クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

季語

木曜も金曜もかなり忙しくて、そーいえば今月は上半期の〆月だったことをようやく思い出した。

 

上半期でこれだったら、年度末はどーなるんでしょって、ちょっとゾッとした。「上半期」とか「年度末」って言葉も、「お花見」とか「七夕」みたいに、季節感感じる。俳句の季語を集めた歳時記に、もしかして季語として載ってる?とか思っちゃった。

 

毎週日曜日は新聞の短歌や俳句欄眺めるの、楽しみにしてる。なんでこんなの選ばれてるわけーって、声に出して読みながらますます混迷を深めてる。

 

花鳥風月歌ってるようなのは、斬新なものと一緒に並べられると、やっぱり古臭く感じる。端正な美しさはあるんだけど。。てんてんてんみたいな感じ。どこか物足りない。多分刺激や破調に慣れ過ぎちゃったんだよね。

 

刺激的で、ちょっとアンバランスな位「型を崩し過ぎた」ものも、当たり前のものとしてこれからも目にする機会があるのか。それとも一過性のものとして消えていって、型をきっちり踏襲して一部の隙も無く完成されてようなものに埋もれてっちゃうのか。そういうことにすごい興味があるんだよねー。

 

今日読んだ、というより読み返した短編。時間SF傑作選から「ここがウィネトカなら、きみはジュディ」。タイムリープもの大好物。瞬発力はあっても持久力には欠けるので、小学生のマラソン大会の時から、あぁ空間移動してさっさとゴールしたいとか走りながら考えてた。今なら思う。それ、どこでもドアでいいやろって。

 

考えてみれば、小学生にして既にタイムリープという概念知ってたなんてすごいね。多分、私だけじゃなくて知ってる子多かったはず。(ウラシマンなんてアニメもあったくらいだし)なのに、現在に至るまで実用化なんて夢また夢な技術のままってとこがすごい。携帯電話もインターネットも、思いつきもしなかった技術は着々と進化してるのにね。

 

タイムリープって、未来または過去への一直線だとばかり思ってた。「ここがウィネトカなら、きみはジュディ」は、もっとランダムな時間旅行扱ってて、そこが新鮮。複数アカウントの人がキャラクター使い分ける、そんな感じとも似てるよーな気がする。

 

ここがウィネトカなら、きみはジュディ 時間SF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー)