クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

今年のクリスマスをふりかえる

クリスマスプディング作りの始まりは、パン粉を作るところから。

 

まずはパンを乾燥させて、細かく砕いてパン粉にする。ついでにレーズン(今年はサルタナレーズンにしてみた)などのドライフルーツをラム酒に浸してやわらかく戻し、簡単に出来るデザートだから代わりに手間をかけて、特別感を勝手に演出する。

 

特別感が大事だから、毎年メインの主菜を何にするかで大いに悩む。

 

普段使いの食材ならグレードアップで。普段使わない食材はチャレンジの気持ちで、鹿肉のステーキにはフルーツとジャムその他で作ったベリーソースを合わせてみた。

 

ジビエならベリーソースだろうと、ビジュアル重視でテケトーに作ったベリーソースはレアに焼き上がった鹿肉にも合ったけれど、カマンベールチーズと一緒に食べるとより美味だった。

 

クリスマス用に特別感のあるカマンベールチーズ(北海道産)を選んでおいたけど、そういえば北海道産だったと思うくらい、クセは無いけど食感その他で個性のある洗練されたチーズで大変美味しかった。

 

カマンベールチーズといえばこんな感じでしょ?という固定化された味やイメージの予想を超えてくるものだったので、ものすごーく満足した。

 

食べ切れる量と種類を心がけ、彩りにこだわったマッシュポテトの応用、ポテトのリースサラダ(あるいはリングサラダ)はリースを飾るリボンのようなイメージで、きゅうりをカールさせてみた。野菜をカールさせる専用ツールもあったように思うけど、年に一度や二度使うかどうかなので人力で何とかしようとすると、やっぱり"クルクル"や"ヒラヒラ"にはなってくれず、食材で遊ぶハードルの高さを思い知る。

 

金時にんじんで作ったポタージュは、いつも作るにんじんポタージュよりも色鮮やかに仕上がって、星型に抜いたパプリカでも飾りたい気分で、クリスマス気分も勝手に上がる。

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鹿肉の翌日はリンゴのソテーを添えた骨付き鶏肉で軽めを心がけ、スープもレンズ豆のスープにしてポタージュよりあっさりと。

 

クリスマスプディングクロテッドクリームを添えたデザートのトッピングは、いちごサンタにいちごトナカイ、それにマシュマロ雪だるまで、ポテトのリースサラダ以上に作るのには手間取った。

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いろいろ作ったなかでいちばん大変だったのはマシュマロ雪だるま。次はいちごトナカイで、いちごサンタは何度か作ってるだけに大変ではないけど、可愛く仕上げるハードルは高いまま。年に一度しか作らないから、そりゃそうだ。

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(パーツをくっつける際にチョコの跡もベタベタついちゃって、苦労したのが丸わかり)

マシュマロ雪だるまは、可愛い表情を作るのも大変なら腕をくっ付けるのも大変だった。帽子とマフラーはいちごで作り、パーツを準備するまでは大変だけど比較的楽で、パーツを組み立てて形にするのは何といってもくっつかないから、大変。

 

工作と料理はまったくの別物で、カワイイへの道は険しく厳しいんだと痛感した。

 

今シーズン最強の寒波とともに迎えた今年のクリスマスは、まごうかたなきホワイトなホワイトクリスマスで、今も風が雪を舞い上げると視界は真っ白になる。

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今より流通も発達してなかった昔。それでもご馳走あるいは特別な何かを作ろうと思ったから、保存の効くものや素材が重宝されたという成り立ちや来歴は、今もあんまり変わらないんだと思う。

心得あるいは特技

育ちのいい良家のおぼっちゃま。おぼっちゃまだから相応に交友関係が広く、たびたび会食に招かれる機会のある紳士の心得あるいは特技として、シェフのプライドを傷つけずにコース料理を残す。というのはアリかもしれない。

 

会食の機会が増える、例えば年末年始のようなホリデーシーズンで、提供される料理すべてをいちいち平らげていたら、シーズンがひと段落したあとのウエストサイズが恐ろしい。

 

育ちのいいおぼっちゃま出身らしく、相応に大きなクローゼットととっかえひっかえのワードローブの持ち合わせ(サイズも豊富)があればともかく。ジャストサイズのよそゆきは一着きりのように大変心許ない状態だと、安易に太れない。

