クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ドライフルーツとナッツとごまめ

伝統的なおせち料理では定番のごまめ。自分で作るようになってからは、ごまめにはナッツ(くるみ、カシューナッツ、ピーナッツなど)を入れている。

 

ナッツ入りのごまめを初めて食べたのは、のどかな田園風景がのぞめるおしゃれなカフェでランチの副菜として出会った。へぇごまめにはこんなアレンジがあるんだと珍しく思い、美味しかったので自分でも作るようになった。

 

そしておせちに入れるには斬新すぎるドライフルーツとナッツ入りのごまめも、作ってみるとやっぱり美味しかった。

 

ナッツとドライフルーツの相性はGood。ならば、ナッツとドライフルーツとごまめの相性もGoodで、おしるこを食べた後の塩こぶが美味しく感じるようなもので、甘いけど甘過ぎない小腹しのぎにちょうどいいおやつになった。

 

おやつにごまめを食べていると、カルシウムたっぷりという感じで精神的にいい。

 

そもそも栄養価が高くて美味しいもの、美味しくなるものは使いやすい。おせちやおやつ以外の使い道もあれば使いやすさもさらに増し、普段使いとハレの日との差別化もしやすければ普段から流通させておこうとなって、ハレの日にも登場させやすい。

 

ハレの日のごちそうとして定番のものは、つまりそういう理屈と仕組みで定番として残ってきた。その理屈と仕組みをハレの日とは真逆、非常時のストックを用意する目的に応用すると、日常でも非日常でもとりあえず食べるものには困らないという一定の安心が得られそう。

 

きっとくるであろう非常時に備えて普段使わないものを備えるのではなく、普段から日常使いしているものを備えていれば、日常と非日常がシームレス。

 

食べ物に限れば、大きな災害に見舞われた直後はそもそも食欲などわかない。

 

それでも水分補給はせねばならないし、食欲などなくても食べないと動けなくなる。火は使えなくても普段から食べているおやつがあれば、とりあえずの栄養補給にはなる。ついでに普段から食べているくだもの、りんごや柑橘類などの日持ちのするフルーツがあれば栄養補給の選択肢は拡がる。

 

電気やガスは使えなくても火が使えれば、キャンプやバーベキュー気分でしのぐことができる。

 

非日常は不快なことの連続で、不快に対する耐性が低いとの自覚があれば不快に対する耐性を鍛えるか、不快からいかに早く脱出するか考えるようになる。

 

すぐに脱出が難しければ、一週間~10日はしのげる分だけ非常時に備えるようにする。どう考えても一か月以上はかかると思えばもっと多く。備える側が備えに対する準備を手厚くすればするほど非日常の色合いが濃くなって、非日常を厭う側は非日常からの脱出を急ぐようになる。

 

強権をわかりやすく発動すると、かえって反発が大きくなって物事が進まなくなる民主的な社会では、自発性に委ねるのが最適解。

 

何かしらゲンが悪い。あるいは寝覚めが悪い。そこは別に危なくないしいいところだよという評判しか聞こえてこないのに、感じるのは別のものだったらそこはやっぱりそういうところ。

 

ここに生きた人達は、きっと安らかな死を迎えられなかったんだろう。という場所、過去例えば維新の時にでも内戦状態に陥ったことのある場所は、結局最後は大規模開発でもするしかなく、過去の来歴などすっかり洗われて、過去そのものをしのぶ手掛かりさえ失われてしまうものなのかも。

 

新旧が混在している。古くて立派な家があれば、新しくて立派な家もある。という場所は、逆に言えば大規模開発の必要などなく、各々が各々の家なりに幸せな人生をおくったんだろうという結果から生まれた景色なのかもしれない。

 

ごまめに入れるドライフルーツは何がいいのか。色々考えたあげく、手に入りやすいパウンドケーキやヨーグルトに入れる、ドライフルーツセットに落ち着いた。

 

