クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

大通り

デコボコのない歩きやすい道を、ただテクテクぽてぽて歩いているだけでは筋肉はつかない。雪で滑って転ばないよう気持ち踏ん張り気味で歩くと、普段は使わない筋肉まで使うせいかただ歩くよりも疲れる。

 

疲れるなら普段よりも消耗しているということで、疲れない・負荷がかからない状態では筋肉なんかつくはずがない。

 

道なきところに道を作る作業と、手入れされているかどうかはともかくすでに出来上がった道をブラッシュアップさせる作業は全然違う。二度目三度目ともなれば手法は洗練されて、見違えるようにきれいになって当たり前。

 

ここ、手入れできない状態で放置しておいてすまんかったな。これからきれいにするんでよろしく。と、鶴のひと声でもあって改修に入るならなおさら、きれいにならないはずがない。

 

よろしくとすまんかったで、お金が動いて人が動く。

 

そういう人物を擁していると何をやるにも作業は倍速あるいは三倍増しで捗って、たちまち形になる。

 

道なき場所に道を作る作業はだから、お金が動いて人が動く。そういう人物に最終的に繋がるよう道を作る作業にも似て、とにもかくにも出来上がった道なのに人通りもまばらで手入れもおざなりあるいはなおざりなのは、お金が動いて人が動く人物にまで繋がらなかったか成長できなかったからなんだ。と、見ることもできる。

 

お金が動いて人が動く。そういう人物に繋がらないから倍速・三倍速で作業がはかどることはない。だけど、鶴のひと声でお金と人が動く。そういう人の二倍・三倍の時間、あるいは世代を重ねると、やっぱり道はきれいになって洗練されていく。

 

お金が動いて人が動く権力のトップ、いってみれば玉座を手に入れるための最短コースはライバルの皆殺し。だけどすべての敵を亡き者にして手に入れた玉座では、人がついてこないし味方が育たない。

 

道なきところに道を作り、作ったあとの道はただ荒れ果てるのみ。という状態だったら、想像するのは玉座だけを目指して邁進し、手に入れた玉座(権力)を生かすことなく腐っていった新興勢力。勢いだけで権力が手に入ることもあるけれど、手にした権力を活かせないから荒れ果てる。

 

お金を動かし人を動かすことが目的だから玉座(権力)を狙うのなら、敵は作らない。ライバル皆殺しで和解まで二世代三世代が必要で、停滞が待っていることがわかっていたら、特に。

 

敵を作らず権力を手に入れると、何かあってもよろしくとすまんかったで済んでしまう。そういう人物が出現して、何をやるにも倍速・三倍速でものごとが進み、あっという間に立派な道が出来上がる。

 

人通りが多くて手入れが行き届き、いつも立派な道はだからやっぱり立派な人物に繋がっていて、倍速・三倍速で作業を進めたい人だらけになるからいつも騒がしくて落ち着きがない。そう考えると、商業施設が進出してくる場所がいつも似たような場所になるのも納得する。

 

普通あるいは低速でゆっくり歩んで行っても、最終的には同じ地点にたどり着く。

 

いつも騒がしく落ち着きがないのはノーサンキューだから、急ぐ人と急がない人とはだから、役割が分かれていくということでもあるのかも。かもかも。

 

急ぎ過ぎて壊れてしまった人を、順次ゆっくり歩む人の側に組み込みながら。

要するに、それはみりん。

お菓子や何かを作ろうとしたとき、卵1/2個分というレシピに出会うと残りの半分はどうすんのさ?とイラっとする。

 

最近は、卵(=卵液)が余るのなら玉子焼きを作ろうとか。余りが出るなら余りを使って何かを作る心積もりでいると、イラつくこともなくなった。

 

料理用に赤ワインと白ワインを常備しているけれど、赤ワインは余りがち。白ワインを3本消費するあいだにようやく1本使い切るかどうかというペースで、白ワインの消費に対するペースは1/3で3倍遅い。

 

毎回赤ワイン煮込みに化けさせるのも芸がない。と思っていたら、アルコール分を煮切って飛ばした赤ワインに砂糖を足して、スパイスで風味付けした赤ワインシロップというレシピに出会った。

 

アルコール分を煮切って甘くしたものといえば“みりん”で、要するにこれはみりんだと思うとソースにも使えて何かと使い勝手がいい。酒・みりんにしょうゆに+αの組合せで、味付けのバリエーションは無限。

