クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

しわ寄せ

たまりにたまった鬱憤を晴らすかのように、突然ドカッと降った雪も一瞬で落ち着いた。

 

安定していると予定もサクサクと進みやすく、不安定だと予定も狂いまくり。平年より余裕があるとはいえ、今は民族大移動の真っ最中。サクサク進むにこしたことはなく、サクサクの阻害要因にあらかじめ釘を刺しておくのは、逃げ足の速い方かそれとも逃げ足の遅い方か。

 

どちらにしても、損しても得になるという計算が立たないと、損な役目も引き受けるはずがない。

 

そんなもの引き取って、あるいは引き受けてどうすんのさ???というものを引き受けるのも、使い道がちゃーんと決まってるからさ。

 

小人は閑居すると不善をなしがち犯しがちで、大人だったら不善はなさない。だったら、暇なんて与えずにやらせたいことをやってもらうのが吉。不善しかなさない人に、不善の片棒をかつがせる振りで善行の下働きをさせるくらいで、世の中的にはちょうどいい。

 

善行の振りをしながら、実は不善の下働きとなってるような何かとの対消滅を願ったらそれもありで、善行も不善もどっちも懲り懲り。

 

となって始めて、中庸やバランスが学べるようになっている。

 

天国と地獄を行ったり来たり。というメリハリやコントラストが効き過ぎたアクティブラーニングが過ぎると、きっと本当に中庸やバランスもわからなくなる。

 

年末年始、せめてお正月1日くらいまではもつローストビーフを作りたいのに、なぜ賞味期限はどれもこれも短いのだろう。という事象に出会った時は、なぜそうなっているのかを考える、よい機会で絶好の学習素材。

 

クリスマス用の加工品が思ったほど売れず、加工に回らなかった素材が出回っている。ついでにお正月向けの加工品の予約も思ったほど伸びず、直近での伸びしろにも期待できないから加工品を増やしてもしょうがなく、売り切りに徹してる。

 

とか考えるのはわりと楽しい、これは個人の見解です。

 

それもこれも、無駄な廃棄やあるいは消費期限表示がより厳格になったからと考えると、納得もしやすい。単なる推測だから、真偽は知らね。

 

どんぶり勘定から足を洗った瞬間のしわ寄せが、消費者に寄っているのかも知れず、企業努力、つまり企業内部でしわ寄せを消化できなかったら消費者に寄せるしかない。

 

企業内部で何らかのしわ寄せを消化しようとすれば、企業の器を大きくすればいいわけで、企業の器を大きくする態度は消費者には極力しわ寄せしない態度とも言える。

 

器を大きくする姿勢はちっとも見せないのに、しわ寄せはいつもいつも安易に消費者に寄せる態度は、反社会的なんだといつか誰かが言っていた。しわ寄せは、まず企業内部で消化しようとする姿勢が染みついた側と、まずは消費者に転嫁して消化しようとする姿勢がしみついた側はきっと水と油で、ソリが合わなさそうなこと夥しい。

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メガになるばっかりの中で小を貫いている、貫けているということは、逆に言えば自分たちで何とかなってるし何とかできる集団なんだってことの証明で、大がいいのか小がいいのか。

 

一概には言えないから、大も小もどっちともお付き合いしようとするしできるのが大人で、最終的には大人がいっちゃん得するように、システムはできてるもんだけど。大としかお付き合いしない小や、小としかお付き合いしない大とか。バランスに欠けるものばかり目にしていると、大人になるのもそれだけ早そう。

変わり身

クリスマス仕様からお正月仕様へと。変わり身が早いのも、思えば日本の伝統芸でお家芸のひとつ。

 

古い衣はさっさと脱ぎ棄て、新しい衣で登場する。新旧が一体化していてひとつながりだから、できる技。新しいモノがない。あるいは古いモノがないと、変わろうにも変わりようがなし。

 

9センチのピンヒールでにこやかに軽やかに歩き回っている姿は、鍛えられたアスリートにも等しい姿。アスリートにも等しいからそんな姿恰好の人は、ピンヒールを履く人にとっての競技場以外では見掛けないけどさ。

 