ドライフルーツに凝れば、その土地でしか手に入らないフルーツが入って郷土色的な色合いが濃くなる。お雑煮が元々は郷土色豊かだったのは、郷土色や各家庭の味を出しやすかったからで、郷土色を出しやすい料理が他にも増えれば郷土色豊かなおせち=ハレの日の食文化が出来上がる。


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郷土色は、残そうとしないと残らない。ローカルなきローカルな地は、その代わりグローバルにより近くなる。そういうものなんだろう。

新幹線が開通したら、きっと札幌の未来もこうなるんだろう。

早咲きの桜が満開、ソメイヨシノもそろそろ開花しそうと南の方からは桜前線上昇との便りが聞こえてくる頃、札幌にはまだ雪。

 

といっても市内中心部でたっぷり、あるいはどっさり雪が残っている箇所はどっちかっていうと観光客向けという感じ。実用的に使われる人通りの多い場所はもうほとんど雪もなく歩きやすい。


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雪深い季節には通行禁止となる創成川公園も、もう今なら歩ける。


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(こちらはちょっと前の円山公園

雪が解けた春先が、最も閑散とする時季なんだと以前観光に行った温泉地で聞いたことがあるけれど。転入転出で民族大移動のシーズンでもあるから、街中はやっぱり年中人が多い。

 

2023年度(2023年4月〜2024年3月)はとにかく遠方へのお出かけが増えた。

 

新千歳空港の次によく行ったのは、福岡空港。空港から地下鉄で博多駅に向かうという使い方。山陽新幹線にも久しぶりに乗った。行くたびに、街がきれいで立派になっていくのを感じてる。博多一箇所だけがきれいで立派になってなっていってるわけではなく、波及効果が徐々に周辺まで拡がっていって、“成長期”に入ったんだと思った。

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北海道新幹線の札幌延伸に向け、札幌駅は今大工事中。工事中の状態が数年は続くからきれいで立派になった姿は想像しにくいけれど、札幌に新幹線が開通した未来はきっとこうなるんだろうと、博多や新幹線沿線を眺めてた。

 

商用公用私用と、純然たる観光目的以外にも“用事”で訪れる人が多いのが都市で都会。そして用事のついでに観光名所を訪れ、名物を買ったり食べたりしてる。

 

荷物が多いと行動範囲はせまくなり、荷物が少なく身軽だと行動範囲は俄然広くなる。

 

小さなお子様連れだと身軽に動けない代わりに、お子様連れには必須な場所、オムツ替えやその他が使いやすいきれいな場所には詳しくなるし、何だったら身軽に動き回れるコツみたいなものにも詳しくなる。

 

荷物が少なく身軽だと行動範囲は広くなって、下手したら住まいと職場を往復するだけの人より詳しくなっていくかもしれない。

 

その街にしかないものがどこにあるのか。その街に不案内な人間でも使いやすい場所やサービスはどこにあるのか。その目で見て確かめていくから、一度しか来ない人たちよりも見る目は厳しくなる。

 

だから、商用公用私用と観光目的以外で訪れる人が増えて多くなると、厳しいチェックをくぐり抜けたものが残っていくことになり、街がきれいで立派になっていく。

 

使う人の声を反映したものが残っていく。ユーザー目線とはつまりそういうことで、空港には飛行機に乗る人のための、新幹線の構内には新幹線に乗る人のためのサービスが作られていく。

 

必要とする人のために必要とするものを作ると、お金が落ちる。落ちたお金がその地を豊かにし、だから街がきれいで立派になっていく。言葉にすればそれだけのこと。

 

とはいえ使わない人を想定した施設設計から、使う人を想定した施設設計への転換は、言うほど簡単ではなかったんだろう。

 

ユーザーフレンドリーな場所は、ユーザがいっぱいで混み混み。時間的余裕や金銭的余裕があれば、混雑を回避する手段も複数になる。

 

