クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

嘘がない

最高気温も最低気温もマイナスとなった真冬日

 

運動不足解消も兼ねて、買い物ついでに遠回りすると体が冷え切った。冷え切った体を温めるのは、暖かい飲み物に暖房。いちばんよく効くのは暖かいお風呂。ついでに冷え切った心を温めるのは、カワイイもの。

 

可愛げのないものは、冷え切った心をさらに凍り付かせる。だからイヤガラセするんだったら、可愛げに欠けるものを出すに限るわな。

 

良心と道徳は、似てるようでちょっと違う。

 

道徳的な人というと、イメージとしてはちょっとお堅い。道徳に忠実すぎて、杓子定規でものごとを解釈しがちな人をイメージするから。一方良心的な人というと、もう少し柔らかいイメージで、道徳をわきまえつつより誠実で、その立ち居振る舞いに嘘がなく、真心がこもってそうな人をイメージする。

 

フィクション上の設定では弱きを助け強きをくじくことになってる人が、実生活ではその逆で、強きを助け弱きをくじくばっかりだったら興ざめ。

 

大衆迎合のわかりやすいイメージは、大勢の人の前では、弱きを助け強きをくじく“振り”を上手に演じながら、その実体は弱い者いじめが大好きで、大勢の人の目が届かないところでは、嫌がらせを繰り返すような人。

 

強い弱いの判断基準も恣意的で、要するに気に食わないだけなんでしょ。

 

立ち居振る舞いに嘘があり、その嘘を大勢の目から隠そうとする人と思えばまず間違いなく、その立ち居振舞いにはまったく良心が感じられない。

 

とはいえ良心に欠ける立ち居振る舞いが目立つ人は、良心に代わるものを行動基準に置いているだけで、そんな人の良心に欠ける振舞いをなじったところで意味はない。

 

良心的に振る舞ったところで特にメシのタネにもならず、食べさせてもらったのは別のもののおかげだったら、彼らが良心以外のものに忠実になるのもしょうがない。

 

良心を裏切る振舞いの方がお得だった経験が刷り込まれた人に対しては、良心的に振る舞う方がよりお得で、最終的にはハッピーになれるという経験が上書きされない限り、そのまんま。

それはプライスレス

日本で最大規模のグルメサイトによると、昨年札幌でオープンした飲食店は600店なかば。口コミのなかには大規模チェーン店の新規出店も含まれるので、純粋に新しくお店を出した例となると、きっともっと少ない。

 

最近は、新しくお店がオープンしても口コミサイトには載らない(お店が掲載を望まない)ケースもあるから、実際にオープンしたお店の実数は、グルメサイト単体では掴みにくい。とはいえある時点までは確かに、新規オープンする飲食店の情報を、グルメサイトがほぼ網羅してる時があったと思ってる。

 

だから、新規オープンしたお店とその後の情報までぎっしり詰まったグルメサイトは、今ではグルメサイトというよりデータベース。

 

どこにどのような業態でオープンしたお店が、どのようにどれくらいの期間で人気店になったのか。あるいは人気店とはいえないけれど、新陳代謝の激しい飲食店業界で、とにもかくにも営業を継続しているお店のリストが詰まったデータの山。

 

中の人なら、もっといろんな角度からの分析もできるはず。すでに分析したデータを持っているから、「何かお手伝いできることはありませんか?」ではなく、「そちらに足りないのは、○○と△△。○○と△△を足したいという意欲はありませんか?」という提案もできる。

 

データがあれば、もう御用聞きはいらない。

 

「何かお手伝いできることはありませんか?」と戸別訪問しての御用聞きは、楽しいお仕事じゃない。データさえ揃っていれば、もう楽しくないお仕事からは解放され、その代わり、他のことに集中できる。

 

勝者が総どりできるのは、コツコツ自力で蓄えたデータがあってのこと。自力で蓄えたデータはないけれど、代わりにお金出して買うことができたら、大量のデータも自分たちのもの。

 

お金さえ出したらなんでも手に入るというのは、とってもフェアな状態で、札束をいくら積んでも買えないものがあるのは、アンフェア。

 

とはいえコツコツ自力で蓄えたデータを、一体誰に渡すのか。そこにあるデータは、そもそもお金に代えることなんて夢にも思わずただ楽しみのために集めたものだったら、お金に変える気満々の錬金術師には渡したくないと思うのは自然。

 