公共交通機関や何でもない歩道、あるいは家族連れで賑わう商業施設でも見掛けないかも。場違いだから。ついでに競技場と違って障害物が至るところにあるから、競技場ではにこやかに軽やかに歩き回れるアスリートでも、にこやかに軽やかに歩き回るのは難しそう。

 

つまり9センチのピンヒールは、生活や日常からは遠いことを象徴するアイテムで、非日常を生きる類の人にとってのツール。

 

地面との接地面は、ほんのちょびっと。

 

長距離や長時間の歩行には向かず、短距離でも車を使うライフスタイル向けだから、地面との接地面も極小で済むようになっている。そもそも全速力で駆け抜けるためになんか、作られてもいない。

 

底抜けや底無しという言い方があるけどさ。何しろ底がないんだから、どこまでも堕ちていく。

 

底抜けや底無しになるのは、そもそも地面を踏んでない、地に足がついてないから。地に足がついてたらそんなことしないし手も出さないことは、9センチのピンヒールなんて必要ともしない人なら知ってるしわかっている。

 

拡張ツールを手に入れた時、各人が最初からもっていた性向や嗜好もよりくっきりはっきりする。

 

そもそも暴力的な人が何らかの拡張ツールを手に入れると、より暴力的で狂暴になり、その反対にそもそも暴力から遠い非暴力的な人は、どこまでも暴力とは無縁で非暴力的になる。

 

粗暴なふるまいを間近にすればするほど、粗暴なふるまいとは距離を置き、どうすれば粗暴なふるまいを、暴力を封じ込めることができるのかを拡張ツールを使って考えるものさ。

 

インターネットやSNSの世界でのふるまいと現実がひとつながりになった時、どうやっても相容れないはずの水と油な二つのグループを一緒にしたら何が起こるかというと、場が壊れる。

 

相容れないはずの二者をわざわざ同じ場所に置くのは、壊そうとしても壊れないし壊れなかった強固な場を壊すため。必要なのは最初の亀裂で、亀裂さえ入ればあとは無問題。壊してしまうから。

 

壊そうとしても壊れなかった場を、そうやって逐次駆逐していけば、壊そうとしても壊れなかった場を根城にしていた何かも住処を追われる。

 

インターネットやSNSの世界でのふるまいと現実がひとつながりになった時、アカウントを殺すに等しい行為が平気で出来る人やアカウントは、現実社会でもきっと簡単に一線を超える。

 

底が抜けた人に拡張ツールを渡したら、起こるのは底抜けの連鎖。次々に、してはいけないやってはいけないことに手を出していくだけ。

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遠くから見ると変わってなくても、近くから見るとそうでもない。

そんなことは、ずっーと昔から底が抜けた人を見続けてきた人たちならすっかりご存じで、確信を得たからスクラップアンドビルドで、あちこちを壊して回ってるんだと思ってる。

 

確信と口実と。両方手に入れたら、そりゃスクラップアンドビルドは加速していくさ。

ホワイトじゃないクリスマス

ホワイトじゃないクリスマスは、北海道に来て以来初めてかも。珍しー。

 

地面の上は雪解けが遅いので白いけど、地面以外の道にはほぼほぼ雪がない。そういや今年は除雪車が稼働する音もあんまり聞こえてこないから、除雪車が活躍するまでもないんだろう。毎年除雪費用には莫大なコストがかかってるらしいので、予算が浮いてよかったねとなるのか、それともすでにきつきつでカツカツだから、天の助けになったのか。

 

いずれにしても雪のない札幌の冬は、映えないったらありゃしない。

 

雪という自然からの贈り物のおかげで、なんでもない景色もドラマチックでロマンチックに見えて、情緒があったんだけどさ。

 

クリスマスにサンタクロースが来て、クリスマスツリーの下の靴下にプレゼントを入れて、家族でケーキを食べる。という商業化されまくったクリスマスの景色が、日本のクリスマスの原風景。

 

ケーキは家族で食べるものだから、果物やキャンドルその他で賑やかに飾り付けたショートケーキ系やチョコクリームのケーキで、ちょっと子供っぽい。アイスクリームのケーキも昔っからあったけど、考えてみればあれも子供向け。子供の味覚や嗜好に合わせてた。