金銭的ゆとりが博多駅や空港に集中すれば、空港や駅がきれいで立派になり、時間的ゆとりが空港や博多駅よりも離れた場所をきれいで立派にしていく。最も繁華な場所だけでなく、郊外や周辺にまで波及していくのならそういうことで、金銭的余裕だけでも成らず、時間的余裕がある人も巻き込んでいるから成長軌道に乗れて成長が続く。

 

この場合貧乏暇なしは成長痛のようなもので、痛みを乗り越えればどちらかの余裕に恵まれるんだと確信できたとき、成長は加速するんだろう。

 

そして新幹線が札幌に開通したとき、札幌の未来もきっとそうなるんだろう。金銭的余裕と時間的余裕という、成長の糧となる双方の余裕を食い潰しさえしなければ。

 

博多市内の土地勘には乏しいので、ものすごく目立つ場所にあるホテル以外、すんなりたどり着ける自信がない。そんな時は新幹線でひと駅、小倉(こくら)駅の駅前にあるホテルを選ぶ方が確実にたどり着けるしわかりやすい。

 

博多〜小倉間は、北海道に置き換えると感覚的には札幌〜小樽間のようなもの。空港行き特急、快速エアポートが停車する小樽は札幌よりも見通しがきくから、観光客も目的の場所を探しやすいはず。新幹線が開通して新小樽駅ができた時には、また変わるのかもしれないけれど。

 

ついでに土地勘の全くない場所ほど、見るもの全てが物珍しくて面白い。私にとっては初めて訪れた小倉がそうだった。意外ときれいでステキなリバーサイドにお城。想像以上に狭い商店街は休前日のせいもあってか賑やかで、雰囲気を味わうのにちょうどよかった。


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息抜きする場所、実用的に使う場所。あるいは逆に背伸びする場所と、旅慣れるほどに複数の場所を使い分けるようになるのかも。

 

交流人口の拡大の具体的なイメージとは、つまりそういうことになるんだろう。

たくましく女性らしく

現代で生きていくためには全然まったく必要そうでない寺社奉行という存在は、時代小説、つまりエンタメで仕入れたもの。

 

遠山の金さんは町奉行。町方、つまり市井で起こる事件を捜査して裁く人。対して寺社奉行は、寺社(神社仏閣)の管轄するエリアで起こった事件を捜査して裁く人だったと記憶してる。

 

町方と管轄を分けるのは、市井を支配する最高権力者よりも長く続いているものに対しての配慮。あるいは遠慮で、それが江戸で徳川の時代なら、江戸時代よりも長く続いている組織には長く続いた組織なりの法や支配の体系があるから、無遠慮に踏み込まない。と、考えればわかりやすい。

 

場合によっては勝たせてやった、あるいは花を持たせてやった側には増長や驕りがあり、勝たせてもらった方には遠慮が生まれる。

 

そういう力学などないものとして、異なる体系を持つ相手のセンシティブな部分に無遠慮に踏み込むと、返り討ちにされる恐れが十二分にあるから気を付けようね。という処世でもあるのだと思う。

 

今年のひな祭りはまだ肌寒く、雪だってまだ降り止まない北国のことだから、糯米をそのまま炊いた白いおこわにした。おこわだとお寿司よりもほんのり温かで、今年のひな祭りはまだまだ温かいものが恋しくなる寒さだった。

 

白いおこわに刻み梅とサヤインゲンで、ほんのりピンクと黄緑にいろどって、魚食の国らしく白身の魚で作ったでんぶをやっぱりピンク色に染めて、白身魚のマリネ(甘くない柑橘、柚子や橙の果汁とほんのちょっとの薄口しょうゆで〆た)と花型に抜いたピンクのかまぼこを一緒にトッピング。蛤の潮汁を添えて、ひな祭りの食事にした。


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切り身でしか見たことのない”ソイ”という魚は鯛に似て、白身で扱いやすい。

 

でんぶのようなふりかけは大量に作ると大変だけど、一食分プラスアルファ程度なら、刺身のサク半分でじゅうぶん。半分はマリネ。茹でるなり蒸すなりしてからフライパンで炒り、梅酢のようなものでピンクに染める。

