クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

手のひら返し

古い本を時々読み返すけど、ノスタルジーに駆られてというよりはむしろ、“現場百遍”な気持ちの方が強い。

 

何度も読み返していると、以前は気付かなかったことに気付くようになり、モノによってはなぜ電子書籍化されないのか、何となくわかるようになってくる。道徳も常識も時代によって変わる。だから、道徳も常識もすでに変わったんだということがわかってない不特定多数に、変わる以前の道徳や常識をそのまんまの形では渡せない。

 

そのまんまでは渡せないにもかかわらず、拡散の方法だけは進化してる。そういう状況だから、今となっては電子書籍化して簡単に拡散されるとよろしくないものは、なるべく拡散しにくい形のままにしておくに限るということになる。

 

本来拡散されるとよろしくないものは、たとえ電子書籍になっていなくても、よろしくないものには変わりはない。

 

誰かが怒る。文章化された当時は、怒る誰かの怒りは怒ったところで大したことはなかったけど、道徳や常識が変わったあとでは、怒る誰かの怒りは大したことないでは済まなくなった。

 

特にセンセーショナルな題材を扱っているわけでもない。書かれている内容そのものはいたって穏当であっても、まぁ怒るわな。というものが、古いものには時々隠れてる。

 

ベストセラーにはなりそうもないけど、類書がないからロングセラーにはなりそう。という分野には特にこの手のものが多く、狙ってやってるのか???と思わなくもない。その手のものは一箇所にとどまることはなくいわばゲリラ戦で、突如出没する。

 

文書化された当時は、怒るあるいは気分を悪くする誰かの怒りは、怒ったところで大したことはなかった。という状況と合わせて考えれば、深く考えなくてもこの種のゲリラ戦はイヤガラセの一種で、イヤガラセにどこまで耐えられるのかお試しでもしてたのか。

 

ゲリラ戦が通用するのは正攻法が通じないからで、正攻法では敵わない、あるいは敵ではない者からの攻撃は、時としてその種の形態を取るのかも。

 

偏向は、道徳や常識が違うものの目から見ると、よりくっきりはっきりする。偏向に凝り固まった集団のなかでは、偏向したものの見方が固定して、また新たな道徳や常識が現れるまでの主流になる。また新たな道徳や常識が現れるまでだから、単なる流行で短期に終わる主流もきっとある。

 

江戸が終わって、明治となった昔々。ちょんまげから、西洋人にもよくある髪型へと移行したのは見た目から入る国際化で、ちょんまげ姿そのまんまな日本人の中身も、今や国際化したんですよと張り切って宣伝したところで、まったく説得力がない。

 

攘夷という偏向があったということくらいは知ってる訪日外国人からしたら、いつバッサリやられるかわかりゃしないおっかない場所では、のんびりエキゾチックな景色や文化を楽しめないだろうと配慮してのちょんまげ廃止令も、きっと施行当初は違和感とともに受け止められたに違いない。

 

何百年も、その姿が普通だった。見た目による変化は一目瞭然だから、隠せるものなら隠したくなっても無理はない。ちょんまげの場合は帽子くらいでは隠しようもないけど、髭のあるなしは、口元を隠せばなんとかなる。

 

掌を返す時は、できるだけ大勢で一斉に。という入れ智恵は、いったいどこから来たものなんだか。

片手間

虚飾に彩られた世界をホームグラウンドとする、勝ち気で高慢な美人は、ホームだから裏も表もよくご存じ。

 

よく知ってるから、いくらお似合いであってもホームに染まった同類には目もくれない。

 

同類には目を向けない者の前には、えてして違う世界をホームとする者が現れ違う世界へ連れ出そうとするけれど、結局は生別や死別で勝ち気で高慢な美人だけが生き残る。という仕様のフィクションは、何があっても生き残るタイプの勝ち気で高慢な女性じゃないと、そもそも絵にならない。

 

絵にならないだけでなく、違う世界に連れ出した途端にポックリいくタイプだと、お話も続かずお話にもできない。

 

