クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ムダでヨユー

気付けばどんぐりコロコロで、地面にはなん種類ものどんぐりがゴロゴロ。

 

朝晩はすっかり寒くなり、寒くなったとはいっても市内では紅葉はまだ先。先なんだけど、すでに銀杏の実まで落ち始めていて、どんぐりと違ってこっちはあんまり嬉しくない自然からの贈り物。待ちかねている人もいるかもだけどさ。

 

ものの価値がわからない人に好きなように使ってもらうと、だいたい大いなる無駄が生まれる。

 

例えば近頃は品薄だという、高級なウィスキーの原酒。ものの価値がわかってる人なら、ちびちびと少―しづつ味わって楽しみそうなところ。ものの価値がわからない、あるいは飲めない人にその使い道をゆだねると、じゃばじゃばと盛大に使ってアルコールたっぷりのケーキを作るだとか、料理酒代わりあるいは水代わりに使うという無駄なことがしたくなる。

 

飲めないけど、転売して儲けましょうと考えるのはものの価値がわかってる人で、だからその行為には無駄がなく、無駄がないから余裕や余剰がゴリゴリ削られてゆく。

 

“個人に対するプレッシャーがきつく、セーフティネットが脆弱”になるのは、結局のところ無駄を嫌うから。無駄を嫌って余裕や余剰をゴリゴリに削っていくと、結局は個人に対する風当たりばっかり強くなる。

 

逆に言えば個人に対する風当たりがきつくなるほどに、個人ではないものに対するプレッシャーはゆるく、セーフティネットも盤石になっていく。“個人に対するプレッシャーがきつく、セーフティネットが脆弱”というフレーズはそもそもどこかで見掛けたもので、オリジナルでも何でもないんだけど。

 

無駄も余裕も余剰も、享受しているのは個人じゃない方ばっかり。

 

という場所や土地なのに、個人の時代来るとか錯覚させるのは、結局は個人ではないものに対するプレッシャーをゆるく、セーフティネットも盤石にするための捨て石だから。

 

無駄も余裕も余剰もしっかり抱え込んでる側は、なぜ無駄や余裕に余剰がたっぷりあるのかわかっているし知っているから、わざわざ削ったりしない。削るのは、別のもの。

 

あれは一体何をやっているんだという大いなる無駄使いは、無駄使いすることでセーフティネットをより厚く盤石にしようとする姿。無駄使いは悪で節約は正義で、貯まりに貯まったお金。せーのでみんな一緒になって、セーフティネットをよりぶ厚く盤石にするために使うと、個人ではないものに対するプレッシャーも、よりゆるくなる。

 

一年365日、休むことなくお金のことを考え続けていると、お金のより有効な使い道も思いつくってもの。何のために、お金を貯めるのか。目的があって貯めたお金は、無目的に貯めこんだお金以上によく働くのかも。

金庫番

お酒や煙草に代表される嗜好品にも溺れず、異性に溺れることもない。

 

と聞くと一見面白味には欠けるけど、賭け事にだけは目がなく勝ちに異常に執着し、時にチートやいかさまを使ってでも勝とうとする。そういう性癖持ちを囲い込むのに向いてるのは賭け放題、身を持ち崩し放題の賭場よりも、実は経営者なんじゃないかと思う。

 

勝ちに異常に執着するのは得失、得や損に異常に敏感だからで、だからチートやいかさまを使ってでも得を最大化することにも敏感で、躊躇しない。

 

チートやいかさまといった不正行為がバレたら、チャリンチャリンと日銭を稼いでくれる大事なお財布である会社ごと沈むから、スリルも満点。時にダーティな手段を使ってでも、勝ちに異常に執着する。そういう性癖持ちはきっと、脳内アドレナリンに飢えている。

 

アドレナリンが大放出される。その感覚が快楽だから、その種の性癖持ちを経営者に据えると、快楽を求めて経営というゲームの難易度を勝手に上げていき、ゴールが遠くなるように設定すると同時に、ゴール時の快楽が最大化されるように設計する。

 

感情のもつれや行き違いを演出し、感情のもつれや行き違いがもとで大損する二者を置いてけぼりに、毎回漁夫の利を得るのは四六時中お金のことを考えてるような人や組織。お金に忠実だから、感情なんて気にもせずに後回し。

 