 

ラディッシュ、赤カブに紅芯大根。梅酢以外にもピクルスにしておくと自然に赤く発色する野菜があり、梅酢のように使ってる。

 

もしも自分がこれからの時代に女の子を育てるとしたら、まず望むのはたくましさ。

 

たくましさを求めると一時的にユニセックス、男も女もなくフリルやリボンのような女らしさは後回しになるけれど。たくましさを身につけた女性が女性性を失っていくのなら、女性は残らず従来女性が好むものとされてきたものも残らなくなる。

 

フリルにレースにリボン、などなど。女性性あふれたものはやっぱり余裕の産物で、女性が女性性を存分に発揮しているならそこには余裕がある。

 

ものすごく男性らしい人がものすごく女性らしい人を否定するかというと、きっとそうじゃない。ものすごく女性らしい人がものすごく男性らしい人を否定するかというと、そうではないように。

 

”らしさ”を高めて磨いていくと、対極にあるらしさを磨いた人にしかできないことがよくわかるようになる。だから安易には否定しない、ということでもあると思う。

 

男性が男性らしくなくなり、女性が女性らしくなくなって性差がゆらぎ、男らしくもなく女らしくもないものが最も生きやすい場は、デコボコのない世界。

 

都市が都市らしく、ネオンギラギラ。あるいはイルミネーションきらきらでピカピカだったら、自然は自然らしく緑ゆたかでいられることでもあって、どちらもらしくない時、都市でもなければ自然ゆたかでもない状態が生まれるんだと思う。


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男らしさと女らしさ。あるいは都市や人工物が都市らしく人工物らしいと、自然が自然らしい。

 

その差は本来紙一重で、紙一重程度の差だから楽々越境できるけれど、あえて超えないから各々がらしくいられるんだ。というのは、超えてしまってらしくなくなった人や物を見ればよくわかる。ということでもあるのかも。

思い出のポークチャップ

せまい。ツールが足りない。条件が悪いと食事作りは手抜きになりがち。

 

簡単にできるものと既製品を使う時の手間と費用を考えた時、既製品を使う方が合理的なのは最初から既製品への導線が引かれているから。そういう条件下で周囲を見回せば、そういう場所には既製品があふれているはず。

 

環境を変えるのが難しかったら悪条件を克服するしかなく、悪条件でも手を抜きたくないようにすると、どこかにしまい込んだ何かを引っ張り出すことになる。低温調理とかそのエッセンス。

 

蒸すと素材が柔らかく仕上がって、使い慣れない機種のレンジでレンチンするよりも思い通りになりやすい。ということを学習した、”用事”で出掛けた先で作ったのはポークチャップ。

 

豚のかたまり肉を好きな厚さにスライスし、耐熱性のビニール袋に入れてフライパンや鍋で茹でるだけ。チャック式の某ジップロックよりも、口で縛るタイプのビニール袋の方が持ち手が長くて扱いやすい。

 

塩コショウもなし。ただ好みの固さになるまで蒸しただけの豚肉を、油(なくても可)で炒めた玉ねぎ・ピーマン・マッシュルームなどのきのこ類にトマトケチャップ、ウスターソース、しょうゆで煮込んだソース(酢豚から酢を抜いてトマト感を出したもの)にからめて出来上がり。

 

ちょっと濃いかな?と思うポークチャップソースに豚肉の茹で汁を合わせるとマイルドに。炒めた野菜類からでるうまみも調味料だから、基本のポークチャップソースは濃い口になりすぎないように、いろいろ足したいところを我慢する。

 

以前旅先で食べたポークチャップの味とはちょっと違うけど、(きっと各種ソース類の味が違う)それはそれで白いご飯によく合う味になった。

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調理後のビニール袋には冷えると油が白く固まって残り、油分の多い食べ物を調理したあとの調理ツールをきれいにするための労力を考えると、ポイッと捨ててしまえるところもいい。

 

