
 
 
脚 光を浴びる才能に「だけ」恵まれていて、脚光を浴びるための才能には恵まれなかった夫のウォルター。商才があって目端が利くから、お金儲けはとても上手。 お金、富を「才能」よりもより愛して大事にしていれば、富豪として一生を終えることもあるいは可能だったかもしれないのに。やっぱりお金だけでは満足でき ないところは、「肥大化した自尊心」ならではか。
 
 
本来生き生きと表情豊かなはずのエイミー・アダムスが、ちっともぱっとしなかった。全然ぱっとしない女性マーガレットに同化してるかのようで、途中までエイミー・アダムスだと気付かなかったくらい。エイミー・アダムスの芸達者な部分を再確認した。
 
 
ぱっとしない女性を演じる方が難しい。わかってはいても、夫のウォルター役につい目がいってしまう。変だもの、この人。
 
 
口が上手くて調子が良くて嘘つきで。脚光を浴びる才能に「だけ」恵まれた人物のアンバランスさが、これ以上ないほど際立っていた。身近にいれば嫌悪感を感じるような人物を、嫌悪感たっぷりに描いていた。
 
 
ウォルターとマーガレットの、どちらが本物の「KEANE」なのか。法廷で真偽を決する際のウォルターも、相当胸が悪くなる。それ以上に狂気を感じるのは、自分が描いたものでもない絵を権威ある人に否定された時。ウォルター、キレッキレッ。
 
 
才能に恵まれた人は、どこかアンバランスになる。ウォルターの場合、絵を描く才能には恵まれなかった。その代わり、脚光を浴びる才能だけはあるから、スポットライトが当たる場面では、みごとな役者ぶりを披露する。
 
 
そ のアンバランスさはもはや狂気の領域。その狂気を、キャンバスに表現することができたら、マーガレット以上に画家として成功したかもしれないのに。そうは ならないところが、人生の皮肉か天の配剤か。プロデューサーあるいはプロモーターであることよりも、「才能ある画家である自分」を演じることに酔ってし まって、金の卵であるマーガレットに見切りをつけられる。
 
 
マーガレットは、オリジナルな絵を描く才能と、一日16時間絵を描き続けても苦にならない、絵に没頭できる才能に恵まれた。その代わり、平凡な日常を失い、支配され抑圧される結婚生活をおくる羽目になった。
 
 
マーガレットの不幸もまた、才能に恵まれたゆえのアンバランスに起因してる。物言わぬ代わりに、大きく見開かれた哀しげな瞳の子どもビッグ・アイズは、彼女の心象風景とどうしても重なる。
 
 
ギャラリーはあったけれど、ポップアートには冷たかった時代。権威ある人に認められるには、マーガレットには正規の絵画教育が欠けていた。そんな人の絵が脚光を浴びるには、ポピュリズムに乗るしかなかったし、ポピュリズムに乗るにはウォルターが欠かせなかった。
 
 
ウォルターとの不幸な共依存を脱した後も、マーガレットは絵を描き続けていて、その作品はウェブサイトで確認できる。サイトを見る限りでは、どの絵にもビッグ・アイズの気配が濃厚に漂ってる。詐欺師でペテン師ではあるけれど、ウォルターが居なければ、ビッグ・アイズもまた世に出ることはなかった。そう思うと複雑。

https://keane-eyes.com/about-margaret/ (Margaret Keane Official website)

 
不幸な共依存は見事に解消される。悪縁が解消されてすっきり爽快よかったね。と、見終った後にいまいち爽快感を感じずもやもやするのは、悪縁によってしか見出されない才能を思って複雑になるから。シンプルじゃないところが良かった。
 
 
『ビッグアイズ』2015年2月映画館にて鑑賞。伝記映画。ティム・バートン監督、エイミー・アダムス、クルストフ・ヴァルツ。原題『Big Eyes』 、2014年アメリカにて公開。