クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

コインじゃらじゃら

断捨離のための整理を進めていると、もれなく発掘される外貨おもにコイン。換金もできないコインばっかりじゃらじゃらと貯まっていき、泉やその他名所にコインを投げ入れる人の気持ちがちょっとわかったような気がする。

 

国内では使えず、かといって捨てるのもアレ。だから処分に困って、じゃらじゃらと貯まっていく。高額紙幣の廃止は脱税防止にも繋がるとか言うけれど、わりといっぱい。と、期待して紙幣を数えて円換算してみたら、これっぽっち???と思うガッカリ感も半端ない。

 

換金できない外貨を貯めこむことは、損を積み重ねることと同意。

 

わりとお高いものあるいは質のいいものは、最初からメンテナンスのことを考えている。糸に端切れにボタン。メンテナンス用のパーツがおまけとして最初からついてくる服は修理してお使い下さいのサインで、メンテナンス用パーツが省略されている服は、メンテナンスしてまで使うとは考えてないサイン。

 

修理してまで使うか、買い替えるか。修理金額が本体価格を上回るようなら、修理したりしない。修理してまで使うものじゃなかったら、ポイポイ捨てられる。生鮮品、旬があるものは旬が過ぎたら袖を通すのもなんだかアレで、捨てるかリサイクル行き。旬、流行りすたりは製品寿命を短くするから大量に消費されないと採算も採れないけれど、大量に消費される前提が今どきだとそもそもアレ。

 

旬のサイクルが短くなり過ぎて、そこかしこで叩き売りの光景を見るようになると、お金かけるのもばからしくなる。

 

あらステキと思ったワンピース。よく似たものが、ネット通販の倍以上の価格でデパートに並んでいた。デパートにあったものは、知る人は知っている海外ブランド。質がいいから長持ちして、いつまでも着心地がいい。

 

閉じている状態なら、パクってもばれにくい。だけど、ネット通販は世界に開かれている。それとも実はパクリではなくて、同じデザインで質を落としつつ使いまわしでもしているものか。

 

真相は不明でも、あらステキと思う気持ちはどこかに吹き飛んだ。

 

今日は何して遊びましょうと、日々面白おかしく暮らす“生活のない人”にとって、清くもなく美しくもなく正しくもないものは、時としてサイコーの娯楽。清く正しく美しくが底流にあったから、ギリギリ不謹慎の謗りを免れていたもの。清くも正しくも美しくもないに変質したことがバレちゃったら、不謹慎まっしぐらでお先も真っ暗だね。

お互いさまにならないものは、みんなゴミ

お互いさまにならないものは、みんなゴミ。

 

風に乗って運ばれてくる、花びらに葉っぱを風流と思うかゴミと思うか。自分でも育てている人にとっては、何とも思わないもの。育てる趣味も愛でる趣味のない人からみたら単なるゴミで、それ言い出したら地獄の始まりだから言わないだけ。

 

同じ論法を他の物や分野に持ち込んだら、好きなことはなんにもできなくなる。

 

ついでに、盗むものがなくなったら盗人稼業はあがったりで、盗った方は忘れても盗られた方は忘れないから、盗られやすいものを盗られやすいところにわざわざ置いたりしないだけ。盗られやすいところに置いておくなら盗られても構わないものか、盗ったところで換金性の薄いものに限るやね。

 

あるいは是非とも盗んでもらいたい、処分に困ってるようなものこそ、盗られやすいところに置いておくべきか。東京都下の一部では、燃えるゴミもいまだに無料だそうでうらやましい。

 

インターネットには間違った情報も多いのは一面の真実で、真偽不明な情報の方がみつけやすくて拡散しやすいくらいが正解かも。かもかも。そもそも正確な情報なんて、ごくわずか。大本営発表が信じられないから反論が出て、重箱の隅をつつくような些事の掘り返しが始まって、結局正しいごくわずかな情報が多数の不正確かつ不親切な情報に埋もれていく。

 

正確か否かよりも、そもそもが不親切(と思われやすい)だから親切な誤情報あるいは真偽不明な情報の方が取っつきやすくて拡散もしやすいのかも。ツルハシ売る方が、儲かる的に。

 

ツルハシ売る方が儲かるんだったら馬鹿らしくてやってられないと、金鉱が閉鎖されたらツルハシ屋さんもあがったり。ツルハシ屋さん、道具が儲かり過ぎて商売に熱心になり過ぎると、そもそも何のための道具だったのか当初の目的も薄れがち。

 