それを言い出すと、水を汚さないためには油分の多いものは控えるのが好ましいとなるから、手間のかかるものはたまでよし。たまにだったらごちそう感もあって、ごちそうだったら手間と釣り合うようになる。

 

食生活をありし日のように後退させるキーワードはヘルシー。お米を炊くのに必要なのは水だけ。昔あるいは伝統的な和食は油は使っても大して使わず、食後の後片付けでも汚れが大して気にならないものだった。

 

日頃の食生活がヘルシーかつローカロリーだったら、たまーに高カロリーかつこってりを食べても気にならない。

 

ハレとケでバランスが取れていた。食生活そのものをひと昔前ふた昔前に戻すことは難しくても、ハレとケでバランスが取れていた。そういう状態に戻す方が簡単かも。

 

オーブンがないと難しい、骨付きラム肉のローストも蒸した状態でいったん保存(冷凍or冷蔵)しておいて、仕上げに軽く焼き色だけを付けると適度に油が抜けて、柔らかく美味しく食べられた。油が落ちて、食材が柔らかくなる。蒸すという作業あるいは工程はステキねーと再認識した。

 

札幌にはまだ雪が残っていた頃、用事で出掛けた先では桜も梅もすでに咲いていた。桜は早咲きの品種だったけど。


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日本は南北に長くて、今でも地域差はやっぱりある。


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だから、ある場所では合わなくても別の場所でなら合う。ということはきっとある。

固いものと柔らかいもの

雪まつりが終わった後にやってきたのは、暖気。

 

路肩の雪も融け、場所によっては大洪水で地面はビチャビチャ。地面ツルツルもビチャビチャも、歩きにくいという点ではどっちもどっち。なんだけど。雪が降り積もって一面真っ白なのはただきれいだったと、終わったばかりの雪まつりがすでに懐かしい。

 

雪塊のような固いものを削って柔らかい質感を表現するのは、きっと難しい。だから子供の柔らかい頬にキツネのフワフワとした毛並みを表現した、モンゴルチームの”温もり”という作品が一番だったのも納得の国際雪像コンクール。

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雲のような泡のようなモクモクは、大きな作品になったらどうなるんだろうとワクワクしていた。だけどやっぱり柔らかい質感は、小さなサイズでは表現できても大きなサイズでは難しいものなんだな。

 

ビフォーアフターゴールデンカムイの大雪像は、横から見るとすごい厚み。立体感の実装には、奥行きこそが大事なんだと誰にでもわかってしまう。


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プロジェクションマッピングのような新しい技術と組み合わせることによって、いつかは何度でも見返したくなる名シーンが、今にも動き出しそうな臨場感で雪像でも表現できる日が来るのかも。

 

遠くから見ると、バーバパパみたいだった”とある雪の降る街の未来”を表現したアートな会場。アートな雰囲気もいいけれど、”ほのぼの”色満載の中小雪像群がやっぱり一番好き。


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ちょっと大きめで色とりどりのスキーウェアに、頭部にはニットや被り物(ウサギやクマ、時には恐竜)の小さなお子様たちは、”雪ん子”みたいだった。

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制服だと三割増しでカッコよく見えることがあるように、カラフルスキーウェアや帽子やミトン姿のお子様は、可愛さも三割から四割増し。


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かわいいがかわいいを呼んでくる図式。


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大通公園会場以外(赤レンガ前広場)にもあった雪だるま作ってみようコーナーでは、おにぎりのように雪だるまが量産されていた。いくら量産されても無問題なのは、そもそもが雪という素材だから。雪だるまはすべて自然素材、枯葉や小枝なのも教育的。

 

ココノススキノがオープンして初めての雪まつりでは、今年も氷像が登場。


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八咫烏の爪が怖い。。おひなまさの顔が怖い。。場所が場所だけに、どうがんばっても際どいものも一緒に映り込んでしまうから、ほんとは現地で鑑賞に徹するのがいちばん。氷像もいいけれど、楽しいのは氷像のタイトル。『水辺の頂点捕食者』とか。背景&タイトル&場所柄を考えると、氷では表現し切れないアグレッシブさも加味される。