 

ホリデーシーズンには赤ワインシロップを炭酸水で割って、フルーツやスパイスを加えれば、アルコールが不得手な人向けの飲み物にもなる。キレイに発色するので、フルーツのコンポートやシャーベットにムースのようなものを作るときにもちょうどいい。

 

“余った赤ワイン”が出たときに作っておけば、やっぱり余りそうなフルーツや生クリームあるいはヨーグルトのような日持ちしないものも余すことなく使い切れるようになる。

 

そして、余すことなく使えるはずのコンポートやシャーベットのようなデザートまで、冷凍しようが冷蔵しようが余るのならそもそも作り過ぎなんだということになって、生産量そのものを見直す時季なんだということになる。

 

おじーさんやおばーさん、あるいはひいおじーさんやひいおばーさんから受け継いだ(=相続)した広い庭付きの立派なお屋敷で、やっぱりひいおばーさんやおばーさんから受け継いだ着物や装身具を身に着けて結婚式を挙げた。

 

という由緒正しいお家のライフスタイルは、衣食住のうち生鮮食品以外はすべて受け継いだもので当座をしのげるということで、持てるものほどお金を使う局面が少なくなるんだという極端な例でもあるんだと思った。


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(交通の便もいい、誰にでもわかりやすい場所に今さら日本庭園を新たに作ろうとすると、きっと大変。)

由緒正しいの根拠が受け継いだものの多さで示されるようなときは、受け継いだものは手離しにくくなって買い替えまでのサイクルも長くなる。消費が捗らないんだから景気も停滞し、先進国が時に英国病のような踊り場に直面するのはだから先進国の宿痾のようなもので、持てるものが増えた先進国の証し。

 

美術館や博物館の類がたくさんある街は、歴史が長く続いた街。受け継いだものの簡単に処分もできないような“由緒正しい”ものも、預ける場所があると思うと美術的価値や骨董的価値のあるものも揃えたくなって、古いものだけでなく新しい美術品も動くようになる。

 

歴史を重ねた開発余地に乏しい街で、今も昔ももっとも価値があるのはスペース。

 

収納する場所、収納余地があると思うからどんなものでもコレクションがはかどって何らかのコレクターによってお金も動くけれど、そもそも収納する場所がないと手元に置くのは処分しやすい”消えもの”になっていく。

 

”消えもの”の消費ばかりはかどるその場所には、もうスペースがない。

 

形あるもの、年々歳々大きくなっていくか数が増えるものの消費が増えるその場所はまだスペースに余裕がある。

 

余りがちなものを余すことなく使い切ろうとして初めて、生産量そのものに目が向くようになって“適正な量”について真面目に考えるのかも。かもかも。

 

赤ワインシロップにしょうゆ・バルサミコ酢で作ったステーキソースはマッシュポテトとの相性もよく、ハレの日の一品が簡単にできて大満足した。

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失われがちなもの

勉強もスポーツもそこそこできて、陽気で愉快で人に好かれるけれど時には女子のスカートめくりもしてたような奴が、今では市会議員かぁ。

 

というような時に再選を願ってエールを送る気持ちで自身のしがらみを越えてコッソリ一票を投じたくなるなら、“立場(or地位)は人を作る”で、地位や立場相応となるための努力を認めている。

 

あいつが市会議員かぁ、じゃあ引っ越そ。となるなら地位や立場は立派になっても、立派な器相応の中身ではないことが見抜かれている。

 

女子のスカートめくりをするような小学生男子が現在でも存在するとはあんまり思ってないけれど、女子のスカートめくりに相当する、“同じ”でくくられる異性への性的関心を行動に移したものは、今でもあるだろうと思っている。

 

ところでドラえもんに出てくる出木杉君だったら、スカートめくりなんかしないだろう。紳士キャラあるいは王子様キャラ的に許されない。

 

紳士でも王子様でもないから、スカートめくり的行為にも甘い処罰か見過ごされがちで、その種の逸脱によってむしろ、出木杉君では届かない層にまでリーチが届く。支持基盤を広げることができるから、幅広い層を相手にしなければならない筋からは、重宝されて引っ張り上げられる(=祭り上げられるともいう)ということは、あってもおかしくない。

 