その道具は、そもそもは金鉱を掘るためのものだったでしょ。金が獲れない金鉱の前で、ツルハシ売ったってしょうがないから、ツルハシ屋さんも商売替えの頃合。

 

トリックオアトリートで、お菓子をくれないなら悪戯しちゃうぞ☆が許されるのは、愛らしいちびっこまで。とうがたった、愛らしくも子供でもない人が、ユーモアの欠片も感じさせない悪戯で恫喝したら、警察呼ばれてもしょうがない。

 

ユーモアのベースには教養必須で、ユーモアを感じさせないってことは教養の欠如と同意。ユーモアなき悪戯でやってやったと得意顔になれば、教養ある人々からは心の中で大きくバッテンつけられてポイっさ。

 

というようなことを、ユーモアをまじえて語るのは難しいやね。

 

マイノリティを自分なりに定義すると、代わってその地位や立場に立とうとする人が、いない場所に居る人くらいに思ってる。その立場になりたいと、次から次へとワナビーが現れるなら、いくら数が少なくてもその人はマイノリティーとは言い難い。

これは私的な昔話です

緊急地震速報よりはマイルド。それでもけたたましく何度も鳴る、大雨による被害と避難を呼びかける警報は、バグってるのかそれともスパムなのかと思ううざったさだった。

 

朝は結構な降りだった雨も午後には上がり、青空も見えていた。山の天気だったら、変わりやすいのも納得なんだけどさ。

 

生活がない人には生活は描けず、生活から遠いものにばかり手を伸ばす。マイノリティーでラッキーと思える人は、承認欲求、表現欲と言い換えてもいいけれど、その手の欲求が何よりも勝る人だと勝手に思ってる。ついでに生活、食べるものやその他は、快適を求めると価格はうなぎのぼりで高くつく。

 

古書であっても入手可能なことは知っていても、買い直すのは億劫な、昔手放した本エンタメ系。専門書ならともかく、エンタメ系のものはより流行りすたりが激しくて、電子書籍にもなってないから、もったいない話。今よりはるかに市場が大きかった、つまり勢いがあった頃のものが手に入りにくくなったんだから、もったいない。

 

近頃無性に読み返したいのは、ディアナ・ディア・ディアス。えっと、という若い女性の一人称口語体で綴ったストーリーが人気だった新井素子による、らしくない三人称で書かれた神話世界的ファンタジー

 

ディアという、やっかいな血の宿命に翻弄される人たちを描いた作品で、ディアナ・ディア・ディアスは、両親ともディアの血を持つ生粋の人物の誕生を描き、誕生までのいきさつは詳細に描かれていたわりに、結末はあっけない。

 

そして天才児が誕生し、諸国を統一した初めての王になりましたで終わってたけれど、天才児の天才児たるゆえんや諸国統一までの道のりには触れてなかった。

 

史上誰も成し遂げたことがない偉業であっても、ディア、それも生粋のディアの血を持つものにとっては何てことないという設定で、とにかくディアの血はすごいんだぞーというオハナシ。

 

ディアの血の何がスゴイのさ???というエピソードとして、ディアの血を持つ男女は、初見であっても誰もが素晴らしいと聞き惚れる、素晴らしい合奏で聴衆をとりこにするシーンがあった。事前の打ち合わせなんて必要ない、初見であっても無問題。増幅し共鳴し合うことで、互いの魅力や能力を最大限にまで高め、誰よりも強い影響力を持つのがディアの血のなせる術。

 

そんな恐ろしいものは芸術方面に閉じ込めておくに限ると、彼らの能力は主に芸術方面で発揮されてきた。憎悪や対立を煽るなど、良からぬ方向に使われたらたまらんからな。

 

時に恐ろしいパワーを発揮するディアの血は、その代償として、その血の持主自身を激しく苛む寄生虫でもあって、寄生虫に苛まれているせいで、その宿主は著しく虚弱という設定だった。

 

虚弱になるとわかっていても、素晴らしい力が手に入るならと近親婚を繰り返したせいでその数を減らし、生粋のディアの血を持つものは最後の二人にまでなってしまう。その一人であるディアナ姫は、強大なディアの血を恐れる叔父だか伯父だかの策略で、辺境の成り上がり将軍のもとへと降嫁させられる。

 

武骨で不調法、芸術方面にはまるで暗くてディアの血についても無知な将軍との生活が、ディアナ姫の生涯でもっとも幸福な季節。ディアの血も忘れて幸福に暮らすディアナ姫を、ところがディアの血が許さない。ほっておかない。

 