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(これは際どくない背景)

とはいえ、際どい背景を背負ってもなお雄々しく飛び立たんばかりの姿に審査員も打たれたのかもしれない今年の一等賞。(←スパイファミリーMISSION:17ぐりほんさくせんにインスパイアされてる)

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細部まで”おもてなし”の精神が行き届いたせいかおかげか、雪まつりの来場者数は対前年で大幅に増えたんだとか。


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(それぞれ別方向を向いた時計台前の雪だるま)


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去年も見たなーと思う雪像も、丸まっちくなったりスケールダウンしたりで、ちょっとずつ違う。


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札幌駅前から大通方面へと続く地下道では雪像以外のアートも展示中で、札幌国際芸術祭も同時開催中で、まつりがまつりを呼ぶ構図。

 

最早ただ作れるだけでもダメで、色んなものがすでに作れるのならあとは見せ方。総合的にプロデュースできる力があっての成功なんだと、振り返ってみるとよくわかる。

続編ができるファミリーの作り方

神出鬼没で変幻自在。情人なら秒速で作れそうな男が同居人としてまず最初に選んだのは子供。

 

母のいない子供のために女親を求めるのはただ女漁りをするより自然で、経緯はどうあれ学齢期の子供を持つ夫婦が子供によりよい教育を求めて名門校を目指し、名門校でよい成績をめざして家族ぐるみで努力するのも自然。

 

映画を見たい気分だったので、新しくできた映画館で『劇場版 SPY×FAMILY CODE: White』を見てきた。時間的にちょうどよく、掃除する時や料理を作る時に家事の邪魔をしない家事のお供として重宝してる、内容も知ってる作品だから選んだ。

 

難しいことも面倒なことも考えず、ただ愉快な気持ちになりたい時にピッタリでリラックスした。字幕でもなく何しろアニメだから、映画館の離れたスクリーンでも問題なく見れた。ついでに日頃見ているニュースなどの情報番組が、文字情報を多用してることもよくわかった。

 

ストーリーがどうであれ(面白ければなおよし)、ただアーニャがロイドがヨルが動いているだけで十分満足。それだったらと犬や猫、ウサギなどの愛らしい小動物が映って動いていても個人的には満足できるけれど、それだときっと興行にはならない。

 

魅力的なキャラが生まれたら、あとはラク

 

最初は黄昏ことロイド・フォージャーひとりから始まった作品に、アーニャにヨルといった主人公に加えてレギュラーといっていい登場人物が10~20人。それだけメンバーが揃えば、好き嫌いはあっても見てる方は飽きない。

 

今回の劇場版では子供のおやつを横取りして顰蹙を買った人物が敵役として登場したけれど、どれほど強烈で強い印象を残したとしてもレギュラーとしてスパイファミリーにファミリー入りするかどうかは未知数で、ファミリーにとって重要なのはほとんどセリフも登場シーンもない次男(ダミアン)の父親デズモンドの方。

 

何度も読み返したい、見返したいお気に入りのシーンに10人も20人もいらないけれど、何度も読み返したい・見返したいと大勢に思ってもらうためには興行や興行的成功が欠かせない。

 

そして興行的に成功している作品にはやっぱり興行的に成功した過去の作品の面影がある。

 

例えばターミネーター、例えばラピュタ。あるいは冒頭のシーンでは、私の世代なら有閑倶楽部ピジョンブラッド事件の面影を見る。アーニャという女の子が主人公ながら尾籠なシーンを入れてくるあたり、下品だと顰蹙を買ったというクレヨンしんちゃんを踏襲してると思えなくもない。

 

異性を誘惑、死闘を繰り広げる、顰蹙を買う。それらのワードを手掛かりにどのようなシーンを思い浮かべるのかには、きっと世代や文化の差が現れる。ある分野における普遍的なものを知っていないとあるいは使わないと、ある分野における普遍的なものは作れないということでもあるのかも。