一年365日、一日も休むことなく自分や誰かの胃袋を満たすことを考えているのは、お食事当番。一日も休むことなく、いかに効率よくお金、それも大金を稼ぐことを考えているとすれば金庫番。

 

一日も休まず食事のことを考え続けるのは、食事は消えもので食べたら無くなるから。

 

一日も休まずお金のことを考え続けるのも、どれほど効率的に大金を稼いでも瞬時に消えていく、底の抜けたバケツやブラックホールを抱えているからで、決して満たされる日は来ない。

 

満たされる日なんて永遠に来るわけないのに、四六時中効率よく、それはつまり損をせずに大金を稼ぎ続けるのは、はっきり言って無理ゲー。クリアするのが無理なゲームだから、ゴールも最初からない。ゴールなき無理ゲーの参加者を募ろうと思ったら、できるだけ幼い頃からゲーム漬けにするに限る。分別がつくほど成長したあとでは、遅いから。

 

無理ゲーであってもいったん必需品となったら、あとは勝手に脳内アドレナリンが最大化される瞬間を求めて、勝手にゲームの内容に改変を加えつつ、難易度を限りなく上げていきながら、エネルギー求めてゲーム漬けになる。

 

手のひら、あるいは目の前にあるモニターの大きさ相応のゲームで満足出来たら、無理ゲーになんて魅力を感じないし、参加もしない。

 

ありもの、既製品では満足できなくなった人向けのオーダーメイドは、だいたい高くつくもんだと決まってる。高くついても高くつく、その行為や経験こそがすでに快楽の一種になってしまったら、足を洗うのは難しいやね。

持て余すともつれる

感情のもつれ、あるいは感情のしこりがもたらす経済的損失は侮れなくて、侮れないほど大きなダメージを与えられると知ってる側は、だから感情のもつれやしこりをわざと演出する。

 

例えば泥沼化した紛争地帯。紛争さえなければ交通の要所、あるいは豊かな観光資源や文化遺産を生かした文化観光立国として、もっと発展していたかもしれないと想像するのは、わりとたやすい。

 

泥沼化した紛争地帯が、もともとは豊かな観光資源や世界遺産級の文化遺産、あるいはよそではあまり見かけない自然の宝庫だったことを知ってると、余計にそう思う。でも、泥沼化する紛争地帯というのは、だいたい昔っから名の知れた大国でも大都市でもないことがほとんど。だから、昔っから名の知れた大国や大都市の思惑によって、紛争地化するしさせられがち。

 

紛争地というより代理戦争地化しやすいと思った方が、より想像しやすい。

 

激しく対立する二者の間には、対立にふさわしく相応のエネルギーが各々に注ぎ込まれる。発散させようのないエネルギーを持て余してるような人や何かにとっては、行き場のないエネルギーを発散させるのにもってこいの場所。

 

発散させようのないエネルギーを持て余してる人や何かは、平穏無事ファースト界隈では単なる厄介者。平穏無事ファースト界隈じゃなかったら、誰の指図を受けなくとも安易かつ安価なエネルギーとなって、紛争地を勝手にホットにする。

 

あそこに行けば、発散させようもなく持て余してるエネルギー、遠慮なく発散できるよと示唆するだけで、発散させようのないエネルギーを持て余してる界隈は勝手に集ってくる。勝手に集って、持て余したエネルギーを各々が思うように何らかの形に変える。建設的よりも、たいていは破壊的な形に。

 

だってエネルギーは流れるだけで、貯めておけないじゃない?

 

生産的なことが得意な人や何かは、そもそも平穏無事ファースト界隈とは相性がいい。

 

だから非建設的で破壊的なことが得意な人や何かは平穏無事ファースト界隈とは折合いが悪く、折合いが悪いだけならともかく折合いさえつけられないほど感情のもつれがゆき過ぎると、“場“が壊れる。

 

相容れない両者を同じ場所に置くと、たいていは“場”が壊れるだけで、均衡が崩れて壊れた“場”は、紛争地や代理戦争地に選ばれやすい。

 

平穏無事ファースト界隈とは相性の悪い、発散させようのないエネルギーを持て余した、生産的なことよりも非生産的で破壊的なことが得意勢を、送り込むのにちょうどいい先として。

 

