クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

三代目はジェントルマン神話を考える

朝ご飯はパンかご飯か。

 

ご飯派なら、ご飯の友は何を好むのかで定番は決まっていき、定番だったはずのご飯の友が、ある時を境に続々と手に入りやすい場所から消えていくと、大抵は何かが変だと思う。

 

手に入りやすい代替品でも満足できたら、定番の入れ替え時。その一方で、試行錯誤の末にたどり着いた定番にこだわりがあれば、消えた定番を追って捜索範囲を広げていく。それまで使わなかったツールが、捜索に便利だと実感すると、なじみのなかったツールの使用にも前のめり。(←顧客の創造)

 

消えた定番を追って捜索範囲をひろげるうちに、定番消失の裏には、原材料調達に問題が発生しているとわかった時、できることの多い人は何らかの手を打つか何らかの手を回す。

 

三代目はジェントルマンで、代を重ねるごとに紳士に近付いていくのは、“馴染みのものが消えていく”ことに危機感を抱くと、保護や育成に乗り出すからで個人的には納得してる。

 

定番の入れ替えでは満足できないなら、新しいものには満足できない。

 

新しいものに満足できないから、満足できる古いものの保護や育成に乗り出すのなら、まずはダイレクトに見返りが返ってくる身内からとなって、ジジババの財布が孫のために開く。

 

苦楽を共にしがちで一心同体になりがちで、時に愛情が複雑骨折しがちな二代目と違って、三代目には愛情も愛情を形にしたものもふんだんに注ぎやすい。

 

ふんだんに愛情その他を注がれた三代目は、コンプレックスから自由。

 

自由だから、愛情の返報性、愛情に愛情が返ってくる確率が増して、保護や育成もスムーズに進む。

 

目的は保護や育成で、何しろ相手はちびっこ。どう頑張ったところで、じじばばのようにはなれないちびっこ。

 

二代目と違って複雑骨折した愛情なんてなーんにもないから、愛の鞭なんて不要で無用。保護や育成に支障でも生じたら、手厚い保護策や庇護策を発動するにもためらいがない。むしろ保護や育成対象なんだと折に触れて知らしめるためにも、ジジやババは介入のキッカケを待ってさえいるかもしれない。

 

ジジババを、産業だと考えた時。ジジババ大好きっ子は、特定の会社ではなく特定の産業のために働く人材となって産業の寿命が延びてゆき、延びてゆく産業とともに成長する紳士が誕生して、三代目はジェントルマン神話が補強されていく。

 

その一方で、ジジババ大好きっ子が生まれないままだと会社は寿命を迎えて、売家と唐様で書く三代目神話への道をたどるのかも。

 

ちびっこが大きくなるためには、知識や経験に栄養をつけるための軍資金だって必要で、ちびっこの成長を単純に喜べるのなら、与えた知識も経験も栄養だって無駄にはならず(←損金処理)、ちびっこはちびっこなりに、ジジババが望んだ方へと向かってる。

 

援助する側 > 援助される側の関係性がいつまでたってもそのまんまなのは、社会から流動性が失われている状態で、援助する側とされる側の関係が逆転していれば、社会に流動性が溢れている。

 

ジェントルマン増は保守化の兆しで、ならず者増だったら革新化の兆し。増えたならず者が一斉に老いて、みなが一様に孫に紳士を望んだ時も巷にはジェントルマンが溢れ、表層では保守化が進んだように見えるけれど。

 

表層ではジェントルマンとして現れるその孫は、実はいつまでたってもジジババ大好きっ子かもしれないのでならず者の系譜も途絶えることはなく、一見しただけではよりわかりづらいハイブリッドとなって”秘蔵っ子”が存続していくのかも。

幼年期の終わり

大雑把に言って、お弁当箱には2つの種類がある。

 

ご飯とおかずを一緒に詰める一段のものと、ご飯とおかずを別々に詰める二段のものと。お弁当を作るのも詰めるのも、使い終わったお弁当箱を洗うのも自分ひとりだったら、迷わず一段のものを選ぶ。

 

お弁当を作るのが毎日のことで作業だったら、一日当たりの作業数が少なくなる方を選びたい。

 

週一あるいは月一で、気が向いた時だけ作るんだったら作業や苦行ではなく単なる余暇だから、二段のものでも全然構わない。

 