 

主人公を含めて10人から20人のコアメンバーを揃え、普遍的なものをめざして普遍的だと知っている普遍的な表現を使うと(あるいは真似すると)、普遍的なものにより近くなる。

 

”ファミリー”は、家族を意味するだけじゃない。

 

神出鬼没で変幻自在。不自然なひとりの男から始まった作品も、家族を持ち、家族持ちならやりそうなことを重ねていくうちに、より自然に周囲に受け入れられていく。家族・友人・上司や部下に同僚。主要メンバーが揃わないうちは仲間内で役割を兼ねることで、ファミリーの結束は強くなっていく。

 

強いファミリーが崩れないことで、ファミリーはより強くなっていく。

 

日本のアニメだったら、例えば名探偵コナンドラえもん。その種の作品にあんまり親しんでいなくても、回を重ねている、何度も映画化されていることは知っている。

 

何度も映画化作品が作られる=何度も興行を行ってる作品とそうでない作品を比べたとき、きっと決定的に違っているのは作品に連なっているファミリー。

 

それは作る側かもしれないし、見る側かあるいは兼ねているかもしれないけれど、何らかのファミリーが含まれない限り、何度も劇場化されるような作品は生まれてこないのかも。だから続編が出る作品は、気合の入り方や支援が最初から違う。

 

常勝は、勝たなくちゃいけないからそうなる。

 

問題作を叩きつけ、それでおしまいにはできないから問題作にはしない。それがアニメでも実写でも。あるいは戦隊もののようなものでも。彼が、彼女が、あの子が出て動いているなら満足。

 

だったら、誰が作っても誰が唄わせても構わない初音ミクのようなもので、毎回ヒット作を作らねばという重圧からも解放されるから、作る方もきっとラク

 

冒頭のお城のような場所でのパーティシーンをリアルに作ろうとすれば、リアルなお城所有者の使用許可がいる。リアルを損ねずリアルにモノを作ろうとした時のコストと収益とリアルでないものとを比較した時にラクを選ぶのは現実的で、ラクでない方を選ぶのは非現実的。

 

非現実的なものは今を見なくてもいい、過去か未来を見ている方のすること。

 

何度でも読み返したい見返したい原作に親しんでいたら原作を選び、今さら原作を見返すのも読み返すのもちょっととハードルが高かったら、原作のメディア化の方により親しむ。ということでもあるのかも。未来の”原作”ではどのような意味が足されて拡大されるのか。想像できるのなら過去を見て未来を見てる。

 

ある特定の時間を、胡散臭くも怖くもない、安全で安心できるできれば快適な場所で過ごせればそれでいい。繁華街の目立つ場所にある商業施設にはそういう側面もあり、そういう日がくることを見越し、開発余地がたっぷりあった最初期にそういう場所を抑えた先人の先見性にもただ恐れ入る。

 

そういう人が作るファミリーだったらそりゃ強くて、ターミネーターみたいのだって揃っているんだろう。

 

 

花びら餅と小豆

紅白のお餅(求肥)を重ねた姿を花びらに見立て、はさむ餡は白餡。一番の特徴は甘く煮た牛蒡(ごぼう)。

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(添えたのはミルクティー

お正月、というより新春に食べるお菓子”花びら餅”は、ごぼうというお節料理に欠かせない食材が使われているからよりお正月っぽくて新春らしい。

 

ごぼうは、食べるとごぼうだとわかる程度にはごぼうの風味が残り、それでいてしっかり甘く煮詰めているから柔らかい。白餡と甘く煮たごぼうを使った新春の和菓子として特に疑問も持たずに食べているけれど、出回り始めた時には珍しかったんじゃないだろうか。

 

三月の雛祭りにはひし餅にひなあられでお花見には花見団子、五月の端午の節句には柏餅で、六月には水無月。秋の十五夜には月見団子と季節や季節の行事と合わせて食べたくなるお菓子(和菓子)がいくつか思い浮かぶけれど。

 