滅びてなるものかと暴走したディアの血は、生粋のディアの血を持つもう一人を動かし、まんまと生き延びてしまう。ディアの暴走の果てに生まれたのが天才児カトゥサで、カトゥサが天才児なのは両親ともディアだから。

 

このカトゥサという人物が、神話世界らしくゆるやかな緊張関係にあった諸国を統一した初めての王になるんだけどさ。

 

その身の内に、決して滅びてなるものかという寄生虫、それも生粋のディアであるだけに、歴代の誰よりも厄介な寄生虫を宿してる。内憂外患と言うけれど、内憂が外患よりもはるかに大きかったら、内憂との戦いの方が大変。

 

低いレベルでの優劣を競って争いが起こるなら、そんな無駄な争いが起こらぬように、みんな一緒ですべて統一してレベルを上げて、争いが起こらぬようにしてしまえとでも考えたのか。

 

作業ではなく思考する人にとって、必要なのは静かな時間。

 

内憂、内なる寄生虫で悪魔との戦いに打ち勝とうと思ったら、些事にエネルギーなんて使ってられない。小競り合いをエネルギーに変える、内憂なき他者あるいは他国とカトゥサの置かれた状況は違う。あるいは小競り合いを繰り返すエネルギーさえもう残ってなかったら、みんな一緒で多様性に背を向けて、統一をめざすしかない。天才だけど、カトゥサ虚弱なのよね。。

 

多様性を失った集団は虚弱となって滅びに向かうものだから、みんな一緒で統一を志向したカトゥサは、同胞を道連れに身の内に抱えた特大の寄生虫ごと滅びの道を選んだのかな、とか。

 

遠い昔に読んだ本の、書かれなかったその後が気になってしょうがない。

 

たった一人となったカトゥサは、ディアとしては永遠にひとり。彼には、彼の母親であるディアナ姫のような、ディアの血を持つ伴侶はいない。

 

正室も側室もディアの血を持たず、おぼろげな記憶では正室として、他の作品に出てきた懐かしい名前、ラ・ミディン・ダミダの名前があったような気もするんだけどさ。

 

誰よりも濃いディアの血、巨大な寄生虫をその身に宿しながら、みんな一緒で同胞あるいは統治する民の数を増やして歴代のディアの誰よりも、ディアの血を薄めることに熱心だったカトゥサ。

 

カトゥサの中の、決して滅びてなるものかと蠢くディアの血とカトゥサの葛藤とか。実は生きていた、ディアの血を持つ誰かめざしてまたまた暴走するディアの動きとか。書かれなかった物語を勝手に想像するのは楽し。

 

滅びたはずのディアが滅んでなかったら。そこにはまた新たなエネルギーが誕生する可能性は、十分にあるんだよな。

 

という埒もないことを考えて過ごした、週末。変わりやすい天気はイヤね。ついでに、ことの始まりから技術の側に立ってた人ほど、調和を重んじるんでないのと思ってる。遅れて技術にめざめた人ほど、恐ろし気に騒ぎ立てるもので、”鬼”、わりと誰でも容易に想像できる怪物を、出現させやすいのかもね。

 

お休みなさーい。

紅葉を見に豊平峡からさっぽろ湖へ

腹が立つものと言えば、当たらない天気予報。

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データの読みが甘い、あるいはなっちゃいない人が語るデータの利活用法なんて、信用ならないこと夥しい。データについて語るなら、天気予報くらい当ててみろってんだ。データの塊じゃん、あれ。

 

というわけで、GoogleホームにSiriにアレクサその他。信頼できるデータを使ってるのか否かのわかりやすい指標になりそうで、どこの天気予報が最もよく当たるかを比べてみるのは面白そう。

 

大通公園中島公園も、紅葉が始まっていて目を楽しませてくれる。見頃にはやや早い気もするけれど、北大のイチョウ並木も今週末にはライトアップされるとか。そんななか、先日は紅葉の名所である豊平峡から定山渓そしてさっぽろ湖へと行って来た。

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天気のよい週末だけあって、交通量も多目。とはいえイラつくほどの渋滞とは無縁で、豊平峡ダムに到着。豊平峡ダムへの道中もすでに色づいていて、目の保養になる。夏は緑が眩しかったところ。秋は秋で、モザイクのような紅葉がお出迎えしてくれる。気軽に行けるというところが、なによりさ。

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きれいねー。

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きれいなものを、ただきれいと思う。その感性をなくした人が語るきれいも美しいも、どれほど語彙が豊富で美辞麗句に彩られていても、ツルツルと滑って届かない。きれいなものをただきれいと感じる感性をなくした人は、代わりに情報というフィルターを通して語るから、めったやたらと情報量が多くなる。