手を変え品を変え。

 

何かあったらすぐにポックリいくタイプの女性を主人公に、違う世界に連れ出し何かあるごとに次々とポックリいかせる仕様のフィクションは、ある意味とてもシュールにリアルに女性の自立を描くことになる。だけどシュールでリアルなものは、シュールでリアルなだけに直視することが憚られ、万人受けはしない。

 

万人に受けるステレオタイプなフィクションは、やっぱり高慢で勝ち気な女性が、違う世界に連れ出されようと何だろうと、何があっても生き残る仕様のほう。

 

万人受けするフィクションに現実が寄せていくと、現実に生き残るのも高慢で勝ち気なタイプばかりになる。

 

高慢で勝ち気なタイプばかりが集い、いつでもどこでも喧々諤々でやかましい。という光景は、現実の多様性をまったく反映してないから嘘くささ満点。現実も高慢で勝ち気なタイプばかりが生き残る仕様になっていたら、フィクションでもわざわざそういう仕様のものを求めるわけがない。

 

歴史は繰り返す。とか言っちゃうと一見カッコよく聞こえるけれど、予算の縛りもあれば栄養といった縛りもある、一週間分の献立だってイチから考えるのは面倒くさい。

 

面倒くさく、コストにも労力にも合わないなら手抜きになって、すでに出来上がったものを二番煎じ三番煎じでアレンジしつつ、歴史は繰り返すからと言い訳しながら同じようなものを出すと、面倒が減る。

 

そもそも面倒なことが嫌いなタイプは、面倒なことには手を出さない。

 

勝ち気で高慢で、何があっても生き残るタイプしか生き残れないよう設計された退屈な仕様に手を出すのは、そもそも退屈を厭わない、むしろ退屈な方が片手間にできるから喜ぶタイプだけ。

 

退屈なことが義務になっていても代理を立てればいいだけで、代理が許されるようになるとますます同類しか寄って来られないような場所になって、ただ煮詰まっていく。

 

白い綿毛がフーワフワな季節。すっかり新緑の季節になったのに、ベストシーズンを楽しむ観光客がいないと、喜ぶのは美しい景色やベストショットに人はいらないタイプかも。

似たような景色は似たような来歴から

同じような来歴から出来上がるのは、似たり寄ったりの景色。

 

初めて来た場所のはずなのに、既視感を覚えるのは似たような来歴の場所を知っているから。例えばかつては水運で栄えたような土地は、水路やあるいはかつて水運に使われた船といった、何らかのモニュメントが大体共通しているから、すぐにそうだとわかる。

 

もちろん同じような来歴を持ちながら、まったく違う景色となっている場合もあって、違う景色となった原因を探っていくと、土地ごと投機に巻き込まれた来歴に行き着くこともあるんだとか。

 

ホニャララ相場に手を出して、大損した。あるいは身を持ち崩したというエピソードは、警告の意味も込めてかかつてはわりとよく耳にした。一攫千金という甘い餌に弱い人はいつの時代も一定数はいるもので、一定数いるはずなのに最近その種のエピソードを聞かなくなったのは、制度設計が変わったからだと勝手に思ってる。

 

全国各地で一斉にある産業が栄えた時。

 

今では想像もつかないけど、生産量その他でかつては世界一、あるいは世界級だったと言われてもまったくピンとこない。かつての栄光をしのばせるようなモニュメントなんてなーんにもなく、きれいさっぱり富が投機に呑み込まれて消えていっただけ。

 

というエピソードは、争いは同じレベルでしか生まれないと思えば、これ以上ないほど納得する。

 

一攫千金という、同じような投機の熱に浮かれている同じような人たちの間では、簡単に競争が過熱する。“同じ”場所から生まれた同質性の強い集団は、投機のような過当競争には弱くて勝手に自滅していく。

 

“同じ“場所から生まれても、そもそも同じじゃない。

 