そもそもお金に変える気満々で、いつか買い手が現れるのを待ち望んでいたら、お金に変えましょうという提案は地獄に仏で渡りに船。

 

そもそもお金に変える気なんてまったくない、ただ楽しみのためにコツコツ自力でデータを蓄えられる人が誰かも、データを見れば一目瞭然。ただ楽しみのためにやっている人は、そのデータが市場利用されることを知ったら、データを提供することを辞めてしまい、また別の、ただ楽しみのためだけにデータを蓄えられる場所に移動するもの。

 

その心理を利用すれば、すでに貯まり切ったデータを商業利用し始める場から、これから生データの宝庫としたい場所へと移動させるのも簡単。

 

市場と相性が悪い人は、市場とは極限まで距離を置き、市場ファーストで脳内が染め上げられた人は、どこであろうと市場ファーストを持ち込んで、“ただ楽しみのためだけ”勢を駆逐する。

 

余裕がないのはどちらかなんて、一色、独占をめざす人に決まってる。

 

脳内が市場ファーストで染め上げられた人は、世の中にお金で買えないものがあることが許せないタイプかもしれず、それは「お前には売ってやらん」と言われ続けた経験から来るものかもしれないから。

 

プライスレスなものは、最初から最後まで市場には馴染まない。

 

大事にしていたプライスレスな何かをすっかり破壊された人が、本来値段のつけようもないプライスレスなものに逆に値段をつけ始める光景は、どこかゴジラ大暴れっぽい。

虫愛ずる姫と王子

空港で足止めを食らった人にとってはきっと嬉しくない雪も、積もったばかりだとたいへんキレイ。いかにも雪国らしい景色は、目を楽しませてくれる。特に先を急ぐ用事がなければ、きれいねーとただ喜んでられる。

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蟻はbug かinsectか。突然気になったけど、よく考えれば日本語の日常会話でも虫のことをわざわざ昆虫と表現する人なんて、ごくわずか。厳密性が要求されない場面では、ざっくりbugでいい。

 

ところでbugには、プログラムの誤りという意味もある。

 

とても美しいヒト型に似た容姿を持つけれど、その実態は昆虫が進化あるいは変異したもの。その美しいヒト型の昆虫が大いなる苦痛を味わうと、例えばオーロラのような世にも稀な美しい自然現象を呼び起こす。という設定のお話がありまして。

 

同族の味わう苦痛が世にも稀な自然現象を引き起こし、大勢の観光客を呼ぶからフトコロも大いに潤うことを知った、美しいヒト型の昆虫。同族を苦痛から救うよりも、同族内でのより手厚い再配分を望み、自ら同族を痛めつけて苦痛を与える道を選んでヒューマンを呆れさせていた。

 

さすが、もとは昆虫。

 

ヒューマンにとって予想外の選択は人類愛とは無縁で、そもそも人類でもないから彼らが見せた知性と感性は、ヒューマンとは相容れない。

 

同族の味わう苦痛が蜜に変わるという設定で、また思い出すのはミュンヒハウゼン症候群。周囲の関心や同情を集めるために自らを傷つける、あるいは子供を病気にしてしまう病。世にもまれな自然現象と観光客を、可哀そうな人に寄せられる関心や同情に置き換えると、なんだか似てる。

 

難病に苦しむ子供とその家族には、同情が集まるもの。だけど、周囲の同情や関心を集めるために子供を病気にしたことがバレたら、集まった同情も関心もすみやかに軽蔑に変わる。

 

それ、単なる虐待だから。

 

自分の子供、あるいは同族に与える苦痛が虐待と謗られてしまうのならと、ターゲットを変え、赤の他人を傷つけるようになったらそれはもう犯罪。虐待がダメなら、犯罪に走る。うん、どう考えてもヒューマンの知性とも感性とも相容れない。

 

誰かの味わう苦痛が蜜に変わると知って、急いで同族になろうと急接近して蜜のおこぼれにあずかろうとする。それだけでなく、より手厚い同族内での再配分をめざし、さぁ泣けもっと苦しめと、一緒にさらなる加害に精を出す。

 

その一連の行為が犯罪と立証されそうになったら、速やかに無理くり縁を結ぼうとしたことはきれいさっぱり水に流して、遁走する。

 