 

セントニクラウスがサンタクロースになって、旧大陸ヨーロッパから新大陸のアメリカに渡ってアジアにやってきた。サンタクロースとともにアジアにやってきたクリスマスの祝い方は、だからアメリカ経由でアメリカの影響を受けまくり。

 

25日にマーケットが休場する国は、どこもクリスマスを祝う国。天皇誕生日みたいなものやね。

 

結構広範囲にわたってマーケットが休場しているけど、その祝い方はその国それぞれで、サンタクロースや靴下、あるいはケーキというクリスマスに必須のアイテムも、国や地方やあるいは宗派によってきっと違う。

 

日本でいえばお正月にはお雑煮を食べるけど、その中身は地方色豊かなのと相似形で、お正月の祝い菓子として食べるお菓子にも地方色があるように、その中身もほんとは多彩なはず。

 

どこもかしこも同じものを同じ時期に食べるようになったら、そりゃ大量生産できて大量供給できるところが儲かりそうではあるんだけど。どこも一緒になったらつまらなくて、例えば転勤の多い人だと、どの土地に赴任しても結局文化的には代わり映えしなかったら、文化に楽しみを見出すより別のものに楽しみを見出す。だから、全国一律あるいは全世界一律で何かの規格を統一することは、文化を殺すことに等しい行為。

 

文化から得るものは何もなかった。

 

脳内へぇボタンが押されるような経験もなく。夢中になれるような楽しみもなく。ポジティブな何かを受け取るよりももっと早く大量に、ネガティブなものしか受け取ってこなかったら、文化が嫌いになってもしょうがない。

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むかーし作った、いちごのサンタ。今年のいちご、おもちゃにするには高過ぎた。

簡単な会話を含めれば、五か国語が話せるという人に会ったことがある。中にはマイナー言語も含まれてたけど。語学上達の秘訣を聞いたら、それぞれの言語の体系がつかめたら、あとは類推可能で簡単なんだと言っていた。

 

何かの学習速度が異様に早い人は、闇雲に知識を詰め込むのではなく、体系をつかみにいってるんだと思ってる。その種の人や人に代わるものに高速で体系を学習して押さえられたら、一本化されるまではあとほんの少し。

 

似たものはまとめて一つにしていけば、交通整理がはかどってしょうがない。

 

整理されて大きな通りとなれば、小回りが効かずに図体ばっかり大きくなったものでも、障害物を気にせず高速で走り抜けるのも容易になりそうで、小回りや小技ばっかり得意で決して急いだりしない何かにとっての脅威やね。

クリスマスといちご

偽者が多いということは、それだけ本物になりたがる人が多いということの裏返しなのかも。

 

サンタさんだよーとサンタコスプレでノーリノリの大人に対して、コスプレサンタを迎える側の子供のリアクションは時に薄く、期待したほどのリアクションでは迎えてくれない。

 

......また偽者が来た。サンタクロースになりたがる大人、多過ぎ。

 

とでも思ってたりして。その場合、偽者でも喜ぶというメンタリティーがまだ育ってないということで、よりピュアなお子様といえなくもないかも。サンタコスプレでおもてなしする大人の行動を慮って大袈裟に喜んであげるようなら、指折り数えられる齢のお子様であっても、すでに大人に配慮してる。

 

お子様のうちから、大人のおもてなしを敏感に察して大人に配慮した行動をとるようなお子様は、多分間違いなくお子様なりに疲労を溜め込んでいく。元気いっぱい走り回って溜まる疲労とはまた種類が違う、言ってみれば感情労働がつのって溜め込む疲労は、解放の仕方を知らない子供から生気を奪っていきそう。

 

少なくなった子供の数に対して、おもてなししたい大人の数が増え過ぎた時には起こりがち。大人の数が圧倒的に多い環境では、大人に配慮した行動を取る方が一見安全で、だから見よう見真似で大人っぽい振る舞いを早急に身に着けていく。

 

だけど子供らしさを失った子供なんて、単にいっちゃん最後に大人の列の後ろに並んだ、大人見習いでしかない。だからまだ指折り数えられる齢のお子様であっても、もうお子様扱いもされず、大人見習いとして雑に扱われるだけ。