島流しという刑罰が江戸の昔はあったけど、都市の治安を守ることを考えた時、よくできた制度だと思うしかない。発散させようのないエネルギーを持て余すのも、そもそも文化文明が整っているからで、文化文明度が下がるとまずは生存にエネルギーを使うようになる。

 

生活環境が厳しくなればなるほど、単なる生存にエネルギーを使うようになり、無駄なエネルギーを持て余すこともなくなる。生存にエネルギーを使うようになったからといって、誰もが生産的になるとは限らず、平穏無事ファースト界隈との折り合いがつけられるようになるわけでもない。

 

平穏無事ファースト界隈とは相性が悪いはずなのに、なぜかいつも平穏無事ファースト界隈に出没する。そんな人や何かは、非生産的や破壊的な性質を逆手にとって、平穏無事ファースト界隈が出来ないことを代わりにやることで彼らと折り合いをつけた姿。

 

庇を貸して母屋を取られちゃうと、平穏無事ファースト界隈の中身もそっくり入れ替わる。

 

感情的なもつれやしこりにいつまでたっても折合いがつけられない先にあるのは、経済的損失だけじゃなくて、結局は文化も文明も損なわれていく世界。泥沼化するってそういうこと。

 

舞台と役者が揃えばいつでもどこでも再現が可能と学んだ側は、好きな時に好きな場所で、また同じことを繰り返すと思う今日この頃。すっかり日が暮れるのも早くなった。

センシティブ

そろそろふた昔前にはなろうかという、昔の話。

 

エスかノーか。国論を二分する、センシティブなテーマにアメリカが揺れてたらしい頃。らしい頃というのは、今みたいにSNSTwitterもなかったから、本当に全米がその話題で沸騰してたかどうかは、当時その国に暮らして人にでも聞かないと、ほんとのところは謎。硬派なニュースでもやってたのかもしれないけれど、より記憶に残っているのはフィクションで記述されてた方。

 

センシティブな話題が国論を二分していた(らしい)のは、もうすぐセンシティブなテーマ(何しろ宗教が絡んでる)に決着が着きそうな時だったから。

 

センシティブなテーマそのものよりも、センシティブなテーマについて最終的な意思決定を司る立場の人が、そりゃもうしつこくしつこく「僕たち私たちの話を聞け」という活動家に追い掛け回される、フィクションの中の姿の方がより印象深かった。

 

オフィスでもプライベートでも。

 

職場は、「僕たち私たちの話を聞け」というプラカードを掲げた活動家たちに包囲され、自宅に戻れば戻ったで、やっぱり同じありさま。オキュパイドウォールストリートでやってた抗議活動みたいなもの。気の休まる場所なんて、どこにもないじゃんという状態ながらも、フィクションの中の最終的な意思決定を司る人は、飄々あるいは淡々としていた。

 

ふた昔前くらい前の出来事だから、何しろ彼我の権力差に違いがあり過ぎる。いくら「僕たち私たちの話を聞け」と四六時中付き纏われたところで、絶対の権力者である方は、痛くも痒くもない。

 

そのくらい、ふた昔前だったら最終的な意思決定を司る側の人には権力が与えられていて、確かその役目については終身だったはず。終身だから、誰かが亡くならない限りそのポストが空くこともなく、終身に渡って絶対権力を握ることになるから、ポストに就く前には徹底的に査問、質問攻めにされていた。

 

数日間におよぶ執拗で念入りな口頭試問もどきの質問攻めをクリアして選ばれ、その選考過程もガラス張り。テレビでも中継してたはず。生放送だったかどうかは知らないけど。

 

誰を選んでゴールさせるべきか。そりゃもう事前チェックが徹底してたから、その代償に強大な権力を手にするのも納得できるような仕組みになっていた。

 

形式的でも、形骸的でもなく。誰かにお膳立てされてパスしやすくなった、とっても歩きやすいルートを通って選ばれてたわけじゃないから、選んだ側やただ見てるだけの側としても、代わりに強大な権力が手に入るのも納得できるような仕組みだった。

 

事実厳しい審査をパスしてきてるから、オフィスでもプライベートでも四六時中「僕たち私たちの話を聞け」という活動家に包囲されても選ばれた人は我関せずで、淡々とあるいは飄々としてた。

 