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観光放流の最中は、頻繁に虹が出現する場所。条件が整えば出現する虹とはいえ、見れたらラッキーと素朴に思う。

 

赤が少なく黄色が目立つのは、植生ゆえか季節のせいか。赤い葉っぱもあるっちゃあるんだけどさ。

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夏にも来たので勝手知ったる気になってる場所。夏場よりも断然訪れる人の多い今頃の季節は、ダムを見下ろすレストハウスもそこそこの人出。テラスでジンギスカンが食べられるそうで、いかにも北海道らしい。景色のいい場所でジンギスカン、あるいはBBQしかも手ぶらOKだと、非日常感も高まるからいいやね。

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レストハウスに通じる、謎の乗り物。

電気バスに揺られて駐車場からダムまで往復という、ありきたりに飽きたらやってみたい、登山道を行くコース。やってみたいだけで実際にやることは多分ないけど。だってあまりにも自然がわさわさし過ぎてる。

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ウッドチップや観光用の木道が未整備な自然に勝る遊歩道は、ハイシーズンで多数の人が歩いているとわかっていても一歩を踏み出すのが恐ろしい。幼少時から、わさわさの自然に親しんできた人なら平気なんだろうけどさ。

 

もっとも自然を、そして紅葉を満喫できるのは間違いなく山道。早朝からガシガシ歩いて、見晴らしのいい適当な場所でお弁当やおにぎり食べて、紅葉を満喫したら豊平峡温泉でひとっ風呂浴びてすっきりして帰る。

 

というプランに心惹かれても、多分実行することはなく、ひ弱に車に頼る。ハイシーズンだから、地味に食べるものにも困った。雰囲気のいいお店もなくはないけど、ハイシーズンはどこも混んでる。車を停める場所にさえ困るから、気軽にテイクアできる食べ物があると重宝する。昔ながらのお店の人は、嫌がるに違いないけど。

 

テイクアウトして食べたアップルパイが美味しくて、そもそも定山渓あるいは南区周辺はくだもの狩りができる観光農園が多い場所。という来歴を知っていると、なら買ってみますかという気分も盛り上がる。観光に来たのに食べるものはコンビニフードだと、ちょっとどころか大いにわびしい。

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豊平峡ダムほどメジャーではないけれど、意外と風光明媚なさっぽろ湖は、車を停めるのにもちょうどいい。もう少し季節が早ければ、ゴンドラに乗って国際スキー場の紅葉を見ることもできたけれど、今年はもう終わっていた。

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天気がいいと、もっと見栄えがするトンネル付近の紅葉。

朝里川ダムを経由して、最後は小樽に寄り道して帰るとちょうどいい感じで一日が暮れる。

 

インバウンド観光が、今ほど注目されてなかったひと昔前ならいざ知らず。踏みとどまりはあっても国際観光地化するのは、時間の問題。国際観光地になると、有名な名所はますます有名になって地元の人間も気軽に近寄れなくなるから、空いてる今のうちにできるだけ堪能しておくに限る。

 

都市に人が集中するのは、新興国も同じ。日本と同じように、都会めざして後にした自国の田舎あるいは地方都市を振り返ることはなくても、外国の自然豊かな地方都市なら行ってみたいと思うもの。

 

外国だったら、きれいなものはただきれいと気軽に愛でられる。この美しさをいつまでもと思うなら、守るためにお前も何かしろと迫られる、あるいはプレッシャーを気にすることもない。

 

きれいなものをただきれいと言ってればいいだけだったら、もっと気軽にきれいな場所にも出掛けられて、きれいきれいと連呼もする。義務になるとイヤになるものさ。

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お休みなさーい。

叩き売り

カボチャに髑髏にその他。

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これはバラ。

日々値段が下がり続け、叩き売られていくハロウィン関連グッズは、ハロウィンももうすぐそこと教えてくれる。シーズン商品は在庫抱えてもしょうがないから、旬を過ぎる前に叩き売りたいわな。

 

教育や教養といった、形のないものが高価な国ではモノは究極まで安くなるから、マテリアルガールにボーイになるのはわりと簡単。アウトレットモールにシェアリングと、安くモノを所有する方法も増えて、局所ではもうモノは有り余っている。

 

巨大な無人倉庫の中を縦横無尽にロボットが行き交う光景は、人間を苦行から解放した姿。楽しくおしゃべりする暇もなく、次から次へと繰り出される規則性なき注文に応えるために走り回って消耗する人がいるとしたら、あんまり楽しそうじゃない。

