クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

32年

今日も晴れ。このまま晴れの日が続けばいいけど、残念ながら週末の天気は崩れそう。

 

コラムニストの天野祐吉さんが亡くなった。推理小説家の連城三紀彦さんも。そして「笑っていいとも」も来年の三月で終了だって。「知ってる」人やモノが無くなっていくのは、いつも少し寂しい。

 

笑っていいとも終了のニュースは、ちょうどお昼休みに飛び込んできた。みなさんそりゃもう「えーっ!」ってびっくりしてた。32年も続いたんだねー。もう今更「いいとも」以前に何やってたかなんて、思い出せない。そのくらいお昼の番組として、当たり前にそこにあるものだったから。

 

みんなちょっとしんみりした感じになって、うっかり私と「いいとも」の思い出話、聞いてくれる?みたいな雰囲気に包まれて、「32年でしょ。始まったのが昭和55年でー」って、語り始める人もいた。あんたどんだけ和暦換算早いのよ。そう思ったところで地雷出現。一番若い子、「その時私まだ生まれてないでーす」だって。その瞬間、彼女の周りにどっかーんとブラックホール出現して、越えられないジェネレーションギャップの存在しっかり感じた。

 

なんとなく会話尻すぼみになって、みなさんモソモソとスマホいじったりお菓子つまんだりして、「今だから語れる私と”いいとも”の蜜月」は結局語られることなく終わったのでした。ちゃんちゃん。ほんと、「みんな」で語れる・盛り上がれるテーマって難しいね。知ってる誰かがどーしたあーしたって話ほどには、みんな喰い付いてこないから。

 

いいともの話よりも。コラムニストの天野祐吉さんが亡くなったニュースの方が、個人的には一時代が終わったなーって感じがする。

 

この人のコラム、読むの好きだったんだよね。本は一冊も持ってないけど、ひと頃は雑誌や新聞で毎週のように目にしてた。広告畑出身なんだよね?その業績は、はっきりいって良く知らないんだけど。

 

この人の書いた文章、何で好きだったのかなー。まず広告出身だから、売れてなんぼ、という視線は常にあったような気がする。

 

例えばそれがゲージュツだったら、「わかる人だけわかればいい」っていう、選民意識感じる時があって、言ってることはわかるんだけど、正直あんまり心地良くない時がある。そうした選民意識は、大層美しいものを作る時には必要な視点かもしれないとは思うけど、過剰すぎるとどうもね。

 

そんで広告って基本、新聞やテレビ、社会の木鐸や公器を通じて発信されるから、ジャーナリスティックな視点や新奇性大事にされる。社会の木鐸や公器を通じて発信される以上、何やってでも社会の目を向けさせる手法取ると、社会からそっぽ向かれて、売りたかったものも買ってもらえない。それじゃあ広告の意味ないじゃんっていうことで、新奇性大事にしつつ、お約束も守りつつで、大変難しいことに挑んでるよねーって今更ながら思うわ。

 

有名タレントが出てるCMで、人から「ほら〇〇が出てる奴」って説明されると、あーあれかーってそのCM思い出すけど、肝心の商品名何だったけ???ってよくなる。同じタレントがいっぱいCM出てるから。

ソフトバンクのお父さん犬クラスになると、「ほらアレ」で通じるんだけど。他には出てないし。

 

・売ってなんぼ

・社会からそっぽ向かれない程度の

 新奇性や批評性、芸術性なんかも要求される

・それでいて、全力投球してるような暑苦しさ感じない

 

そんなことがごく自然に文章からも感じられたから、好きだったのかなー。

テレビなんかでも飄々としてるように見えたし。全般に軽やかそうに見えて、実はとっても難しいことこなしてる。そういう気配が感じられるものは、今も変わらず大好き。

 

嘘ばっかし

これなんか、読んでみたいなー。お休みなさーい。