 

コース料理のなかでも、最も気合いの入った一品だけは決して食べ残さずあとはつまむだけ。という、いってみれば選球眼が磨かれるのは場数を踏んでいるからで、場数を踏んでいるのがおぼっちゃま。

 

そこがアウェーの場所で、二度があるかどうかもわからないような場所ならともかく。

 

二度三度が必ずある場所や機会で、もてなす側の気分を損ねず自身の体調とも相談しながら多数の会食をこなせるなら猛者。

 

例えば会食続きで膨満感が満載。あるいは二日酔い気味といった万全ではない体調でも会食の機会が用意されているのが、相応の立場や交友関係のある人で、いつでもどんな時でももてなす側の顔を立てることを忘れない。そんな振舞いを続けていると、“良家のおぼっちゃま”の立場も補強される。

 

その匙加減がわからないまま会食が続くシーズンを迎えると、食べ残せなくてあっという間にオーバーサイズになったりあるいは早々にドクターストップを食らったりで、タスクとしての社交をこなせないままシーズンが終わる。

 

何代か続いた、歴史も余裕もある良家のおぼっちゃまがその長所とメリットを生かせるのは“社交性”で、歴史や余裕に紐付いたおぼっちゃまの交友関係と交友術は、おぼっちゃまゆえの資産で財産。財産の継承に関心の深いアドバイザーでもいると、社交に引っ張り出される機会も増える。

 

歴史はないけど余裕だけはたっぷりある、これから名家になろうとする予備軍のおぼっちゃまに必要なものはお手本で、お手本となる名家のおぼっちゃまが来ない社交の場は社交の場として機能せず別のものになる。

 

名家のおぼっちゃまが体現する歴史や余裕がないと、歴史もなく余裕もないと見下されがちで侮られがち。だから、歴史も余裕もあるんだということを機会を選んでアピールするのも、名家のおぼっちゃまやその予備軍のお仕事のひとつ。

 

名家のおぼっちゃま予備軍が、名家のおぼっちゃまを見習うようになるのは、その歴史や余裕由来の威光を見せつけられたときで、予備軍とおぼっちゃまへの分かれ道。

 

 

定点観測から見る変化

12月9日の時点ではまだ地面が見えていて、まったく積雪の気配もなかった大通り公園。

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せっかくのホワイトイルミネーションもホワイトが欠けるとちょっと、だーいぶ残念な感じだった。12月もなかばになろうかという12月13日には、ようやく地面が隠れるほどの雪が降ったけれどすぐ融けた。

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17日になってようやく本格的な雪が降り、一夜にして銀世界へ。木々にはまだ葉っぱが残り、例年より暖かだったという体感を裏付けてるよう。24時間では記録的な降雪となったせいで、大通公園もあっという間に雪まみれ。フクロウも馬も寒そう。

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ホワイトを背景にするとやっぱり大変にフォトジェニックで、この寒さが当分続くならホワイトクリスマスにも期待できそう。

 

190万人が暮らす都市にしては雪が多く、雪が降るから地下街が発達したりと他の都市にはない個性になっている。ライフスタイルによっては雨風も関係なしか影響は極小で、“雨風関係なし”という似た個性を持つ他の都市との親和性も、より高くなるのかも。かもかも。

 

ひと晩で銀世界に変わる。そういう環境だから、昨日まではハイヒールで歩けても、銀世界に変わるとスノーシューズが必須。

 

靴もコート類などの防寒着も、雨風に左右されるライフスタイルだと実用性重視で選ぶ時の基準は何といってもまずは機能で、作り手サイドに機能ファーストの人がいるとアピールするポイントも機能性や実用性で、装飾性はそのあと。

 

機能性や実用性をアピールする必要もないほど実用的な機能装備が当たり前で標準になると、作り手がアピールするポイントも装飾性に偏ってくるけれど。

 

装飾を競ううちに実用性や機能性がはがれ落ちて標準だった機能が欠けて、作り手にはもう機能ファーストの人がいないことが一目瞭然になる。

 

実用や機能で選ばれていたものがまったくの別モノになると、実用からも機能からも遠いものから、真っ先に選ばれるようになるのかも。

 

求める機能が標準になるまで機能を追求するのは、ある種の市場開拓。だから機能を追求すると大きな市場が転がり込んでくることもある反面、機能に背を向けて装飾を選ぶとシュリンクする市場に接続されることになるのかも。かもかも。