強力なリーダーシップを発揮する誰かや、同質性なんておよびじゃないほど強固なヒエラルキーがあれば、みんな一緒で同じになれない代わりに同じではないからそもそも過当競争にも陥らない。

 

過当競争に対するストッパーが働くと、投機による過当競争の罠には嵌らず競争によって得た富の分配や蓄積もうまく回って、後世にまで残るようなモニュメントが生まれたり豊かさを感じさせる景色が残るのかも。

 

ある産業が栄えたとき。栄えた産業に合わせて投機の市場が出来上がり、産業とは直接関係のないところで勝手に投機熱が盛り上がり、盛り上がった投機熱が、世界で闘えるほど栄えたある産業を台無しにしてしまう現象は、現代の金融商品にも当て嵌まりそう。

 

投機も一攫千金も結局は博奕で、博奕のネタになったものから射幸性を取り除いて安心設計にして、投資に変えるのは博奕打ちにはできないお仕事で、できないお仕事だからただ博奕をやりたいだけの一攫千金狙いに、やらせるはずがない。

非合理的な方を選ぶとずっと古いまま

鉱山技師出身の実務家であるフーバーが大統領に選ばれた時。民主党対立候補として選んだのは、アメリカ史上初となるカトリック出身のスミスという候補者だった。

 

その結果、長らく(というのは余裕で50年以上)民主党の地盤だった南部諸州は、民主党ではなく共和党に票を投じ、最終的にはフーバーが勝って共和党が与党となった。

 

ということは、好事家つまりマニア向けの歴史本で仕入れた豆知識。

 

なぜ長らく民主党の地盤だった南部諸州が、共和党に寝返ったのか???というのも謎だけど、その前になぜ南部諸州が長らく民主党の盤石な地盤だったのかも謎で、その謎を解こうと思うと、時間を遡ることになる。

 

南部諸州が長らく民主党の地盤だったというのは、ちゃんと調べてないけど多分南北戦争に行き着きそうで、時間を遡ると現在の常識とはまた別の、当時の常識が現れてくる。

 

宗教的迫害を逃れてプロテスタントが作った国という、プロテスタントファーストな国是は、建国から150年たったくらいではビクともしなかった。と思えば、長らく民主党の地盤であってもカトリックの候補者は選ばなかったという、非合理的な選択にも納得がいく。

 

ついでに、建国から150年経って多くの移民が豊かになれるアメリカめざして大挙してやってくるようになり、ニューリッチが世界経済を牽引する豊かな国になったから保守化した、と考えても納得する。

 

フーバーが大統領に選ばれる直前といえば、要するにグレートギャッツビーな時代で、グレートギャッツビーな時代だと思えばその時代の空気や雰囲気も何となくわかる。どうやってお金持ちになったのかよくわからない人物が、とんでもない大金使ってどんちゃん騒ぎしてる、そういう時代。

 

保守化したせいか、非合理的な選択を迫る勢力が暗躍し、南部諸州という民主党にとっての盤石な地盤を切り崩していったとも好事家向けのマニア本では解説されていたけど、真偽は知らね。

 

古いものから逃れて新天地めざしてやってきた。

 

その意味では一緒でも、新天地に陣取ることすでに150年も経つと、その土地にはその土地なりの秩序が生まれて新しいものを容易には受け入れなくなり、受け入れないための理由を無理に探し出し、無理を通そうとするから非合理に寄っていく。

 

古いものから逃れてやってきた何かが、新天地に受け入れられなかったらずっと古いまま。

合理的な方よりも非合理的な方を選ぶと、ずっと古いまま。というのは、本来新しいはずのものがゴリゴリに保守化して、保守の番人となって新しいものを迫害し始める過程ではよく見る光景なのかも。かもかも。

 

国としてはプロテスタントファーストでも、建国から150年も経つと地方によってはそうでなかったから、民主党カトリックの候補者を選べた。150年経って保守化し、“新しい”と言い張るには無理がある、新しいという看板ぶら下げただけのお古よりも、単純に新しいものを選んで古いものにはうんざりという態度を表明できる方が、より新しい。