 

大の大人が寄ってたかって子供に対して過剰なおもてなしをし、できるだけ速やかにおもてなしに配慮した行動を取るような大人になるよう子供に強いるのは、どっちかっていうと褒め殺しにより近い。

 

褒め殺したあとに、年齢不相応な感情労働に疲弊して倒れ込んでいるのは、子供ではなく大人見習い。見た目は子供でも中身は大人だから、丸まっちくて愛らしくていかにも子供らしい見た目であっても、見た目通りには扱われない。

 

大人の数が極端に多く、子供の数が極端に少ないと、どうしたって大人の側に寄せられる。数の多い側に寄せるってことは、結局多様性なんてガン無視してるってことさ。

 

早急に大人になるよう強いられることで起きる弊害は、早急に大人になるよう強いられた経験者の方がよく知っている。みんなと一緒に、年齢相応に年を取るだけでよかった未経験者は、そんなこと想像もしないし想像もつかないから、そりゃ雑に扱うし雑に扱ってることにも気付けない。

 

クリスマスという商戦のピークに向けて、いちごの値段は日々跳ね上がり中。

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定点観測しておくと楽しいものは、こういうものさ。

生ものという制約もあるから、そのうち値崩れするに決まってるんだけど。どのあたりで手を打つかと考えるその過程は、日々価格変動する金融商品にいつ手を出すかと考える過程とよく似てる。

 

クリスマスのいちごは、そりゃあった方がいいけどさ。ここまでスペシャルなものだっけ???今まで見たこともない、ブランドものいちごが多過ぎる。

暖冬

12月、それももういくつ寝るとクリスマスにお正月という時に、ヒールのある靴を履いてぽてぽて歩くとは思わなかった。

 

転んだらイヤ。さらに言えば転んで怪我した挙句、日常生活に不自由を感じるようになるのがイヤで、例年雪が降り始めるとヒールのある靴は履かないようにしてる。雪がこんなに少ない年末は、北海道に来て以来始めてかも。

 

何か、特に加工食品を買う時は、とりあえず原材料をチェックする癖がついている。

 

海外産のメジャーな製品が、日本製に比べても安価でそれでいて原材料がシンプルで、保存料やその他、なぜ添加されているのかわからないような謎の物質が含まれていない時。想像するのは近代的な設備が整った大工場の、滅菌殺菌が行き届いたスーパークリーンルーム

 

クリーンルームに入ったはいいものの、まずはコロコロを手に取って紛れ込んだ虫のお掃除から始めるような前近代的な設備だと滅菌殺菌も行き届かないから、添加物が増えるんだと思ってる。

 

個人宅のキッチンのコンロなら、後ろを振り返れば冷蔵庫があったりして、コンロから冷蔵庫に直行すれば滅菌殺菌にもさほど神経質にならなくてもいいけれど。

 

工場を出たあとは、常温だったり寒冷だったりあるいは高温だったり。幾度かの温度変化を経てようやく消費者の手許に届くような商品で、必ずしも丁寧に扱われるとは限らなかったら、なにがしかの添加物を加えて腐敗しないよう慎重になるのも無理はない。

 

雑に扱われることも比較的まれで、温度変化も最小になるように環境を選べ、どこかで放置されることもなく迅速に消費者や最終消費地に届くとわかっていれば、また別。

 

安心して製品を託せる輸送や流通経路がないと、繊細なものは運べない。ついでに繊細なものなのに迅速にという条件まで加わると、さらに厳しくなる。

 

輸送の途中で、放り投げられるしぶん投げられる。

 

雑に扱われることがわかっていれば、そりゃあらかじめ頑丈に作るし、遠方までは送れないと送る範囲も限定する。繊細で取り扱いに注意を要するようなものは、繊細かつ取り扱いに注意を要することを承知してる人が、より多く揃ってる方に行くものさ。

 

かつては、その辺を承知してる人がちゃんと揃ってたものなんだけど。

 

繊細なものを雑に扱い、雑に扱ったせいで数が揃わなかったり。破損や毀損が多くなってクレームが増えたなら、最終消費地や消費者の質が変わったってことで、環境が変わったのなら変わった環境に合わせようとなるのが、自然な流れ。