嫌だったら、引っ越せる。チェンジが可能なのは小さな範囲。逃げも隠れもできない大きな範囲になったら、選ばれる人物は限りなく出木杉君に近付いていき、紳士や王子様でないとそもそもエントリーさえできなくなる。

 

紳士や王子様が365日×n年、紳士や王子様であり続けるのは大変で、逃げも隠れもできないとよりハードルは高くなる。

 

生身の紳士や王子様を、紳士や王子様という立場から引き摺り下ろそうという空気が醸成されると陰謀や権謀術数の類が蔓延って、紳士や王子様のままだと割が合わなくなってくる。

 

紳士や王子様とするべく・なるべくかかったコストが回収できなくなると、AI(あるいはバーチャルやフェイク)でもいいじゃんとなりがちだけど、生身の人間の人生とAI(あるいはバーチャルやフェイク)の人生のどちらが重いかは明らかで、だから生身の人間を守ろうとした時その裾野も産業も広くなる。

 

生身の人間が狙われるから産業の裾野も広くなるもので、AI(あるいはバーチャルやフェイク)が狙われるだけなら産業は育たないし強くもならない。

 

立場は人を作るで思い出したのは、オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』で、美貌という優れた資質と知力や陽気さといった美質に恵まれながら、なぜ彼はその美質を生かすことができなかったのか。という疑問から古っ―い小説を今さら読み返してみた。

 

早く走れる。高く飛べる。歌が上手いといった特長と同じく美貌も天賦の才で、才能は生かす場や磨かれる場がないままだと立場が作れず、立場=地位が人を作るレールあるいはラインに乗れない。

 

立場や地位が人を作るレールまたはラインに乗りさえすれば、トコロテンのようにそれなりのものが出来上がってくる量産品を作る場で、身の置き所がなく処遇に困るのは完成品。

 

その種の場で完成品は、お手本にしかなれないから。

 

歳をとってもキレイなおばあさんにカッコイイおじいさんは、きっと若い頃から美人でハンサム。

 

時の試練に耐えて、美しいものが美しいまま残り続けるのはまれで、大抵は途中で失われてしまう。美しいものよりも美しくないものに目を向けよという機運が盛り上がった時には特に。

 

勉強もできればスポーツもできた。あるいは音楽など何らかの特別の才能に恵まれていた。見た目も優れていて陽気で愉快で、彼が現れるだけでその場の雰囲気が明るくなって室温まで上がるようだった。

 

という美しいものが美しいまま年を取ろうとしたら、美しいままという立場を手放してはならず、美しいままという立場が美しいままという人を作るんだろう。

都市に降る雪

ホワイトイルミネーションが始まってもさっぱり降る気配も積もる気配もなかった雪が、ようやく札幌でも降って積もったのは12月に入ってから。去年(2021年)よりも遅い。

 

滑ったり転んだりすることを思えば厄介者だけど、ホワイトイルミネーションはやっぱり雪と一緒に見る方が何倍もきれいでファンタジック。

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190万人が済む都市圏とは思えないほどの積雪に驚いたのも、雪が降っても支障なく日常生活が営まれるのに驚いたのも、今は昔。

 

札幌に新幹線が走るようになる未来の雪景色は一体どんな風になるものか。あんまり雪の降らない北の都市(=都会)といえば仙台で、仙台のようになるのかそれともやっぱり雪は降って積もり続けるのか。

 

ライフスタイルの変化込みだから、どう転ぶのかよくわからない。

 

雪がたっぷり積もった大通公園に時計台にエトセトラ。雪景色そのものが、いつかは“もう今では見られない景色”になるのかもしれないと、素敵な雪景色を瞬間冷凍した景色につい心が奪われがち。


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夏は蒸し暑くて冬は底冷えする。寒暖差の激しい土地で生まれ育ったけれど、霧のようなものを見ることは滅多になく、視界が悪くなって車の運転を躊躇するほどの霧に初めて遭遇した時は、面倒くさいと思うよりも物珍しさの方が勝ってた。

 

フォグランプの必要性を認識したのも、霧にたびたび見舞われるような土地に住み始めてから。制御できない自然が身近になると、装備は手厚く過剰になるんだと思ってる。


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宇宙に深海。そもそも人類の居住に向いてない空間へ赴く乗り物には、用途不明なたくさんのスイッチが付きものなのもそういうことで、生き物は環境に適応してその姿を変えていくけれど、生き物ではない乗り物は自然にその姿を変えるわけじゃない。だから何らかの操作が必要になってスイッチが必要になる。