余暇でレジャーは要するに遊びだから、遊び心いっぱいに遊べる。制約の多い方がより遊び心が刺激されるのなら、時間的にも気持ち的にも余裕が有り余っている。

 

めいっぱい遊んでいるから、楽しそうな雰囲気でいっぱい。

 

そういうものに、真面目にやれと注文をつけるのはナンセンスで、ナンセンスな相手に真正面から真面目にやり返すと、例えばお弁当だったらご飯に梅干しだけの日の丸弁当や真っ茶色のお弁当が出てくるようになるんだな、きっと。

 

作る作業と詰める作業。別々だとカラフルになって、キャラ弁みたいにビジュアル重視で遊んだりもできるけれど、労働力に限りある状態で要求水準ばかり高くなると、不満だけが募って日の丸弁当に近付いていく。

 

毎日なら労働や作業で、作業だったら省力化やローテーションを取り入れる。週一や月一なら余暇で、よりよい暇の潰し方を考える。毎日の作業にも関わらず、省力化の気配がちっともなかったら、芸を究めにいっている。

 

お弁当でもご飯でも。人が作ったものを見るのが好きだけど、見ているのは作業技術。省力化や暇の潰し方や芸の極め方。結局は、そんなものを見てる。

 

2月は逃げるであっという間。建国記念に天皇誕生日と祝日が2日もあったから、体感的には28日よりもっと短かった。

 

お餅やおこわにお弁当、混ぜご飯にスコーンやドーナツにケーキや甘酒パンにそば粉のガレット。28日のうち、買って済ませたパン食の朝ごはんが16日間で、その他、お餅にお米、そば粉に家庭内消費の小麦粉で済ませたのが12日間。

 

家庭内の小麦粉消費をもっと増やすか、お米の消費量を増やすか。それとも消費は家庭外に求めるか。

 

家計防衛ファーストの献立は、だいたい味気ない。

 

家計を防衛しつつ作業技術を磨きつつ、余暇の潰し方も詰まった料理本は学びが多いからお得感もいっぱいで、お得感がいっぱいだからお得が返ってくる。

 

余暇の潰し方しか考えてなかったレジャー担当が、省力化や家計防衛を考え始めると幼年期も終わりに近付いて、その成長が嬉しいようでちょっと寂しいような。

眺めのいい場所

きれいなお庭で有名な、眺めのいい場所にある観光地のとある寺社を訪れた時のこと。

 

眺めがいいのは、辺鄙な場所にあるから。きれいなお庭と眺めを堪能しているすぐそばで、どうすれば寺社の持ち物であるお墓に入れるのかと尋ねている、ひとり旅の人がいた。

 

軽く20年は前のこと。後を見る人がいない方の新規受け入れはお断りしてますと寺社の人は丁寧に答えていたけれど、今だったらどう答えるのか。核家族が増えたら、「後を見る人がいない」ケースは増えていく。

 

多様性のある社会と言った時。まず最初にイメージするのは、元気にアクティブに動き回る人物像で、動き回る人の目も髪も肌の色もバラバラな老若男女が揃っていると、とりあえず多様なんだと思える。

 

目も髪も肌の色もバラバラな老若男女が揃っていた社会そのものは、古代にだってあったに違いないんだけどさ。多様な社会の構成員各々に人権が保障された多様な社会は、多様でなかった社会よりずっと歴史が浅い。

 

だから多様な人たちが死後に眠る場所も、アクティブに動き回る多様な人物像を反映して多様性にあふれていれば、死後の多様性もちゃんと担保されていると言えるし思えるんだけど。

 

死後に眠る場所はまだ多様ではなくて、好みではないけれど何しろ急ぎのことだから郷に入れば郷に従うで、“その地の伝統”に準じているのか否かが気になるところ。

 

観光地だけど辺鄙な場所にある、知る人ぞ知るような場所に、一見のそれも外国人が来やすいかというと、どっちかというまでもなく敷居が高い。

 

敷居が高くないのは有名観光大寺院の方で、大寺院で色んな訪問客がいるから多様性に対してもともと免疫がある。

 

アクティブに動き回る多様な人物像を反映していれば、死後に眠る場所にも多様性があるはず。死後に眠る場所は現在多様性に向けて準備中だから、アクティブに動き回る人物からも多様性が失われていれば、生と死が繋がっている。

 

入り口と出口。出口の多様性は失われているかそもそもないのに、入り口の多様性だけは活発でアクティブだと、生と死が繋がってる気がちっともしない。

 

