クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

お仕事の作り方

弱い者いじめが好きな集団の好きなことや得意なことといえば、やっぱり弱い者いじめ。

 

だから弱い者いじめが好きな集団をトレースすると、アンフェアや不平等が面白いように見つかるはず。

 

弱い者いじめができるのは、強者。“ある種の“というただし書き付きの強者もそこに含まれるんだけどさ。

 

そして、強者いじめはアクティビストのお仕事。

 

あの人たちのお仕事って一体何なの???と考えた時、個人的にいっちゃんわかりやすい定義は“強者いじめ”で、強者いじめができるのはアクティビストの証。

 

弱い者いじめが好きで得意で、集団になるほどその傾向に拍車がかかる。

 

そもそもそういう傾向や性情をもつ個々人を集団にまとめ、敢えて大暴走させたあとに残るのは、弱い者いじめの確たる証拠。あとは、確たる証拠をもとに弱い者いじめをしていた強者をいじめる側にまわると、“強者いじめ”のアクティビストが誕生する。

 

アクティビストへのはじめの第一歩は、弱い者いじめが好きで得意な強者を見つけること。

 

弱い者いじめでメシ食ってる側と、強い者いじめでメシ食ってる側。

 

どちらの方がより怖いかなんて、考えるまでもない。弱い者いじめが産業になるのなら、鶏が先か卵が先かで、強い者いじめだって産業になって、競争があるとどちらも強くなっていく。

 

双方互いに安心して美味しいご飯が長く食べられる状態をめざすと、弱い者いじめと強い者いじめの協働というあたりに着地して、ある時は強者いじめある時は弱者いじめと立場を変えつついつまでも安泰。

 

弱者、いじめておきましたんであとはお願いしますと、強者いじめを得意とする側にバトンタッチすると、協働状態ができ上る。時代劇なんかでは”目安箱”というものがあったけれど、協働をめざすと弱者からの哀願や哀訴が投函されるはずの入れ物に、強者からの依頼が届くようになる。

 

強者は強者としか向き合わない。弱者と分断された世界で起こるのは、そういうことのはずなんだけど。なーんでいつまでも強者が弱者と接点持って、弱者いじめを続けるのかといえば、本当の強者とは認めてもらえず、本当の強者とは向き合ってもらえないから。

 

弱い者いじめと強い者いじめは、要するに文化の違い。

 

文化の違いを超えて対話できて協働できるのなら、利害が一致している。という目で見ると、弱い者いじめも強い者いじめも狐と狸の化かしあいにしか見えなくなって、狐にも狸にも興味関心が薄いと、どちらの言うことにも無反応になって、ネギしょったカモにもソッポ向かれるのかも。かもかも。

 

ブランド好きな人ほど、ブランド毀損にも熱心という個人的仮説は強まるばかりさ。

ホニャララはかくあるべし

ホニャララはかくかくしかじからしくあるべしは、供給サイドあるいは生産者目線。

 

例えば花壇。

 

流行り廃りを反映するとはいえ花壇らしい花壇の花は、くっきりはっきりのビビッドカラーが多い。ところがビビッドカラーの花を、個人の庭やベランダにそのまんま場所を変えて植えるとちょっと野暮ったくなる。好みや趣味は、それぞれなんだけど。

 

誰かへのプレゼントに使うブーケや花束は、ビビッドカラーだけでなくもっと柔らかでニュアンスのあるモーブなカラーも混じってる。くっきりはっきりした色合いの花だけでまとめられたブーケを、そのまんま部屋の中に飾ると浮くだけで、景色に馴染まないから。

 

個人の部屋や庭やベランダといった景色に似合うのは、ビビッドな色ではなくもっと柔らかくてニュアンスのあるモーブな色合いだからとビビッドな色合いを避けるのは、消費者あるいは生活者目線。

 

鮮やかなビビッドカラーもニュアンスのあるモーブカラーもよりどりみどりで選び放題なのは、消費者の好みに寄り添ってるから。

 

もしも消費者はビビッドカラーではなくニュアンスのある、部屋に飾っても違和感のない優しい色合いを求めているのに、見つからないか売ってもらえないのなら供給サイドや生産者の都合が優先されている。

 

売ってもらえないだけでなく、買おうとすると、とてつもなく高くつくという場合も、生産者の都合が優先されている。

 

ビビッドな色だけ。あるいはシックにモノトーンだけを扱っていると、ブランドカラーもくっきりはっきりするけれど、生産者都合で扱わない。あるいは扱えない場合もあるに違いない。

 

と、ビビッドカラーばかりが目立っていたブランドに、ニュアンスのあるモーブな色合いの商品も増えた景色を見て思った。

 

消費者が多種多様で一様じゃないのがわかりきっていて、貪欲に取りこぼしのないよう(それはつまり余所には奪われてなるものかという態度でもあるけれど)消費者に寄り添って生産者が扱える商品の幅が増えたことは、単純に生産者が強くなったことを表してるんだな、と。

 

ホニャララはかくあるべしと、押し付けてても別にいいんだけどさ。

 