終身まで続く最終的な意思決定を司り、不動の権力を手にする。そんな人に必要だったのは、何にでも素早く反応する脊髄反射神経なんかよりも、何があっても我関せずで、淡々と飄々としてることだったのが、ふた昔前の権力者像。

 

権力そのものが絶対でもなく、吹けば飛ぶように儚いものになると、脊髄反射で何にでもどこにでも顔を出し、表面上は「権力、やっす」と思われるような姿になる。絶対権力が通用しない代わりに民主化が進むと権力は安くなり、安売りしたくない権力者ほど、お高くとまる方を選ぶのかも。

 

表面上は「権力、やっす」と思われる姿を選ぶのは、吹けば飛ぶように儚くなった権力のありように合わせて単に変化あるいは進化した姿。それでも何があっても我関せずで、淡々と飄々としている態度そのものは変わらなかったら、やっぱり最終的には何があっても我関せずで、淡々と飄々としてるしできる資質こそが、いっちゃん大事なことには変わりなし。

 

その国にとっては国論を二分するセンシティブなテーマであっても、たいていの日本人にとっては、なぜそこまで沸騰するの???と謎でしかない。だけど、宗教的なものって大体そんなもん。

 

お正月や、お正月代わりの行事、例えばクリスマスやその他。大事にしてるものが違う人との距離が近くなるなら、相手がタブーだと思うことについても詳しくなるか、タブーには極力触れないか。

 

いちいち沸騰する必要がなければサラっとやり過ごすのが現実解で、現実的な態度ってもの。いちいち沸騰するのはエネルギーが足りてない、エネルギー不足だってことを別の表現で表してるだけさ。

クリックしたくない

何かやどこかのランドマークになれそうな、アーティスティックなモニュメントには時々、わかったような、わからないような能書きがついている。

 

ほとばしる生命のきらめきを閉じ込めた、あるいは連綿と続く悠久の時の流れを表したとか何とか、そんな感じ。そう言われても、はぁそうですか。。と、首ひねるしかないようなもので、実用性からは遠い。

 

実用性から遠くても許されるのは、アートでアーティスティックだからで、その種のはぁそうですか。。と、首ひねるしかないような能書きを、例えばECサイトにそのまま援用すると、非実用というありようが、よりはっきりする。

 

カワイイやシンプル、あるいは和風や洋風といったタグと一緒に、“悠久の時の流れ”やあるいは“生命のきらめき”といったタグが並んでいても、面白がってクリックはされるかもしれないけど、多分買い上げには至らない。

 

手仕事のぬくもりくらいだったら、そんなタグにも一定の需要はあるかも。

 

でもアーティスティックな能書き、タグは、解釈の幅が広くなってしまい、実物を見た人とタグをつけた人との間で、ディスコミュニケーションが生じやすい。だから、万人にとってわかりやすいタグの方が推奨される。スタイリッシュや、新製品みたいに。

 

世の中にもECサイトにもモノは溢れているはずなのに、探しても一度ではたどり着けないようなモノは、万人にとってわかりやすいタグ付けを、最初から避けてるものかも。避けているのは、商流の上流にいる側なのか、それとも下流にいる側なのかは知らんけどさ。

 

モノは溢れてるはずなのに、買って!!!買って!!!といつでもいっちゃん前に出てくるものの顔触れが一緒だと、探すことそのものが馬鹿らしくなる。

 

実用品であってもありふれたものでは満足できないのは、こだわりが強いからで、こだわりが強い人から先に、探す行為そのものから離脱するようになると、残るのは受動的な人向けのもの。あるもの、すぐに手に入るもので十分満足できて、人と同じであればあるほど安心する人向けのものがすぐ目に留まるようになって、それしか残らないようになっていく。

 

一定数の売りが集中したら自動的に取引停止という、株なんかでよく見るアレ。

 

何があっても絶対に売りたいものがあり、そのために邪魔になるものはすべて封殺し、そもそも最初からなかった、存在さえしなかったように偽りたかったら、“絶対に何かを売りたい勢”が結託してアルゴリズムをハックすれば何とかなりそうと思う程度には、ECサイトも検索結果も信用してないしできない。

 

ECやICTが今のように成長するはるか以前から、その種の行為に一生懸命勢は一定数いて、彼らにとって使い勝手のいい道具を与えちゃったら、そりゃ張り切って道具を使い倒すに決まってる。ECやICTが今のように成長するはるか以前から存在してるんだから、ネット内をいくらきれいにしても無駄で、彼らはリアルで繋がっているから。