 

合理的な方よりも非合理的な方を選ぶとずっと古いままで、ずっと古いままだと、そもそも古くて諸々どっさり溜め込んでる方にはいつまで経っても勝てなくなる。

 

新しいはずの人たちが、時にかび臭いものの保護に乗り出すのは、その法則に気付くからだと思えば納得で、新しいはずのものだってすぐに古くなる。

物差し

音、音声でお知らせしてくれるのは思えば便利な機能で、便利だからいつの間にか家電が喋り始めるようになった。

 

お喋りする家電を気にしないのは、家電はもうすでに喋るという機能を獲得したことを知っているからで、お喋りが気になるようだったら、機能として喋らない家電を選べばいいだけ。

 

喋る機能付きの家電そのものを今さら駆逐しようとしても、音に反応する家電の便利さを受け入れた側は、便利な機能をそう簡単にはあきらめない。便利という有用さをはるかに上回るなんらかの不都合がない限り、フツーは便利なものをそのまま使い続ける。

 

必要な機能かそうでない機能かは、ツールとして使っているユーザーが決めることで、ツールに決めてもらうことじゃない。

 

公開情報が役立たずだったら、そもそも公開する意味がない。

 

公開する意味がなくなったら、公開するな、公開の場に出すなということになって、本来公開してもなんら問題のない情報もみーんな地下に潜っちゃうんじゃないすかね。

 

きつく締めたものを緩めるのも、いったん地下に潜ったものをまたまた表に引っ張り出すのも、締めたり引っ込めたりするよりはるかに大変で、エネルギーがいる。

 

余計な労力がかかるからその場合の労力は、締めたり引っ込めたりして回った側に負担してもらうと、どんなに大変かがわかって教育的。締めたり引っ込めたりを生業としている側だったら、当然締めたり引っ込めたりするコストも頭に入ってる。

 

正義のお値段10兆円と言われても気にしないのなら、正義を担保するのに余裕でその程度の予算がかかると知ってる側で、知ってるから無駄使いなんてしないしできない。請求書を見てビックリする程度の予算しかなかったら、正義の側から不正義の側へと急いで乗り換えるしかない。

 

正義と不正義の間を行ったり来たりなのは資金がショートするからで、ショートするような資金の裏付けしかない、何よりの証拠。正義のお値段10兆円と言われた時。正義から乗り換えても構わない立場だったら、フツーは不正義の側へと立場を変える。

 

じゃあ、10兆円稼げばいいんでしょ?と、正義にかかるコストめざして稼ぐのは、だからもう全然フツーじゃない。

 

常識の閾値をはるかに凌駕しているっていうのはそういうことで、はるかに凌駕しているから、常識で理解しようとしても理解が追いつくわけがない。お金という簡単な物差しを使ってないと、物差しそのものも複雑になる。

向き不向き

100円程度、あるいは税込みでワンコイン以下のものを1個だけ。という買い物は、ネットではしない。ネットで単価の安いものを買うならまとめ買いする。配送コストやついでに配送業者の置かれている環境が聞こえてきてたら、自然にそうなる。

 

物理的に100円程度あるいは税込みでワンコイン以下のものを、買いに行けなくなった時。

 

  • 配送コストを考えても納得できるまで、複数のものをまとめてネットで買うか。
  • 配送コストを無視して、必要なものを必要な数だけネットで買うか。
  • 100円程度あるいは税込みでワンコイン以下のものを物理的に買いに行けるようになるまで、持ってるものでとにかく間に合わせて待つか。
  • または、100円程度あるいは税込みでワンコイン以下のものと同じような代替品を、物理的に手に入る場所まで買いに行くか。

 

何をどこで買っているのか。日頃から購買行動をモニタリングしてサンプルを取っておき、極端な選択肢を与えた時にどのような行動にでるのか様子を見るのは、控えめに言わなくても単なる社会実験。

 

新興国はどうだか知らんけどさ。社会実験も治験も、事前に承諾がとれてないとデータとして使えないのは先進国のジョーシキよな。

 