目も髪も肌の色も、何なら年齢といった見た目はバラバラなんだけど、中身はみ~んな一緒で一様だと、そもそも多様性を気にすることもない。

 

有名な会社の菩提寺となっている有名観光寺院を初めて見た時は、そんなものもあるんだと思った。明治維新に富国強兵に戦争で経済成長に。後ろではなく前しか見てなかった人たちが安心して眠れるのは、ともに前を向いていた人達のそばなんだと考えると、違和感は何もない。

聖と俗

応仁の乱から戦国時代といえば、荒廃というイメージがぴったりくる。

 

国境のような大きなものから、集落を隔てる小さなものまで。境界をめぐって、そこかしこで小競り合いが起こっているのが荒廃の具体的なイメージ。

 

大きなものから小さなものまで。戦費に生産が追いつかず、生産が蓄えに回らず使うばっかりだと、そりゃ土地は荒れるわな。

 

だから、土地の荒廃にも構わず戦(いくさ)に明け暮れているのなら、経済観念が発達してない何よりの証拠。経済観念が発達すると、戦費を楽に調達するためにも生産に力を入れるようになって、蓄えることにも気を配る。

 

古い言い方だと兵農分離で、生産と兵力で役割分担ができていると生産が貯蓄に回りやすい。皆兵で誰もが兵力を担うばかりで生産は蔑ろだと、戦費に生産が追いつかずにいつまでたっても蓄えができないから、いつまでたっても戦から逃れられないのは、今も昔もきっと変わらない。

 

時々、ケーキやケーキっぽいパンを焼く。

 

心がけているのは、どこでも手に入るありふれた材料で作ること。普及品しか使ってない。なのに、特に出来立てだと十分に美味しくて、そのたびに普及品のレベルの高さに感心する。

 

大量生産に大量供給で、量が増えるほどに質が向上する普及品はエンドユーザーの方を向いていて、量が増えるほどに質が劣化する普及品は、エンドユーザーとは別の方向を向いていると実感する。

 

どこの製品を選んでも、普及品のレベルに大差がない時は競争力的なものが拮抗している状態で、普及品のはずなのに個々の製品レベルに甚だしいバラツキがある時は、もう競争にさえなってない状態なんだと、これも勝手に思ってる。

 

超人ではない個人や集団が、競争にさえなってない、競争しなくてもいい状態になると何が起こるのか。

 

わかっている側が次にやることは、競争にさえなってない・ならない状態から競争できるレベルにまで引き上げることで、超人ではない個人や集団が一強を保つのはラクじゃない。

 

超人ではない個人や集団は、腐っていく。腐るから強いままではいられず、強くないその肩の上に、アトラスのように大きな何かを背負っていたら、その重みに負ける。

 

腐らない個人や集団は超人や超人集団となって、客観的に見た時には“聖なる”という形容詞がよく似合う権威に近付いていく。超人や超人集団が、腐らないための超人的努力を重ねていくと、益々すぐに腐る個人や集団とは乖離していくばかり。

 

だから競争にさえならない、本来は普及品のはずだった個々の製品にひどいバラツキが生まれるような状態は、案外超人や超人集団がもたらすものなのかも。

 

量を取るのか、質を取るのかを考えた時。

 

質を取ると、数が揃わないから普及品にはなれない。まずは数を揃え、揃ったところで質を上げていくようにすると普及品の量産体制が出来上がり、質と量を備えた普及品が普及する。

 

普及品のレベルは、ちっーとも上がってない。

 

なのに、本来普及品のレベルを引き上げることが本来業務なはずの、個人や集団の超人レベルだけは上がりまくりじゃん?あんたたちだけが、普及品からどんどん乖離してゆくばかりじゃん?