 

ひとつ使い潰したら、次のより使い勝手のいい道具へと次々に使い潰しつつ、やってることはずーっと一緒で変わらない。定点観測してる側はそんなこともすっかり承知で、著しくアンバランスな時にだけ介入するのかもね。かもかも。

でっかいんだけどさ

北海道はでっかいどうという、よく知られたイメージを利用してか、“関東以北最大級”という枕詞をよく見かける北の大地。墓地だってでっかい。

 

こんなにだだっ広い墓地も、いずれはびっしり埋まるのか。。と、きたる未来を想像すると何とも言えない気持ちにもなる。その反面、都市への人口集中が進んで住環境に恵まれた住宅あるいは住宅地が不足するようになると、墓地のような縁起悪い施設を交通アクセスに恵まれた好立地に作るわけにはいかなくなりそうで、この辺りは地面のお値段に詳しい人に聞いてみたいところ。

 

持てる者と持たざる者と。スーパーリッチマンと庶民との生活格差は広がってるらしいけど。かといって自己顕示欲の強いスーパーリッチマンであっても、現代日本でピラミッドのような、自己顕示欲と財力や権力相応のお墓を街中に建てられるかというと、きっと無理。

 

自己顕示欲の強いスーパーリッチマンは、別の言葉で表現すればノイジーマイノリティ。

 

マジョリティーに合わせて作られた社会規範のなかでは、マジョリティーの意に沿わないものは、マジョリティーの意に沿うまでダメ出し食らって改変される。

 

だから、もしも自己顕示欲がやたら滅多に強い酔狂なスーパーリッチマンが、今まで社会に対して多大な貢献をしてきた証として、気に入った場所にピラミッドのような奇抜なモニュメントを建てたいと思っても、最初に思い描いた形そのまんまで意見が通るとは思えない。

 

なんでここにそれがあるわけ???必要なわけ???

 

と、他人様のお金の使い道にやたら滅多と厳しい人たちは、彼らが納得するまでダメ出しをやめないに違いないから。大多数の人にとっては意味もなければ利用もできず、ただ眺めるだけ。権力や財力の大きさだけを記念したモニュメントを、地面のお値段が飛び切り高い場所に作れたら、何よりも権力や財力の証になるんだけど。

 

何よりも権力や財力の証となるから、万人に認められた権力者にしかそんなわがままは許されず、万人に認められた権力者がすでに存在する場合はややこしくなるだけだから、どちらかが譲ってる。

 

例えば美術館に公園。誰かの名前がついた公共性の高い建物や施設は、一種のお墓。

 

社会に対して少なからぬ、あるいは多大な貢献をしたという自負のある人が選んだお墓のカタチだと思えば、恩を感じている人もお参りしやすくなるってもの。

 

美術館や公園に代表される公共寄りの建物や施設だと、なんでここにそれがあるわけ???必要なわけ???とも言われにくいから、作りやすくもあるけれど、“公“と相性が悪かった人が最後に選ぶお墓のカタチとしては、どうなんでしょ。

 

既製品、すでにあるもので十分賄えるのは思えばお得でコスパがよくて、お得やコスパよしが大好きだったのに、最後の最後でお得でもコスパもよくないオーダーメイド品が必要になるんだったら、無念。あるいは未練たっぷりになりそうで、モッタイナイと化けて出てきそうで、クワバラクワバラ。

同じでも違う

同時代性は、盲信しないしできない。

 

例えば、それまでスルーされてきた誰かや何かの待遇改善に着手して実際に功があった人に対して、同時代にあって待遇改善の恩恵を十分以上に受けた側から非難するのは難しい。

 

待遇が改善されて、暮らし向きも劇的によくなったんだけどさ。あれはひどかったし、ないと思うの。という功績の陰にあった“ひどいこと”に対して、正面切って非難することもひどいことがあったんだということも、おおっぴらにする人はそうそういない。

 

おおっぴらにもできずさせず、隠しに入ってるのなら、すでに守りに入っているということ。

 