その背後で、ホニャララはかくあるべしなんて絶対に言わない、口にもしなさそうなより強い生産者が控えていると、ホニャララはかくあるべしの声も段々小さくなっていきそう。

覚醒

呼べばやってくるで互いに融通し合えるのは、そもそも互いに持ってる者同士だから。

 

例えば日々のやり繰りを特定時間で締め切った時に、すぐに返すからちょっとお借りしますが通用するのは、そもそも互いに持ってる者同士だから。

 

綱渡りの綱が切れそうだから、切れないようにちょっとお借りしますとは全然まったく別のモノ。

 

綱渡りの綱をちょっと丈夫にする行為も、呼ばれたらお邪魔しますで必要な量だけ分けてあげる行為も融通という点では一緒だけど、融通する側の気持ちは全然まったく別のモノ。

 

なのに、綱渡りの綱をちょっと丈夫にしようとする行為と、呼ばれたらお邪魔しますで必要な量だけ分けてあげる行為を、すべて同じ融通という行為でひとつにまとめようとしたって、ひとつにはなれない。

 

本来すぐに返ってくるものだから、融通する側の手間賃は限りなく低く抑えられる。すぐに返ってこないものを融通する側の手間賃は、どうしたって割高になる。

 

手間賃の多寡には、融通される相手に対する融通する側の態度が如実に表れてくるものなんだけど。

 

本来なら見えていたものが見えなくなる状態というのは、現在地点を見失わせるのにお役立ち。見えなくなっていたものがある日突然くっきりはっきり見えるようになると、目が覚めるのかそれとも現実逃避に走るのか。

 

寝ぼけ眼がすっきりしゃっきりするのは、請求書の類。だと思ってまず間違いなし。

カラスはなぜ、土をほじくり返す

今年はちょっとアレだけど、札幌のカラスはそもそもいいものを食べているはず。

 

観光地。ついでに関東以北で最大規模の繁華街を擁すると、エサもピンからキリで景気のよいときには、ピンのエサめがけて突進していく。キリなんて見向きもしない。だったんだけど。

 

今年はちょっとアレなせいでエサが不足しているせいか、芝生は突っつきまわすし、土だって掘り返してる。もしかすると、土の中にいるかもしれない動物性たんぱく質を探してるのかもしれないけれど、はた目には異常行動に見える。

 

例年だと、オータムフェストでエサも豊富なはずのシーズン。

 

今の季節だと、あそこに行きさえすればエサには困らないどころか、美味しいエサにたっぷりありつける。そう学習していたのに、縮小された夏のビアガーデンに続いて秋のオータムフェストは空振りで、ハラヘリなんだよコンチクショウ。

 

という、カラスの声にならない悲鳴というより八つ当たりなのかも。かもかも。

 

群れや集団で行動する。そもそもそういう生き物が、それまで習慣にはしてなかった行動を最初の一頭や最初の群れや集団がやり始めると、芋洗いの伝播みたいなもので、別の群れや集団にも伝わって、最初は珍しかった習慣も珍しいものではなく日常に組み込まれていくものか。

 

それともそもそも環境由来のものだから、環境が元通りになるとそれまで習慣にはしてなかったはた目には異常行動にしか見えない行為は、やがて止むものか。

 

豊富な食料あるいは食べるものには困らないという前提条件が崩れたあと、食べものに釣られるように特定ポイントで群れていた生き物は、さてどこに向かうのか。

 

そろそろ年賀状が気になる。来年のことを考えるようになるシーズンでもあるけど、来年のことを考えはじめると、鬼がニッコニコのえびす顔で笑いながら、通帳や財布やあるいは財布代わりの何かを覗いて満足してそうだと勝手に思う、今日この頃。木々はちょっとづつ、赤や黄色に色付いてきた。

ホッとするのはシンプルなもの

昔っからなぜかボルシチが好きで、なぜボルシチが好きなのかと考えると、ビーツとキャベツとサワークリームに行き当たる。

 

土地柄か。生のビーツも手に入るので、生のビーツをスープ煮にして、ポテトサラダと和えたりそのままサラダのトッピングにして、美味しく頂いた。

 

今月作ってみたもののなかで、いちばん気に入ったのは牛肉とキャベツのサワークリーム煮。ちょっとボルシチ風のスープに、たっぷり摺り下ろしたチーズを加えたもの。水切りヨーグルトに生クリームを加えると手作りサワークリームができるらしいけど、今のところ試すつもりはなし。

 

牛肉とキャベツのサワークリーム煮に、ピーマンのオイル煮にゆで卵とアンチョビを加えた和え物と、初めて作って気に入ったものはどっちかって言うまでもなく洋風。

 

先月作ったものの写真を眺めていても、全体的にどっちかっていうと洋で、意識しないと和定食風にはならない。彩りを意識するとどうしてもカラフルなものを使いがちで、マリネやお浸しにしてパプリカも重宝した。

 

マンネリ化するのがイヤという動機で、もの珍しいものはとりあえず作ってみるものの、結局食べた時にいちばんホッとするのは、シンプルに鶏肉をしょうゆ味で煮たものだった。