 

という時が、質と量のどちらを選ぶのかのターニングポイントになるんだろう。

 

何年もダラダラと争いだけが続き、争点が何かさえもはやよくわからない、歴史上の事件名だけが有名な出来事は、聖権力と俗権力の諍いという要素を考えると、よりわかりやすくなった。

 

俗権力は、個人や集団が腐ることにより自覚的で、聖権力は、腐らないように超人的努力を絶やさないというポーズを崩せないのが、きっと諍いのもと。腐らないように超人的努力を絶やさないというポーズが、聖権力の虎の尾で、虎の尾を踏みに行ったのが、ルターやカルヴァンで信長だったと考えると、遠い昔の出来事もすごーく身近になる。

精神的にきつい方が、ダメージは大きい

きつい・汚い・危険。頭にくる三つを並べて3K職場。

 

体力的あるいは物理的にきつくて、実際問題として汚れるから洗濯が必要で、時には怪我するから危ないと言われていた。

 

物理的なものは改善の余地が充分にあって、物理的なものは成果がわかりやすくて目にもみえるから、改善に向かうとあっという間。

 

例えば、運動不足なのに食べ過ぎが常態になると太って当たり前で、運動量を増やして食べる量を減らせば、だいたい痩せる。だから、食べても太らない人を太らせる方が、大抵の場合は難しい。

 

運動なんか全然しない。だけど、食べる量は人一倍どころか二倍三倍。なのに、太るどころかちっとも太らずやせ細っていくだけ。という場合は物理的な法則を裏切っているので、きっと改善するのもより難しい。

 

厄介なのは、物理的ではなく精神的な3K職場の方。

 

精神的にきつく、平常心が保てない。あるいは平常心が脅かされる。フェアかアンフェアかでいえば断然アンフェアだから汚く、精神的なダメージが大きくて尾を引くからより危険なのが、個人的な独断による精神的3K職場。

 

一見すると、きつくもなく汚くもなく、危険そうにも見えない。なのに人が定着しないのは、精神的な3K職場だから。

 

という視点で眺めると、いわゆるホワイト職場やブラック職場という単純な区別だけでは見えてこない、別の側面も見えてきそう。

 

ホワイトにもブラックにも濃淡があって、白か黒かで単純化すればいわゆるブラックなんだけど。

 

どこからどう見ても真っ黒なものと、黒がどんどん白に薄められて限りなくグレイに近付いていったものは、濃淡がわかる側にとってはブラックとして一律に扱うのは違和感があり過ぎる。

 

古典の世界では偉大な先人が多過ぎるから、先人の偉業を讃えるが偉大な先人に近付く第一歩となって、「何々流」や「何々派」といった流派や派閥が生まれるのかも。

 

先人の偉業や偉大さを讃えること一色に染まると、そのジャンルは閉じていって、もう二度と偉大な先人を超える何者かは生まれてこなくなるのかも。

 

「何々流」や「何々派」といった流派や派閥の臭いがするだけで、そこはもう充分に古臭い。

 

「何々流」や「何々派」といった流派や派閥にジャンルが席巻され、偏り始める前に脱出に成功すると、まだ閉じてない、新しいことが攻撃されずに喜ばれて歓迎される。そういうジャンルに近付けるのかも。

余裕の産物は余裕の賜物

余裕の産物を、物心なんてとっくについてから究めようとしても、大体ヨユーであっという間に打ちのめされる。

 

時間とお金。ともに不自由しない人向けなのが、余裕の産物。だから、時間にもお金(予算ともいう)にも事欠きながら、時間にもお金にも不自由しない人向けの何かを究めようとしても無理がある。

 

時間が足りない。お金が続かない。なのに、時間にもお金にも不自由しない相手と同じ土俵で戦おうとしても、後方支援が足りなさ過ぎる。何よりも、時間にもお金にも事欠きながら極めたからこそ産まれた努力の結晶を、時間にもお金にも不自由しない相手にハイ、どうぞと快く差し出せるかと言えば、きっと無理。

 

感情の問題にお金でカタをつけようと思った時に、真っ先に必要になるのは大金で、感情の問題なのにケチるといつまでも感情のしこりはそのまんま。

 

お金を扱う仕事に就きながら、金銭のやり取りとともに発生する感情に鈍感だと、いつまでたっても本当に余裕のある人向けの余裕の産物は、扱えないし扱わせてもらえない。

 

金銭のやり取りとともに発生する感情が、扱い難いなんてことはとっくに知ってるからこそ扱わないのなら、逆に感情の機微に通じているとも言える。そういう人は、自身が得意なフィールドから離れないんだろうと思う。

 

感情の機微に通じていながら、感情の機微がどこよりも何よりも要求されるフィールドは決してめざさない。もしも、そうとしか見えない行動を取っていたら、その人は他人の二倍あるいは三倍も感情の機微を発揮したくないからなのかも。

 

金銭のやり取りとともに発生する感情に通じた人がデザインすると、感情の流れもスムーズ。金銭のやり取りとともに発生する感情の機微に通じていない人がデザインすると、感情もそこかしこで滞る。