 

頻繁に霧に見舞われる土地で生まれ育つと、霧の発生で一喜一憂したりしない。ある程度特異な自然現象であっても身近過ぎるとその特殊性に気付けない。オーロラも雲海も、身近ではない(=見たことがない)人が見るから感動が大きくなり、大いに感動できるという評判が人を呼ぶ。

 

だから、ある程度特異な自然現象の特異性を最初に見出して観光資源とした最初の人は、目の付け処、視点や視野に視界が違って広いから偉い。

 

コピーを作る(=見出す)のは比較的容易で、集客だけが目的なら二度目三度目と事例を重ねるほどに手法も洗練されていく。

 

三日も経てば、そういやそんなこともあったねで済んでしまうような浅い感動を広く薄く与えるやり方と、例えば自身の死が身近に迫った時にも鮮明に思い出せるような深い感動を特定個人に与えるやり方は全然違う。

 

例えばアメリカの大恐慌や日本のバブル崩壊

 

お先真っ暗で明るい未来を見通せないような時に、それまで身近にありながら見過ごされてきたようなものに価値を見出し付加価値を極限まで大きくして人を呼び、“観客”を作って売りに出す。売り物ができたことで、明るい未来も一緒に呼び寄せた。

 

その種の感動を与えた人に対する好意は、誰かに強制されなくても続く。

 

異なる視点・異なる視界・異なる視野を持つ人(=人達)が与えてくれた、それまで身近過ぎて誇ることもなかったものが”生きる糧”となって現実にお腹をいっぱいにしてくれたから、感動はより深くなって長く続くんだろう。


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雪が降らなくなるのならよりゴージャスな方に、雪が今と変わらず降るなら雪景色を計算に入れた簡素な方へと向かうのかも。かもかも。

単純明快

風光明媚な道があった。

 

気候のいい時にドライブするなら、単調な高速よりも四季の変化がよりあからさまな道の方。

 

途中には思わず写真に撮りたくなるようなきれいに手入れされたお家があったけれど、何しろ個人のお宅だから遠慮してた。通りがかりに眺めるのがひそかな楽しみ。ある時から様子が変わり、変わったあとには宗教の看板が大きくかかるようになり、それも目立たなくなったあとは、ただ通過するだけの場所になった。

 

高速道路建設にオリンピックやワールドカップのような国際イベント、そして新幹線(高速鉄道)の建設。

 

誰がどう考えても巨額なお金が動く時には、説明しにくい言い知れないものも一緒に運ばれてくるのか、呼ばれて出てくるのか。

 

巨額のお金が動くのは時間も一緒に買っているからで、何かがあったんだろうけどその何かは見ていた人たちにも説明のしようがない。そんな出来事があった場所の記憶が薄れるまで、ホールドあるいはシールドされるからなんだと考えると個人的には納得しやすい。

 

高速道路に高速鉄道に、国際イベント。ソトから大勢の人を連れてきてまたどこかへ運ぶ。そういうツールが揃う前と後では、そんなものなどなかった頃とは景色も環境も変わり、景色や環境が変われば人も変わる。

 

十年ひと昔でも、見ていた人は覚えている。

 

場所に紐付いた記憶は、同じ場所を通りかかるたびに思い出す。だから、大移動しやすいツールを作る時には場所に紐付いた記憶や歴史も一緒に移動させて、場所から人に紐付かせると場が記憶から解放されて、場の有効利用がしやすくなる。

 

そして記憶や歴史の不連続に聡いものと疎いものに分断されて細分化されていって、各々が“真“だと思う記憶や歴史のタコつぼに向かわされるのかも。かもかも。

 

きれいに手入れされたお家があった。きれいだったお家のあった場所は何だか荒れて、今は荒れ果ててはいないけれど格別きれいでもない。

 

次の十年で、またきれいになるのかそれともそうではない方に向かうのか。

 

どう転ぶのか予測がつくようでつかないから、ウォッチが継続しやすいのはすでに“テーマ”が与えられている方で、大急ぎで通り過ぎる高速道路にはない楽しみが加わる。

 