どこにも知性が感じられない行為が平気なのも、もとは昆虫だから。ヒューマンの常識も言葉も通じない相手はヒューマンではなく虫、bugとして扱われ、bugすなわちプログラムの誤りだから、取り除かれるかリセットされる。

 

その後はそんなに虫が好きなら、ずっと虫、bugでも眺めて暮らすがいいねと、bug取りに従事させられると、現代風ディストピア御伽草子のできあがり。

 

同族への虐待によりフトコロが潤うシステムが、あまりにもうまく回り過ぎていまさらもう同族への虐待が止められない場合は、さてどうすればいいのか。

 

まずは、同族への虐待を非難する声を徹底的に封印する。非難するものは同族から切り離してしまえば、非難の声も上がらなくなる。虐待を非難するのは、同族に対する同情あるいは憐憫があるからで、だったら虐待する対象をより同情も憐憫もされないものにすればいい。

 

1ミリグラムも心の動かない崇拝者の捧げる献身は、同族とは言えない同族として、食い物にするのにもってこい。

 

信者と書いて、儲けるとはほんとよく言ったもの。儲けたい人にとっては、都合よすぎる存在が、信者で崇拝者だから。という思考実験、おしまい。

 

1月4日

今日は仕事始めとはいえ、金曜日。

 

今日は休暇を取って、土日は休みだから実質的な仕事始めは7日から。環境が許せば、そういう人は多いのかも。仕事始めの気配も薄い街は、今日も静か。静まりかえってる。

 

当初言われていた目標数値から、いきなり1.5倍に伸びるのは見積もりが甘かったせい。初期投資費用を回収するには、当初予定の1.5倍の数値が必要になったからがんばってねと言われたら、暴れてもいい。

 

無気力、無感動で無関心。あるいは無反応が長寿の秘訣。

 

だから長寿社会の別名は、無気力・無感動・無関心に無反応社会と言い換えてもいいかも。かもかも。喜びに怒り、哀しみに楽しみといった感情の振れ幅が大きいと、擦り切れるのも早くなる。

 

感情の振れ幅が大き過ぎる人生を過ごし、擦り切れて魂は抜け殻状態になったあとも、肉体だけは生かされ続けるのが現代。そんな状態は生きてるとは言えないからノーサンキューと、どこまでも自分の意思を優先させる人は、無気力に無感動、無関心に無反応とは距離を置ける。

 

何もしなければ、永らえてしまう。永らえたくなかったら、何かする。

 

生き甲斐を持つのは、退屈な長寿社会に備えるという面もあるけれど、一方で生き甲斐のなくなった生をどうするのかと自問するきっかけにもなる。ガウディのように、100年経っても200年経っても完成するかどうかも危うい、一生の掛け甲斐のある何かをすでに見つけている人ならともかく。そんな人は、稀。

 

一生の掛け甲斐のある何かを特に持たないその他大勢の人は、自称ガウディによる一生を掛けたプロジェクト(自称)の労働力として駆り出されがちで、その傾向は、無気力、無感動、無関心で無反応なひとほど強くなる。

 

特に親しくもなければ関りも薄い他人のために、特に興味もなければ関心も薄い目的のために生かされる危険性が高まるから、無気力、無感動、無関心に無反応は悪手。

 

悪手の先には、無気力・無感動・無関心に無反応を食い物にしながら、生き永らえようとする誰かが揉み手をしながら待っている。

 

前門に、無気力・無感動・無関心に無反応を餌とする奴ら。後門には、放火する消防士に自ら事件を起こす警察官、そしてニュースとなる事件を起こすメディア関係者といったマッチポンプ勢が待っていれば、さてどの道を選ぶかと言えば、決まってる。

 

自分のためになる、自分の道。

 

自分のためにはまったくならない道は、無理無駄無用で無視するにかぎる。見知らぬ誰かを、ただ永らえさせるためだけに引かれた道なんて、知らんがな。

新年

拡大するとなんだかよくわからないブツは、新年のお菓子。桜入りのお茶と合わせると、さらにおめでたい感じ。食べ過ぎの胃には、これくらいの甘みがちょうどいい。

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やり過ぎたと思えるくらいやったので、満足。

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黒豆、数の子、かまぼこ、栗きんとん二種(リンゴ・栗)、だて巻き、昆布巻き、タコの柔らか煮、お煮しめ、ローストビーフ、北寄貝の煮付け、サーモンなます、さんまのマリネ、たたきごぼう、金柑のシロップ煮、ごまめ、焼き銀杏。