だから、すでに守りに入っているにも関らず、革新とか何とか何言ってんだか。という構図を見抜いてる人は、すでに守りに入ってる人の煽りには乗らない。気分が乗らないから。乗らないけれど、気分が乗らない理由はおおっぴらにはできないから、別の理由をつけたり言を左右にして誤魔化してやり過ごすもの。

 

花柳界という言葉が、まだ生きていた時代の頃。

 

勝ち気で売れっ子だった芸妓さんは、とある男性に苦労したんだね。。とその手を取られた途端にハラハラと涙を流したんだとか。そうか、勝ち気な女性は優しい言葉で労わればいいんだ。と、別の男性が同じように手をとって同じように優しい言葉をかけたところ、その芸妓さんは、何すんのさ!と怒るだけだった。

 

というエピソードを、800文字もあるかどうかの短いコラムの中で見掛け、苦労した女性の心さえ瞬時に解きほぐしてしまう「とある男性」は、本当によくモテた人だったんだと思ってた。

 

後年その「とある男性」の顔写真を見掛けるまでは、脳内イメージは白皙の優男。優し気で、品があるタイプのハンサムさん。ところが実際の写真では、見ようによってはハンサムといえなくもない感じで、モテモテだったとはとても思えなかった。ついでに、「とある男性」自身の名前で書かれていたエッセイ集も、自身がモテることを前提で書かれていて、どっちかっていうまでもなく感じの悪いエピソードが多かった。

 

なんでこんな人がモテたのか???

 

800文字もあるかどうかの短いエピソードは、短いだけにやっぱり大事なことが抜け落ちている。勝ち気な芸妓さんでさえ瞬時に心を開いたとある男性は、その時点で売れっ子の人気作家で、母親は後年朝ドラの主人公にもなった働く女性の先駆けみたいな人。その顧客には、上流や名流のご婦人を抱えていた。

 

日々さまざまな職業の男性と接する機会のあった勝ち気な芸妓さんがもし、“私はこんなところで終わるような女じゃない、もっとビッグになってやる!!!”と、上昇志向が異様に強い女性だとしたら、モテ男性のモテエピソードにも、また別の見方が生まれる。

 

勝ち気で上昇志向の強い女性が、ここぞという時にこれぞと思う男性の前でだけ、計算づくでハラハラと涙を流して男性の心を掴みに行ってたとしたら、これぞとも何とも思わない男性の前でとの態度の違いにも納得がいく。

 

働く女性の先駆けで、名流や上流とのつながりもあるその時点ですでに有名な職業婦人を親に持った男性なんて、上昇志向の強い女性にとっては是非ともお近づきになりたいカモじゃん。

 

ちんまりとどこかの家庭におさまるよりも、芸妓を脱出し「新しい女性」として自身も職業婦人の仲間入りに何とかなりたいと思っていたら、計算づくでここぞという場所で涙を流すくらい、何でもないと思う。

 

同性は同性をよく観察してるから、本当にただ瞬時に心を持っていかれただけなのか。それとも実は、もっと別の望みを持っていたのかにもきっと敏感。敏感だから、男性視点よりも、同性かつ同業の目から見た勝ち気で売れっ子の芸妓さんが本当はどういう人だったのか、その意見も聞いてみたいところ。

 

800文字あるかどうかの短い、ただ男性がモテたことを印象付けるためのエピソードでは、そんなことまでわかんないんだけど。

 

でもまぁ、ウーマンリブが盛んな時代にあって、ウーマンリブに燃えてる人たちが是非とも神輿に担ぎたいと思いそうな側にいる相手に連なる人物に対しては、そう滅多なことは言えなかったことだけは、間違いないと思うの。袋叩きが待ってそうじゃん?

 

同時代性は、盲信しないしできない。

 

ただ好きで集まった集団が好ましいと思う人物や何かが、好悪を超えたもっと広義の集団の中では時として評判が悪くなる。その根っこにはきっと、同時代性に対する濃淡があるに違いないと思ってる。

 

心の底からその境遇に同情してその手を取った女性が実は、手を取ってくれた人自身には興味も関心もなく、そのバックグラウンドにだけ興味と感心があったら百年の恋も一瞬で醒める。

 

互いに欲得づくでよりよき社会のため、社会改良のためだと納得済みだと、狐と狸のばかしあいでお似合いの二人になれるけれど、どちらかが不実でどちらかには欲も得もなかったら、すれ違って悲劇になる。