他者の利益に配慮するのが、美徳で協調となるのが日本の特色なんだって誰かが言ってた。

 

自らの首を締めつつ自分を殺してまで他者の利益に配慮するのは、協調ではなく単なる隷属。そう考える日本以外の国にとっての協調は、徳に惑わされずにちゃんと取るもん取ってるんだってさ。

 

協調という美名で覆われた隷属を受け入れてまで、“徳性”のあるところをこれみよがしにアピールして喜ぶようなメンタリティは、だから政治由来のものじゃない。

 

近代社会がどこも政教分離を選ぶのは、取るもん取れずに徳性をアピールしたところで、打ち出の小槌をちゃんと我が物にしてない限り、徳だけでは世の中を回しきれないからだと思えば納得。

 

徳性なんて知らんがなで、ツラの皮が厚くてなんぼ。

 

そういうメンタリティの人を相手にするんだったら、必然的にみんなのツラの皮も厚くなっていく。

 

与えて与えて与えて、なんぼ。と、徳性をアピールして世の中渡っていくのは、徳性と紐ついた打ち出の小槌をちゃんと我が物にしてからのお話。

 

徳性と紐ついた打ち出の小槌を我が物にする前から、近い将来手に入る予定でーす、で他者の徳性をあてにしてちゃっかり自分が欲しいものを取りに行く態度は、どう考えても徳性からははるか彼方な態度。

 

はるか彼方な態度だと見抜かれてるから、いつまで経っても徳性と紐ついた打ち出の小槌が転がり込んでくる気配、薄げ。

 

どう考えても、叩けば埃が出る徳性と紐ついた打ち出の小槌を叩いて歩く、ツラの皮のぶ厚さで世の中渡っていく方が向いてそ。

ビッグ・バン

技術が進歩して量産が可能になったら、理屈の上では価値が落ちる。

 

本来は有限なはずのもの。いつかは尽きるはずにもかかわらず、いつまでも生産が続くものはだから、技術の進歩によって限界や寿命を超えたもの。という説明で納得してる。技術の進歩が止まったら、そもそも有限なものだから生産も続かない。

 

生産が続かない、あるいは生産できても需要を賄うほどではないことがわかっていたら、量産で価値が落ちたものの価値もまた跳ね上がる。かもね。代替品が生まれるまでは。代替品がないと、そもそも有限なだけに技術の進歩が止まって生産が細っても、価値は高止まったまま。

 

代替品といったって、そうそう代わりが見つかるものでなし。

 

代わりにこちらはいかがですか?と次々に新しい技術によって生まれた代替品が現れたところで、二度と生まれないものや二度と作れないものの価値は高止まったまま。高止まったままのオリジナルと、比較され続ける代替品の方が先に消えていくから、量産で得するのは結局のところオリジナル。

 

だから、量産するならコピーよりオリジナル。二度と生まれないものや二度と作れないオリジナルを次々に作れたら、理屈の上ではコピーを次々に量産するより最終的には長持ちして、消耗品ではなく長持ちするものだから、需要も途切れない。

 

技術の進歩によって量産が可能になったコピーは、単なる消耗品。単なる消耗品だから、いつまで経ってもコピーに価値が生まれることはなく、コピーが量産されるほどに二度と作れないし生まれないオリジナルの価値が高まっていくだけ。

 

二度と生まれないし二度と作れないものは、端的に言えば命を削ってできたもの。ビッグ・バンみたいなものだから、滅多に生まれないし滅多に起こるはずもない。なのに次から次へと生まれてくるのなら、四六時中誰かがどこかで命を削ってることになる。

 

二度と生まれないし二度と作れないものは、ポコポコ生まれてこない。

 

量産されるのはコピーだけで、コピーだけが世の中にあふれているなら誰も命を削ってないってことで、なんてピースフル。唯一無二のオリジナルよりもコピーで充分さという態度は、時と場合によっては平和を望むから生まれてくるのかもね、かもかも。