いってらっしゃーい

鰊のオイル漬けをオイルソースごとフライパンで香ばしく焼き、鍋はだからお醤油をチョットだけ回し掛けて、大根おろしを盛ったご飯の上にトッピング。海苔や葱、あるいはカイワレなどを彩りに添えると、オイルサーディン丼をアレンジしたオイルヘリング丼の出来上がり。

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オイルサーディン丼を初めて知ったのは、当時人気だった女流作家のエッセイで、文字だけを頼りにテキトーに作り始めてからとっくに四半世紀は過ぎている。

 

家庭で簡単に出来るレシピだからか、カフェやレストランで見掛けたことがあるのは一度だけ。確か、神楽坂近くの小さなカフェだった。

 

油漬けという調理法あるいは保存法は、塩漬けや砂糖漬け、あるいは糠漬けよりもきっと新しい。新しい食材だから、色々な使い方をされずに例えばお酒のおつまみといった狭い使い方しかされてなかったんじゃないかと思う。

 

酒のつまみでは酒呑みの間にしか広がらず、酒のつまみだとニッチな食材だったものがご飯にも合うことが知られ、ご飯にも合うなら麺にも合うしピザにも合う。と、家庭のご飯の洋食化が進むとともに、ニッチだったものがニッチとは言えないような食材にまで成長したんだと思うと、楽しい。

 

現在に置き換えると、水煮や味噌煮以外のバリエーションも増えた、鯖缶もそうかも。

 

成長を見守るのは楽しいから、成長を見守るという感覚は購買に繋げやすく、購買に繋がりやすいからより大きなマーケットにも出しやすい。

 

グローバルに繋がりやすいのは、ローカルからいってらっしゃいと快く送り出せるもので、苛烈で厳しいグローバルな競争に快く送り出せるのは、ローカルに対して苛烈で厳しかったものの方。

 

苛烈で厳しいものがローカルから切り離されると、ローカルに残るのは優しい世界。だから、快く送り出してもらえる。

 

酷いことしやがる。

 

ローカルな世界にグローバルが接近した時に起こるのは往々にして残酷な出来事で、植民地主義はその最たるもの。

 

酷いことの上に築かれた新しいものは、酷いことを見てるしかなかった人々からはソッポを向かれがちで、ローカルなマーケットや販路からも零れ落ちがち。だからローカルなものであっても販路やマーケットはグローバルに求めるしかなくなって、ローカルがグローバルと直結し、出自はごくローカルなものがグローバルマーケットでそれなりのポジションを占めるようになるんだと思う。

 

本来味覚は保守で、保守に傾くのはライフスタイルやライフスタイル由来の市場の存在が大きいからで、食生活が大きく変わるのは、ライフスタイルが大きく変わった時。

 

例えばレシピ本。今では2人前がスタンダードで、4人前だとちょっと古く、1人前だとより新しく感じるのは、変わったライフスタイルに合わせているから。

 

ライフスタイルはすでに変わっているのに、市場や市場を支える販路や販売網は変わらないまま、そのしわ寄せを生産者、供給の側にだけ寄せると酷いことが起こりがちで、需要のないものを作らされ、作ったものは廃棄が許されずに自己消費が義務付けられたりして、酷いことが誰の目にも明らかになる。

 

その昔、グレープフルーツの輸入やあるいは関税が引き下げられるかで自由化されて、安価で食べやすい食材になった時。ミカン農家が可哀想だからグレープフルーツは食べる気がしなかったという声を聞いたことがあるけれど。

 

可哀想で柑橘類の需要が減って、市場がシュリンクするともっと可哀想なことになる。

 

グレープフルーツは、自分で食べやすいようにカットして食べるもの。そう思っていたので、食べやすくカット済みされたグレープフルーツのコンポートを初めて見た時は、なんて便利なんだろうと思った。

 

便利だと思ったけれど、重宝したのは忙しかった時だけで、時間に余裕が出来ると工業製品よりも自作する方を選び、フレッシュフルーツそのものをより好みするようになる。

 

可哀想で動く市場と、可哀想で動く市場の力学に左右されて工業製品と農産物と。一次産業と二次産業を行ったり来たりする生産者サイドと。

 