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と、焼き銀杏をのぞくと16種類。そのうち作ったのは10種類。

 

家庭にあるとうれしい電気圧力鍋にフードプロセッサーにハンドブレンダー。それだけあれば、一見面倒そうなものでもわりと簡単にできる。おせちはよく考えられたもので、詰める前はいらないかな?と思ったごまめも、箸やすめには最適。

 

箸が進むもの。進まないから箸休めには最適なものと、とりどりになっているあたり、保存食としての長い歴史を感じる。長い歴史と言われるものは、案外そのルーツは長くないとか言われたりもするけれど、去年のはやりはもう廃ってるのが当たり前だと、年単位十年単位で続いているものは、もうはやりを越えたものでいいじゃない。という気持ちにもなる。

 

家中の保存容器を総動員し、チマチマとワンプレートに盛り付けたおせち。キャラ弁でも作り慣れていたら、きっとこの種の作業も苦痛じゃない。それどころか、何でもない食材でももっと華やかに盛り付けてそ。

 

今年も、食べる物には困らないようにしたいもの。お腹空いたで目が覚めていたひと昔前は、思えば健やかだった。

今月後半に食べたものの振り返り

座り心地の悪い椅子を別のことばで言い換えると、末席。末席だから、時にはいらん子扱いされることも多いけれど、席は席。

 

下からはその席寄越せと突き上げを食らい、上からは末席ゆえにこき使われることもあるから決して座り心地がいいとは限らないけど、席は席だから堂々と座ってりゃいいのさ。

 

イベントごとの多い、今月後半に食べたものの振り返り。

 

晦日も元旦プラスアルファの用意もだいたい終わって、あとは野となれ山となれ。冷蔵庫いっぱいの食材を、順次食べつくしていくだけ。

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  • 厚揚げとひき肉ののピリ辛煮込み
  • 鯖の塩焼き、かぶの粒マスタード和え、ホウレン草としめじ、にんじんのお浸し
  • 柚子とイカのパスタ、かぼちゃのポタージュ、ホウレン草としめじ、にんじんのお浸し
  • うずらの卵入りミートローフ野菜添え、シーフードピラフ、カマンベールのチーズディップにチーズいろいろ
  • シーフードカレー、大根と帆立の和風サラダ
  • 焼きチーズカレー、サラダ
  • ミートローフ、鰊の切り込み入りポテトグラタン、野菜の煮込み
  • えのき豚、高野豆腐
  • コーラ豚の野菜添え、高野豆腐、黒豆煮、白菜のラーパーツァイ風
  • 牛キノコ鍋、白菜のラーパーツァイ風、麦蕎

冬至といえば、かぼちゃにゆず。

 

かぼちゃはポタージュ、ゆずはパスタソースにして旬を意識してみる。本来旬のものが最もお買い得のはずなのに、旬だからこそ高くなるのはオンシーズン価格???イベントごとが続く師走後半は、食材の価格も高止まり。フレッシュさとお手頃価格が最適解となるお買い得は、一体いつになるのか悩ましい。

 

去年は鶏だったから、今年はミートローフにしてみたクリスマスのメインディッシュ。ようは野菜その他が入ったハンバーグで、タネが柔らかくなり過ぎて成型しにくいから、普段は作らない。ようはハンバーグなので、使いまわしも効いて便利。

 

予想した通り、最中の皮はチーズディップのおともに最適だった。これは個人の感想です。

 

バカみたいにシーフード系の食材をふんだんに使ったシーフードカレーは、やっぱり年末の賜物。ホリデーシーズンになると、それ食えもっと食えと山盛りのシーフードが店頭に並ぶ海産物王国とはいえ、近頃は海外産のものも増えた。すぐそこで採れはずの近海ものは、あるいはシンガポールあたりに空輸されてるかもしれないのがグローバル社会。

 

アトランティックサーモンの脂質は、北海道産サーモンのなんと10倍で、脂たっぷり。作りたいレシピに合わせて使い分けるのがいいやね。

 

一度しか食べたことのない焼きチーズカレーとカレー風ドリアの違い、どこにあるのかよくわからないまま、シーフードカレーを使いまわす。

 

食べにくさより見た目の派手さにこだわると、見栄えがするけどやっぱり食べにくかったシーフード系。食べにくいけど食べてみるかという気分になるのは、やっぱり年末だから。食べにくいから普段は面倒くさいと敬遠してるものでも、食べてみるかという気にもなる。