 

環境を無理に変えたかったら、針小棒大が得意でとびきりアレな人を送り込んでイメージを悪化させ、さも最終消費地や消費者の質が変わったかのように偽装させるときっと効果あり。

 

環境が変わると、変わった環境に合わせてハードも変わり、ハードが変わるとお金が動く。

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再掲。撮りためた写真を見直そう運動中。肩の上に雪壁の上、何かが気になり過ぎる。

本当に一から十どころか、一から百や千までお金の話でしかなくてうんざりするんだけど。うんざりするくらいお金が動かないと、うんざりするほど動かないお金を動かそうと、ますます騒々しくなるものなのかも。

 

心地いい、あるいは浸ってると楽しい情報漬けになっていると、偏った情報ばかり耳にするようになるものだから、埋蔵金伝説のような根拠希薄なデマを流す対象としてうってつけ。

 

非現実的という点で、テロリズム神秘主義はどっちもどっち。どっちもどっちの結局は似た者だから、真逆で犬猿の仲に見えても意外とウマは合うのかも。現実しか見ないし信じないリアリストよりも、百倍も千倍も相性よさげで、だからリアリストは一顧だにしない。

 

天然の冷蔵庫という条件が変わったら、そりゃ腐敗するのも早くなるし増えるに決まってる。

エサのことだけ考えてられません

13日の金曜日。ジェイソンが斧持って現れそうと、咄嗟に思うか否かで年齢がバレる。

 

ジェイソンが現れてもおかしくないような場所で、目の前を横切って行ったのは一匹の黒猫だった。

 

一心不乱にお食事中のリスが、見て見て!この角度からみた私、とってもキュート!!!と言わんばかりにカメラ目線だったり、仲よくポッポー♪と鳴いていた二羽の鳩なのに、一羽がおもむろにもう一羽に馬乗りになって鏡餅みたいになってたり。思えば今年も、野生からはほど遠いどーぶつの振舞いを目にしたもんだった。

 

写真撮っておいた方が、説得力も増すんだけど。どこからどう見てもカメラ目線で、野生とは思えないほどどーぶつ離れしたどーぶつの姿をカメラに収めると、何がしかの災いを呼びそうな気がしたからやめといた。

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カメラ目線のキタキツネ、再掲。ちゃんとエサにありつけてるといいんだけど。

動物を被写体にした写真では、時々奇跡のワンショットを目にするんだけど。

 

人間慣れしていないはずの野生動物が、コミカルで人間っぽいあるいは作り込まれたキャラっぽい仕草をカメラマンに見せる時。カメラマンの方が人間離れして動物の気配に近くなっているのか、それとも被写体となる動物の方が人間に近くなっているものか。さて、どっちなんでしょ。

 

ところでモグラのような小動物は、小さな体格に似合わず一日に結構な量の食料を必要とするんだとか。必要とする食料の量が多いと、食料となるエサのことを考えてる時間もそれだけ多くなりそう。

 

人間が人間離れして動物に近くなり、野生のはずの動物が「こいつ、仲間じゃん」と思ってトットコ近寄ってくるのは、もしかすると人間が食べ物、餌のことしか考えられないような状態になった時なのかも。

 

社会生活を営む人間だったら、一日中エサ、ご飯のことを考えて過ごすなんてことはあり得ない。今日のすることリストやその他をサクサク消化しながら、あらゆることを考えるはず。

 

エサとなる食料のことだけを考えて、睡眠時間以外のほぼ大半の時間を過ごすなんて姿は、ちょっと人間離れしてる。

 

エサ、それもどうやってエサにありつくかばかりを考えて一日の大半を過ごすと動物の気配により近くなり、野生のはずの動物も油断して、うっかり素の姿を晒す。とか考えた。

 

弱肉強食とか言うけどさ。彼我の力に圧倒的な差があり過ぎると、すみやかにエサを食い尽くしたあとの強者を待っているのは、終わりのない飢餓。

 

エサをすっかり食い尽くしたあとなのに、食っていかねばならん。

 