感情に左右される環境下で、誰が最もちゃっかりしっかり儲けているのかを知ることは、ものすごーく良い経済のお勉強になってお金の勉強になるはず。

コストパフォーマンス

情報量の多寡は、音読するとよくわかる。

 

30分で読み終わるものは30分相当の情報量しかなく、読み終わるまでに数時間あるいは数日かかるなら、みっちりぎっしり情報が詰まっている。

 

文字数や頁数は同程度でも、読み下す・読み終わるまでにより時間を要する方には、ショートカットされた情報がふんだんに詰まっているはず。

 

ショートカットされた情報は、ちゃんと説明しようとするとより文字数を食うもので、スペースという制約があると、ショートカットのテクニックも磨かれる。テクニックが詰まっているから情報量が多く、情報摂取のコスパがいいということになる。

 

制約から生まれたテクニックは一種の圧縮だから、伸ばすことも、伸ばして切り貼りすることも可能で、再利用できる。

 

だから再利用が前提で、再利用を前提としていなかったら、この種の小技も生まれてこない。

 

情報がみっちりぎっちりで、読み下す・読み終わるまでに相当の時間を要するものは、万人向けに書かれていても万人向けではなく、相応の情報を必要とする人向けで、専門職向け。

 

例えば、分厚〜い決算資料をすみずみまで読み込んで、与えられた情報に対して読了した人なりの所見を加えるのは、アナリスト。決算資料の場合はそもそも義務だから、ギフトでも何でもないけれど。

 

義務を超えた、抱負でふんだんな情報はギフトで、ギフトだから粗末に扱うとギフトは続かず、有り難く頂戴する人や側に、ギフトが届くようになる。

 

贈り物が届くと嬉しい。喜んでくれるから、贈り甲斐がある。その関係性に義務や強制の色合いが色濃くなると朝貢関係のようになり、朝貢だから貢ぐ方は貢ぐに足る理由を探すようになる。

 

贈って贈られてでギフトが行き来するのは単なる友好で、単なる友好だから、贈り物に他意はない。

 

他意のある、例えば贈らねば・受け取らねば・受け取ったものには礼を尽くさねばと、義務が先に立つ関係は、友好とはまた別のもの。

 

受け取る側にとってお得なものは、贈る側からのギフト。ギフトだから、本来次もあるとは限らない。次があるとは限らない。一度切りでいいのならと、気前よく多方面で同時多発的にギフトが降り注いでいるのなら、それはむしろ需給調整の一環で、欠乏や窮乏に対する贖罪なのかも。かもかも。

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去年も雪が少なかったけれど今年はさらに雪が少なくて、12月もなかばだというのに街中には雪の気配全くなし。雪の真っ白いキャンバスが背景だと、より映えるイルミネーションも雪なしだと、ちょっと、だーいぶ、物足りない感じ。雪があると、もっとキレイなんだけど。

 

ライフスタイル

朝はパンにコーヒー、昼は蕎麦。夜はビールか日本酒で晩酌しながらのご飯食。

 

思えば高級サラリーマン・デスクワーク系の食生活は、日本の食糧自給を考える時には大変わかりやすいものだった。

 

手間がかかるのでそう頻繁には作れないけど、自分にとっての理想の朝ご飯は、今のところこんな感じ。

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ご飯ほど胃にずっしりと重くはないお茶粥を、和惣菜と一緒にサラサラと胃に流し込むと、ほどよい満腹感。

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ご飯とお味噌汁に、動物性や植物性のたんぱく質しっかり野菜もたっぷり。栄養満点の朝ご飯を朝から美味しく頂こうと思ったら、がっつり運動して腹ペコか、前の晩には大したものを食べてないから腹ペコじゃないと、満腹を通り越して膨満感でいっぱいになる。

 

だから、ちゃんとした夕食が出てくるのであれば朝は軽くてもよく、ついでに時間もかけられないからパン食で簡単に済まし、昼も麺類であっさり済ますのは、食べ過ぎ防止の肥満対策。

 

スーツという型にはまった窮屈な服装はサラリーマンの鎧で、思えば体型管理と維持に大変お役立ち。スーツや制服のように、鎧ともいえる服装で過ごす時間が長い人ほど、体系管理や維持に熱心で痩身。というデータでもあれば、いいんだけど。

 