 

変わったものはもの珍しいけど、飽きないのは定番もの。定番ものがいつも美味しいというのは安定の証拠で、安心する。

名付けは大事

仮想通貨に暗号通貨。呼び方は今どきっぽくその時々に応じて変わっても、本質そのものはそう変わらない。

 

その種のモノは一体何かと考えた時、個人的にいちばんしっくりくるのは“軍票”。

 

実物を見たわけじゃない。ただそういうものがあったと、聞いて知ってるだけ。戦地や占領地で、軍隊が通貨の代用として使用した手形のことで、戦争が終わるとただの紙切れになったものが軍票なんだとか。

 

終戦直後はだいたい情報が錯綜して混乱してるから、単なる紙切れになったと一般に周知されるまでにはタイムラグがある。そのタイムラグを、逃げ足が速くて抜け目のない側が利用して、換金されない空手形を掴まされるのが利用される側。戦争が終わったら単なる紙切れになる代物だから、賞味期限付きともいえる。ただし、賞味期限はどこにも記載がないだけで。

 

オンタイムで資金移動が可能になった今どきだと、紙切れよりもデジタルデブリと呼んだ方が、きっとしっくりくる。一体何と戦っているのかといえば、デジタル通貨ウォーズ。

 

逃げ足が速くて、クレームの持って行き先もない。賞味期限付きなのに、賞味期限はどこにも記載がない。そういう振り出し先と、逃げ足どころかそもそも逃げられない。賞味期限付きの場合は、ちゃんとその旨告知してから粛々と作業にかかる振り出し先と。

 

どちらがより信頼できる振り出し先かなんて、考えるまでもない。だからより信頼される側をめざして、逃げ足の遅さ自慢をし始めるのが、これから信用や信頼を厚くしたい側なんだと考えると、個人的にはますますしっくりくる。

銭の箱がしんどくなったら

アレは何だったっけ???という、疑問が解けるとスッキリ。

 

余裕で10年どころか15年は経っていて、その当時は古臭いと言われていたものが、今では古臭いという形容詞もなしに受け入れられてるっぽい様子を見ると、印象を左右しているものが何だったのか。今だったらわかるような気がする。

 

今となっては、ソレを古臭い呼ばわりするなんてとんでもない。そういうイメージと雰囲気によってアップデートされた印象が、古いままの印象を上回ると、その種の逆転現象が起きるのかも。かもかも。

 

人でもモノでも。銭の箱となったものには、有象無象にいろーんな思惑を持った人が近付いてくるようになる。

 

寄ってきて欲しい、人やモノから来なくなる。

寄って来なくてもいい、人やモノばかり来るようになる。

 

それが銭の箱。

 

銭の箱としての役割が重くなったとき、いちばんいいのは銭の箱を降りること。

 

アレではもう、銭の箱として使い物になんかならない。そういう状態になれば、寄って来なくてもいい人やモノも来なくなる。

 

とはいえ個人的な好みや趣向としては、寄って来なくてもいい人やモノばかり寄ってくるのが銭の箱の宿命で、宿命を乗り越えない限り長持ちする銭の箱にはならない。次々に壊れる銭の箱ばかり作っても、コストが嵩むばっかりでしょうがない。

 

だからものすごーく長持ちする銭の箱は、寄って来なくてもいい、人やモノばかり寄ってくる試練を乗り越えた人やモノ。だから、丈夫で長持ち。

 

世界を見渡した時、集金装置や集客装置として抜群の知名度と実績を誇る銭の箱なんて、いくつもない。それはやっぱり世界級になると、寄って来なくてもいい人やモノも世界級となって、数ややることなすことでモノを言わせて試練となるから。だから世界級の銭の箱は、今のところ数が少ないまま。

 

丈夫で長持ちする銭の箱をめざしているのに、銭の箱としての役割が重すぎて潰れそうになった時、参考になるのはやっぱり先人で、丈夫で長持ちした先人のいる場所をめざせば、何某かの解が得られるのかも。

 

古いもの、長く続いているものには続くだけの理由があって、長続きする理由がわかっているから、先回りして長続きする秘訣を抑えにかかると、長続きする銭の箱も独占できる。

 

誰よりも、何よりも丈夫で長持ちな銭の箱ひとつに頼り過ぎると、突然銭の箱がなくなった時が恐ろしいから、とりあえず数を増やして順番に試練を与え、様子見してるのが今ココ、現在地点なのかも。かもかも。

 

銭の箱として、もうすでに使い物にならない。

 

それでも自ら銭の箱を降りることのない、あくまで銭の箱であろうとする、かつては誰よりも丈夫で長持ちだった銭の箱を、銭の箱役から降ろすのに苦労した。そういう記憶が鮮明なうちに、こっそりひっそり流布して生まれるのが都市伝説なんですよ。という、根も葉もないけど納得感だけは人一倍ある誰得なことが書けるフォーマット。

 

いまはどのくらい残っているのか。すでに数えられるほどしか無さげ。