と、食物連鎖の頂点に立ったにもかかわらず、どうやってお腹を満たそうかと一日中エサのことばかり考えていると、例え最強であっても羨ましいからはほど遠い。捕食対象でエサにされるかもしれないけれど、エサにされることなんてなーんも気にせず好き勝手にのーびのびな方が、どっちかっていうよりもあらまほしい。

 

エサを求めて移動を続けたとしても、いつかは食い尽くす。どうやってエサにありつくかという煩悩から逃れようと思ったら、結局は定住しての計画生産に落ち着くんだよな。

あら、その設定見たことある

24時間いつでもどこでもニコニコ愛想を振りまける人は、愛想が要求されるサービス業に一見向いてるように見える。でも実際は、愛想を振りまく時と場所をわきまえて、オンとオフをキッチリ分けられる人の方が向いていて、長続きもするんじゃないかと思う。

 

何らかのサービス業について、愛想を金銭に換算するなら時と場所をわきまえる。

 

一時しのぎのアルバイトならともかく。愛想を金銭に換算し、長期に渡って生計を立てようとした時に、愛想にムラがあったらそもそもサービス業として長続きしない。しそうに見えない。ついでに、ムラのある愛想を金銭に換算したところで高値がつくとも思えない。

 

そうはいっても一次産業も二次産業も衰退したら、どうしたってサービス業に就くしかない。就くしかないけど愛想を振りまくのが苦手だったり嫌な人にとっては、だから一次産業や二次産業の人手不足はむしろ朗報で、苦手を自覚していたらそんな朗報は見逃さない。

 

適性がないのに志望するとミスマッチが生まれ、ミスマッチな環境はストレスとなってますます愛想を奪うはずだから、結局のところ生まれるのは悪循環。だから、明らかに適性に欠ける人を大量に集め、大量に集めて無理めの愛想を売るように強いると、それはそれは大きくて立派な悪循環が生まれる。

 

故意に悪循環を作り出す構図の中を、360℃見回してグルグル回ってみたところで、善意なんて落ちてる余地もなし。

 

ちなみに悪循環を辞書で引くと、困難をひとつ解決してもまた新たな困難が襲い掛かり、際限なく悪い状態が続く状態とのこと。あらら、王道格闘系少年漫画みたいな設定じゃん。少年漫画だと、主役が敵を倒しつつ時には仲間を増やしつつ、最後には勝利するようにできてるもんだけどさ。

 

でも現実では、やぁやぁ我こそはと主役になりたがるような人は、大体ろくでもないことが多く、ろくでもないという現実を反映して、名誉は渡しても実権は渡さないようにできてるもんだけど。

 

バンドやろうよと言い出すのは大体ボーカル志望者で、ボーカル志望者を多数集めたらセンター争いが起きる。目立つ場所に勝手に群がり、群がった場所で我こそは一番なりと醜い争いを始めるようなろくでなしを、見極めるために目立つ場所が用意される。

 

名誉の代わりに実権が渡ったら、大変だから。

 

数合わせや、争いを活性化させるために無理やり人為的に投入された。その種の、そもそも争いの場所だったら最初から顔を出さないし諍いも好まないタイプは、役目が終わったらとっとと去る。

 

ネットと現実の境目が薄れ、ネットと現実が地続きになると、いつまでたっても争いや諍いの場に残り続けるメンツの顔触れも、一緒になる。事件や事故、スキャンダルが起こった時にはいつも見る。そういう人種しか残らない場所は、最初からその種の人たちの遊び場や狩り場だったってことさ。

 

一緒に仕事する人から好かれやすいと、いい仕事も回ってきやすいとかいう根拠希薄な話もあるけれど、オンとオフを切り分けるタイミングを失うと、結局損するのは愛想を売って金銭に換える方。

 

愛想を金銭に変える気なんて毛頭もなかったら、不機嫌のままでも不自然じゃない。自分の機嫌を取って、ニコニコご機嫌で過ごせる方がずっーーーーーーーーーーと大事さ。

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過去に撮りためた、ご機嫌のもと。ついでに美味しいものも。

手袋もいらないくらい暖かい。そんな12月なかば、もういくつ寝るとクリスマスにお正月という年も、ちょっと珍しいんじゃないかと思う。