 

ホリデーシーズンを乗り切るためのロードマップを作り、だいたい当初の予定通りに進むと、気分もスッキリ。走り切ったという気持ちで年越しに突入し、新年は新年のロードマップを作る。

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追記:作り過ぎ食べ過ぎのため、年越し蕎麦にはたどり着けず。年明けに回しましょ。日持ちするものでよかった。作り過ぎ食べ過ぎで食べ切れない場合があるから、年末年始は特に日持ちするものに限る。

 

飽きてくるんだけど、飽きるほど繰り返し何度も同じものを食べるのもまた、お正月と思えば何てこともなし。食べ物は、ほっておけば限りなく工業製品に近づいていく。手間を惜しむ消費者が増えるほどに、消費者の好みを反映した手間いらずの商品が増えていき、素材そのものが手に入りにくくなる。

 

くちなしの実、使いたかったら来年はもっと早くから準備しようという、来年の自分に向けてのメッセージ。大規模調達かつ大規模調理でできた給食は、一歩間違えれば配給になり、配給が滞ったらたちまち困る。

 

日々同じような作業を繰り返し、自由になる時間も少なく、口にするものといえば工業製品化した食品ばかり。という生活を繰り返したヒトもまた、限りなく工業製品に近くなっていくディストピアかな。

 

以前食べたフォンデュ向けのチーズは、付加価値の塊だった。食べ物は腐る寸前がもっとも美味を体現したようなチーズで作るのは難しそうな反面、付加価値の塊だから、特徴に欠ける工業製品ばかりのなかでは高値がつく。

 

新年まであと30分。お休みなさーい。

手直し

去年は失敗したもの。今年は上手くできて、気分がいい。

 

例年とは違う、斬新な作り方をダメもとで試してみたところ、手間いらずで簡単なのに上手にできた。今までの苦労は何だったんだろう???伝統の継承に重きをおかれてる場所では、ダメ出しされそうな作り方。

 

煮方、焼き方に買い出しと、シングルタスクにつきっきりになれる場所じゃなし。一人で何役もこなさなねばならない、プレイングマネージャーしかいない場所では、斬新な手法が編み出されるものかもね。めちゃお役立ち。

 

面倒を最小にするための発明や進化は、面倒と感じることで発展するもの。そもそも面倒とも思わず当然だと思ってたら、いつまで経っても面倒ごとからは解放されない。

 

面倒ごとを面倒とも思わず手を動かせる人は、面倒とは思わずに遊んでる。

 

気持ちの余裕あるいは時間の余裕、またはその両方。余裕があって、今日は何して遊びましょうかと考えることから一日が始まるような人にとっては、面倒なことも遊びのひとつ。へぇ世の中にはこんなに面倒なこともあるのかという、好奇心発動でしばらくは面倒なことも楽しめるけど、遊んでられるのも余裕のある間だけ。

 

余裕がなくなったら、面倒なことはやっぱり面倒なだけと気付く。

 

長年染みついた習慣で、手を動かすことで乗り切ってきたもの。あるいは修行の一環として、手を抜かないことが尊ばれていた場所には、発展や進化の芽が山盛り隠されてそう。

 

隠すから、面倒なことは面倒なままで温存され、習慣で手を動かせる人や、修行の一環として甘受できる人にとって居心地のいい場所となってきた。なんてこともあるかもしれず、習慣にも修行とも縁のないその他大勢の人にとっては、意味が見出せない行為は現実に合わせてアップデートされる。

 

感性という一見説明の難しいもの。自身では再現出来ても、言語化して他者に伝える術を持たないケースは、まさに手を動かすことで培ってきたようなもの。「ここを、こう」と、ちょっとした手直しで見違えほど見栄えがよくなることがあるけれど、その「ここを、こう」という感性は、案外手直しできる当人には言語化できないもの。

 

つねに言語化する訓練を経てきたケースなら別。

 

一見言語化は難しくとも、細部まで分解して分析することで、「ここは、こう」を具体的な数字に置き換えることは、あるいはもう可能なんじゃないかと勝手に思ってる。バレる、隠せなくなったら、手を動かすことで乗り切ってる人や、修行の一環と甘受してる大勢の人の立場がなくなってしまう。だから、隠し通せる限りは隠すが横行するのかもね。かもかも。

 

今年もあと一日。