 

金銭のやり取りとともに発生する、感情の機微に通じようと思った時。才能を目覚めさせるより早くから慣れさせるが正解で、幼少期から通じている方が、やっぱり有利。

 

時間にもお金にも、いつも余裕があって余裕の産物に囲まれている。そういう人は環境の賜物で、まず何よりも、金銭のやり取りとともに発生する感情にこそ通じているのかも。

奇書が生まれてくる背景

世の中には、奇書としか表現しようのないものがある。

 

文字から映像。長いものからより短いものへと、好まれる表現の形がすっかり様変わりした現在から考えると、とんでもなく長尺で難解で、わかりやすさとは距離がある。例えば『大菩薩峠』や、『南総里見八犬伝』。そこまで長くはないけど、『虚無への供物』や『ドグラ・マグラ』などなど。あるいは『薔薇の名前』なんかも、そこに含めてもいいのかも。

 

とんでもなく長くて、しかも内容が内容だから爽快感とは真逆にありそうなものだから、読み通したことがあるのは『虚無への供物』だけ。読んだ当時の感想としては、なんだかよくわからないでしかなかった。

 

今でもやっぱり奇書には興味関心が薄いけれど、奇書が生まれてくる背景にはそれなりに関心がある。

 

例えば『虚無への供物』は、日本史上における最悪の海難事故から生まれたと聞いたことがある。あんな事故がなければ生まれてこなかった。作中での事故の扱い方はどうであれ、そういう意味だと理解している。

 

そう捉えると悪趣味と紙一重。ではあるけれど、実際に読んだときは、悪趣味よりもただひたすら訳が分からなかった。悪趣味を覆い隠すためにわざと衒学的、わざとらしく大袈裟な表現に走ってるのかもしれないけれど、作為なのか無作為なのかもわかりにくかった。

 

大菩薩峠』も相当意味がわからない読み物っぽいので、畏れ多くて手が出せない。

 

だから、一見すると奇書としか表現しようのない、意味が分からないのに読み物としてそれなりに成立しているものは、意味の分からないことに意味がわからないまま巻き込まれた、カオスの渦中にある人がカオスそのものを見つめたもの。だと思うようになった。

 

後世まで残るような、それも史上最悪と枕詞につくような出来事の矢面に立たされる。どう考えても75日では記憶から消えないような事件や事故の渦中、それも矢面に立たされた人の心中はどうかと考えると、きっとカオス。

 

どこかの誰かが、意味の分からないことに意味がわからないまま巻き込まれ、鎮まることのないカオスを抱えたままの人に、また別のどこかの誰かが聞き書きする。あるいは側聞したり勝手にヒントにすると、奇書が生まれてくるのかも。

 

大菩薩峠』は、何十年も連載が続いたものだったとか。

 

例えばそれを、意味のわからないことに意味がわからないまま巻き込まれ、カオスを抱えたまま生きることになった人を見続けていたら、数十年なんてあっという間だったと読み替えた時。カオスを抱えたまま生きることになる人が、一人ではなくもっともっと多数だったら、見つめ続ける方に余裕と体力がないと、続けられない。

 

何かの変わり目には、意味のわからないことに意味がわからないまま巻き込まれる多数の人が生まれがち。

 

意味のわからないことに意味がわからないまま巻き込まれる。多数の人をあらかじめ想定済みで、あらかじめ対処法もわかったうえじゃないと、変わり目だからといって、意味のわからないことに意味がわからないまま大勢を巻き込むようなことは、してもしょうがない。だって対処しようがないんだから、余裕と体力が削られるだけ。

 

あんなことがなければ、生まれてこなかった。

 

でもすでに生まれて、知る人は知っている奇書、カタチになってしまったものを、後世はどう処遇するのかと考えた時、餅は餅屋でその種の歴史を乗り越えてきた側が呼ばれるんだろうと、勝手に思ってる。

 

5GもWi-Fiも、スマホもケータイもなかった昔。

 

無人島に持っていくならどんなよみものにしよう?とよく考えた。英雄列伝的な、途方もなく長い歴史書ならきっといい暇つぶしになると考えた。奇書の類は、無人島に持っていくものではなく、すでに無人島に放置された人が書くのに相応しいもの。

 

傍らに人はいるけど、精神的には孤独。分かち合えないものを抱えている人が書くのにちょうどいい。