首元を締め付けるものはなし、ウエストも伸び~るでのーびのび。という服装は、体重が増えて体型が変わっていても気付きにくい。だから必要があってスーツを取り出したものの、とても以前のように着こなすわけにはいかず、慌てて買い直すことになる。

 

鎧が、あるといえばあるんだけど。

 

その鎧に体型がフィットせず、着られなかったら鎧は単なる飾り。体型が変わるという経験は、服を買い直すいいきっかけで、買い直しを面倒に感じると、首元を締め付けずウエストも伸び~るでのーびのびな和装や、あるいはもっとカジュアルな方向に行くのかも。

 

体型の変化を最初から織り込み済みだと、買い直すきっかけはさらに遠くなる。

 

同調圧力という周囲の視線もなくなると、変わり映えしない服装が変化するのは欲しいものがあった時という曖昧なものになる。

 

例えば食生活や日常的に身に着けるもの。そうしたものは、確たるライフスタイルに貫かれている方が、供給する側としては何かとやりやすい。

 

朝はパンにコーヒー、昼は蕎麦。夜はビールか日本酒がついたご飯中心の食生活で、仕事がある日はスーツがメインで、スーツはシャツやネクタイほどとっかえひっかえしなくてもいい。

 

というライフスタイルは、以前ほど強固でないのはきっと通勤電車の車内でも見れば一目瞭然。一目瞭然の事実を見なくなると、いろんなところでいろんなものが形ばかりになって、お飾りが増えていくんだと思う。

 

そして飾る場所がなくなると、事実に即して実用的なものに目を向けるようになるんだな、きっと。実務に通じた実用家がとかく重宝されるその場所は、お飾りだらけなんだと思えば納得。

売って利益を出すなら不動産屋

名の知れた由緒ある大寺院でも時には移転して、創建の場所にそのままあるとは限らない。

 

とはいえ移転するなてありえないのは鎮守の森を持つ神社系で、そもそも自然崇拝色が強いから、土地と切り離すなんてナンセンス。

 

ご神体は山や滝。正確な創建はいつだったのか、はっきりとしないほど古くなるほどに、その土地由来という性格も強くなる。

 

創建の地にしばられず、“もっといい場所が見つかったから”で移転を繰り返すなら、それは宗教施設でも何でもなくて、もはや不動産屋。普通の不動産屋と違うのは、短期利益を追わず、超長期スパンで利益を出すところ。

 

半世紀や一世紀、あるいは二世紀・三世紀。国よりも、庇護を受けた王朝よりも、長く続いた宗教はいくつもあり、長く続けようと思った時に真っ先に考えるのはお金のこと。

 

広告塔に、清貧なイメージがより強く求められるのなら強欲の裏返しで、強欲あるいは強面(こわもて)を敢えて強く押し出すのはそもそも清貧だから。と、考えるとちょっと面白い。

 

現在の税制はもちろん、利殖にも詳しいのなら金銭面ではしたたかで、したたかだからきっと時代にもちゃんと追いついているはず。

 

長く続けようと思ったとき、真っ先に考える金銭のことよりも、宗教の本質を考えたときに道は分かれ、新宗教が生まれてくるのかも。

 

興味関心のうすい分野については、ランキング上位から選びがち。だから、ランキング上位に顔を出すものについては興味関心のうすい人だって知っている。

 

例えばエンタメ界隈が、ベストセラーやミリオンセラーだけで出来上がっていないように、宗教も宗教年鑑的なものを眺めると、毎年新しい名が追加されて、古い名や古くなれなかった名が消えていくのかも。かもかも。

 

ベストセラーとミリオンセラーしかない状態は、別の言い方をすればベストセラーとミリオンセラーの他には売るものがない、欠品が目立つ状態。欠品ばかりだと売るものが無くなり、新しいものは並ばず、古いものが売り切れたらそれまで。

 

新しいものは出てこない。古いものは順次消えていく。というのは考えなくてもよろしくない状態で、代わりに空白を埋めるのは何かと考えたとき、プライスレスの価値が上がるのかも。

 

12月に入ったとはいえ、雪の気配はうすい。今夜くらいには降るらしいけど。雪が積もらないと色んなものが地面に落ちたまんまで、思えば雪はいいカモフラージュだった。

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(先週雪が降った時のもの。こういう生地の和菓子があったはず)