どうにかなるにもどうにかしようにも、国際的までハードルが上がってしまうと資金面でもうどうにもならず、太刀打ちできない。その前にどうにかしようと思うと、無茶ぶりだけが目立つようになるのかも。かもかも。

 

最終目的は常に有効利用サイドに対抗できるのは、有効利用とはそもそも無縁かつ相性が悪い方で、対立しているできごとにそう補助線を引いてみると、一見複雑なできごとも至極わかりやすくなる。

 

常に不始末をしでかす方といつも後始末を任される方が、仲良しなわけないじゃん。で、説明だけはいつも簡単で単純明快。

作付面積日本一の景色

いちめんの白い花 いちめんの白い花 いちめんの白い花、それは蕎麦の花。


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作付面積日本一のそば粉の産地・幌加内に行ってみたのは夏で、ちょうど白い蕎麦の花が満開だった。

 

それなりの距離をドライブしてみたけれど、作付面積日本一だけあってどこまで行っても白い蕎麦の花畑。“作付面積日本一“とはこういう規模で景色なんだと実感して納得した。


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そば粉の産地で原材料供給地に徹しているせいか、どこまでいってもそば畑で行列ができるような蕎麦屋さんらしきものは見つからず。大口顧客が産地に店を出すならまた別で、産地とはそういうもので消費の出口のひとつ“美味しいお蕎麦屋さん”が産地に軒を連ねるようになると、きっと作付計画が狂って収量が落ちる。

 

札幌からだとかなり遠く、もうちょっとがんばれば稚内にだって着く。そういう場所だから四半期ごとといったショートスパンでなく長―いスパンで産業について考えることができる。

 

気候のいい時だけしか観光客らしきものは来ず、気候がいい時は収穫の時季とはズレている。そういう季節を選ぶと産地のお邪魔になることもないから、のんびり観光もできるのかも。かもかも。

 

ちょっと足を伸ばせば朱鞠内湖。響きがきれいで字面も美しい。名は体を表すように景色もいい湖で、ただきれいなだけじゃなくいまだ手つかずっぽい周辺の雰囲気もよかった。


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行ってきたのは長距離ドライブにちょうどいい夏で、本当は収穫前の“朱に染まった”そば畑も見に行きたかった。

 

草紅葉のようなもので、モミジやカエデあるいはイチョウの紅葉とはまた違った秋景色が楽しめそうだと思ったけれど、何しろ収穫前だから時期を見定めるのが難しく、ちょっと行って見てくるには遠い場所だから、“朱に染まった”そば畑を見るのはまたいつかで今度の楽しみに取っておく。

 

観光客が戻ってインバウンド観光が再び盛り上がると国際的観光地となった場所はきっと混みこみで混雑する。のんびり広々でのーびのーびとロコが楽しめるのは、観光客が二の足を踏むような場所。

 

観光客フレンドリーに整備された場所は、以前とは違って厳しさを感じることもないただ眺めるとキレイな自然が広がっているだけ。

 

フレンドリーではない厳しい自然により北海道らしさを感じるのなら、よりワイルドな方角に向かうしかない。

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そもそも細かに道の駅が整備されている時点ですでに、立ち往生するような厳しい自然は過去のもの。時には立ち往生を覚悟するようなワイルドで厳しい自然を堪能したかったら未整備な道へと向かうしかないけれど、そっちはきっと呆然とするほどワイルドで厳しい自然の歓迎が待ち構えていると思うの。

 

どこまで行っても家、住宅が続く土地は作付面積からいっても主要産業は不動産関連(税金含む)。主要産業が異なる土地に足を踏み入れたら、待っているのも違うルール。

クオリティ

従業員と原材料。この2つに困らなければ、事業は続けられる。従業員に原材料、どちらの質も高ければ、ただ長く続けるだけでなく質の高い事業が営める。

 

たくさんの本が並ぶ書店のなかでも、誰もが知るゆるやかにカーブしたMのマークはよく目立ち、マクドナルドについて書かれた本だとすぐわかった。

 

ヘビーユーザーでなくてもマクドナルド@日本といえば、買いやすい(=注文しやすい)システムと清潔な店内、礼儀正しくフレンドリーな店員さん(=クルー)のいるお店で、ちびっこやお子様連れに優しいお店というイメージがすぐ浮かぶ。

 

日本マクドナルド初の公式ビジネス書という触れ込みの『日本マクドナルド「挑戦と変革」の経営』という本の内容も、まさしくそんな感じ。

 