行事にちなんだお菓子(和菓子)に共通するのは、特定のお店に限らずいろんなお店で買えること。

 

例えば半世紀。50歳年上の人(多分、記憶明瞭な人を見つけるのがすでに難しい)に、あなたの新春の景色、お正月に食べたものや過ごし方はどうでしたか?と聞き取ると、決定的に違うのはきっと食べるもの。

 

家庭で作ったお節は、一度では食べきれないストックが冷蔵庫に貯まる。何種類もお節を作るのは大変だけど、ごほうびは1月の半分、小正月まではきょう何作ろうと悩まなくて済むこと。冷蔵庫内のストックや買い置いた食材を、ただ使い切っていけばいいだけだから。

 

食べ過ぎ飲み過ぎた、胃にもお財布にも優しい七草粥小正月の小豆粥。本来小正月は鏡開きで、鏡餅でぜんざいを作るだったと思うけど、鏡餅を飾るとは限らず、お正月は和洋取り混ぜて甘いものを食べる機会も増える。だから、甘くないけれど小豆は使う、小豆粥にここ最近は落ち着いている。

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(黒豆は新しく作ったもの。まめまめしくありたい)

お節を自分で作るから冷蔵庫にはストックがあり、作らずに買って済ませるとお正月らしい食材も料理も小正月までもたずにあっという間に消費しつくす。昆布の佃煮は、お節を作る時のだし昆布の再利用。冷凍しておいて、時間ができた時に佃煮にした。

 

そんな風にお正月の景色は徐々に各々が暮らしやすいように変わっていく。変わっていくなかで残っていくのは、納得感のあるもの。お正月という季節感がありつつお正月以外にも使えそうなもの。

 

日常的にごぼうを料理に使っていれば、多少残ったところで無問題。

 

豚汁や寄せ鍋のような汁物に使うか、きんぴらや煮物に使うか、それともサラダに使うかかき揚げ(天ぷら)に使うか何を作ろうかと悩むだけ。

 

たたきごぼう(酢の物)、八幡巻き(肉料理)、煮しめ(煮物)とお節での出番が多いのも日常的な食生活での出番の多さを物語っている。使い回しがきくものは始末に困ることはないけれど、日常食でも出番の少ないものは始末に困る。

 

伝統的なお節の中身が変わっていくのはそのためで、現在ではNGな表現が過去はスルーされていたように、食文化も文化だけに中身が変わっていく。

 

そもそも使い回しがきくものの始末には困らず、多少需要予測が外れても価格や供給量で調整すればいいだけ。困るのはそもそも使い回しがきかない、出番の少ないもの。需要予測が外れて足りなければ忘れられるし、多過ぎれば新たな出番、新しい使い道を増やすことになる。

 

だから始末は、楽をする手段が増えるほどに難しくなって高度になり、高難度に耐えられる側のお仕事になっていく。

 

始末で最も簡単なのは、そもそも始末する必要などなくしてしまうこと。でもそれでは文化は残らない。

 

お正月にはピザにハンバーガー、あるいはカレーにギョーザやチャーハン。日常的にはそういったものをほとんど食べることのない人が”非日常”を楽しむためにお正月休みに楽しむ分にはいいんだけど。

 

非日常性が薄れて日常と地続きになり、単なる長期休暇ならクリスマス休暇にくっつけて、クリスマスにお節を食べる。というのも未来の姿としてはあるのかもしれない。

 

必要に迫られた時に取る手段に文化はない。あるいは文化は後回し。

 

紅白のお餅を花びらに見立て、白餡を包んで甘く煮たごぼうを添えた花びら餅も、最初はあるお店のものだったのかも。お店が消えても季節に食べるものとなれば文化は残る。

 

その季節さえ消えた時の文化の形を想像できた人が、文化とつながりあるいろんなものをいろんなものに託して残した、あるいは残そうとしてるんだと思った。


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一月は、北海道神宮が一年でもっとも賑わう季節。年末まではシロクマの雪像が木に張り付いていた。