初代のユニフォームに見覚えはないけれど、それ以降のユニフォームには見覚えがあり、欠けたナンバーのユニフォームまで覚えている人はマクドナルド通。

 

50年の歴史は、それ以前の日本にはなかった文化やライフスタイルが定着してローカライズしていく過程でもあって、ローカルに特化したシステムがグローバルに見出され、グローバルのフィードバックを受けて変わっていく過程でもあった。

 

誰にでもできそうだけど、誰にでもできる、特に続けられることじゃない。

 

お店がきれいで使いやすくついでに見つけやすいのも、クルーがほどよくフレンドリーで感じよくあろうとしているのも、ハンバーガー類の値段を考えれば当たり前じゃない。

 

“凡”事徹底を繰り返せばレベルは上がり、“非凡”事徹底にまで達した。ということでもあるのかも。

 

バンズにパテをはさんだ食べ物がハンバーガーで、パテにもバンズにも凝ってリッチでグルメな方向に振れば、差別化しやすい。だからリッチでグルメなハンバーガーレストランは趣味性が高くなって非日常性が高くなる。

 

非日常性が高いものは日常では出番が少なく、趣味性が高くてリッチでグルメなものを安く提供し、できればチェーン展開しようとしたとき初めて、すっかり日常に溶け込んだマクドナルドの非凡さに気付くのかも。かもかも。

 

そして、マクドナルドの非凡さにようやく気付いた人達が大量に出現したところで満を持しての“公式”ビジネス書だとしたら、本当に抜け目なく世の中を見ている。

 

中食に冷凍食品も含めれば自炊以外の選択肢が増えたなか、マクドナルドの立ち位置といえば“温かい食べ物”がスマイル0円(←マクドナルドが言ってた)、きれいにお掃除された店内で食べられること。ドライブスルーという選択肢もあること。

 

お腹いっぱいになりたいけれど、お腹いっぱいにばかり大枚払うわけにはいかないファミリーが、安心して使えるお店はローカルに片寄りがち。

 

米みそ醤油ベースのローカルフードはエスニシティが強すぎて、口に合わなければアレルギーの問題もある。そういうファミリーが安心して使えるのはグローバルスタンダードなお店で、グローバルスタンダードはハイエンドだけに求められているわけでもない。

 

夏にはコーンご飯を炊いて、秋鮭の季節になると筋子からイクラのしょうゆ漬けを仕込んではらこ飯を作る。趣味性の高いローカルかつスローフードを作って食べて満足してる日々だから、マクドナルドの出番はあんまりない。

 

あんまりないだけで、普通に美味しいことはちゃんと知っているし、普通に美味しいものをお手頃価格で質の高い従業員と原材料を揃えて提供する難しさも知っている。

 

昨日より今日、今日より明日。ちびっこからじーちゃんばーちゃんまで、“よりよい明日”をめざしてみんな一緒にがんばれるあいだは「貧しくとも楽しいわが家」。

 

みんな一緒にがんばったから目標をクリアーして“よりよい明日”がやってきて貧しくなくなったけれど、「貧しくないけれど楽しくないわが家」となったとき、そのしわ寄せを受けるのは最も小さな者。

 

そして、貧しくないけれど楽しくないわが家に馴染めない小さき者を「豊かで楽しいわが家」が助けに来る。

 

という物語を読みたいと物色していたけれど、その種の読み物は過去の名作を漁るよりも、現実と現実のビジネス環境に対峙している分野で探した方が見つかりやすいんだろうとも思った。

 

ママから見たときにはYESでも、パパやあるいは“オヤジ”と呼ばれる方がぴったりくる関係性から見たときにはどうなんだろうと思う選択肢まで揃っているのが多様性で、どちらか一方に片寄り過ぎると、「貧しくないけれど楽しくないわが家」が生まれやすくなるんだろう。偏ってるから。

 

焼き立てのご飯バンズにふわふわのだし巻き卵。ソースはピリ辛な海苔の佃煮ペーストにマヨネーズ。というご飯バーガーを先日美味しく食べてきたけれど、バンズにパテという形をとっているとよく知るおにぎりであっても目新しく、きっとご飯の消費量も多かったはず。

 

挑戦も変化も、受け入れてくれる相手があってのものなんだと、色々なお店を見ているとつくづくそう感じる。