 

逆に、客なんてだーれも来ないのに職場に拘束され、拘束されている時間内でできることも限られ、暇な時間を暇なまま過ごすしかなかったら、それも苦行。

 

苦行がお金に代わる。それも、永遠ではなく一定期間や限定された時間内なら、苦行をお金に変えようとする人は絶対に出てくる。誰かを笑顔にして感謝されることでお金もらって生活することは決して楽じゃないから、楽にお金を稼げる苦行を敢えて選ぶ人は、一定数居る。

 

苦行に耐えることにインセンティブが働くのなら、いつまでたっても苦行はなくならない。だからキツイ汚い危険な職場を、人間ではなくロボットに置き換える動きは人道的。

 

苦行に耐えていた時間で、誰かを笑顔にして感謝されるようにしましょと促しても、人の嫌がる苦行がもはや苦行ではなく天職となってしまった人にとっては、建設的なことはいまさら難しい。

 

破壊が習い性となった人に建設的なことを勧めても、スクラップ&ビルドを繰り返すだけ。

 

ありふれたモノの値段は下がり続けていくけれど、評価が定まったモノの値段はゼロにはならず、ヴィンテージあるいは巨匠作と持て囃されて価格が高騰していくから、破壊が習い性になった人が次に破壊するのは、評価が定まったモノ。

 

評価が定まったものの中味をすっかり入れ替えて、それでも高く評価するのかとモノを見る目のない人たちを翻弄する遊びくらいやりそうで、だから今現在台所が苦しそうな業界で過去に評価の高かったモノは、現在の目で見て信用するに足るかどうか見極める必要もあるから面倒くさい。

 

永仁の壺事件現代版、ジャンルは古美術に限らないをそこかしこで同時多発的にやられたら、文化なんてすっかり破壊される。

 

容易に破壊可能な状況で、うっかり何かを褒めれば災いとなって還ってくる可能性も十分にあるから、気軽に信認なんて無理筋。褒める必要のないものは褒めなくていい。文化を破壊したいのはどんな人たちかと考えたら、非文化的なものと親和性が高いと考えるのが自然さ。

把手が取れない

把手が取れるはずのフライパン、目的外使用で酷使したあげく、ついには把手が取れなくなってしまった。

 

つまめるとなると、ついつい何でも気軽につまんでしまったのが原因の自己責任だと承知してる。一見なんでもつまめそうで、応用範囲が広かったんだけどさ。蝶番のように、組合せが異なれば絶対につまめないタイプの把手が取れるフライパンは、一見ローテクながら極めて丈夫で今でも現役。

 

造りが簡単。極めて丈夫で買い替えが進まないからと量販店から嫌われるせいか、かつてほど扱ってるお店も見なくなった。高価なのも嫌われる一因か。適度に壊れて買い替えが発生する商品じゃないと、量販店の店頭には並べられないということか。

 

だから量販店でよく見かけるものは、いつまでたっても安っぽく見えるのかも。

 

鍋にフライパン。料理器具の基本中の基本の道具は、ずーっと昔からその形状は大して変わってない。四角い鍋にフライパンさえ数が少なく、鍋とフライパンは丸いものだという前提でキッチン、おもに熱源周りもデザインされるから、キッチンそのものの形態も、大して変わりゃしない。

 

丸の方がいいのは、かき混ぜることや洗いやすさを思えばその方がいいとよくわかるんだけどさ。

 

使われてるマテリアルやデザインが洗練されても、丸い鍋とフライパンの呪縛から逃れられてないから、キッチンも似たり寄ったり。

 

四角い鍋やフライパンに代わるものが、炊飯器に電子レンジやオーブン。あるいはホームベーカリーにホットプレートで、電気圧力鍋でさえやっぱり今でも丸形が主流。炊飯器は徐々に四角が主流になってきたのにね。

 

四角い、ブロック状の調理器具がキッチンの主役になったら、キッチンそのものも大きく変わる。のではないかと夢想。

 

把手が必要な形だと、支える腕や手が必要となるけれど、置きっぱにできる形で把手なしだとスイッチさえ押せればよく、例えば音声、声による命令で、ねぇスイッチを入れてで動くようになれば、腕や手が使えなくても調理可能になる。

 

オーブンレンジや電気圧力鍋は、つきっきりで火の番をする必要がなく、いわば火の管理という面倒ごとから解放された調理の姿。

 

あとは火を通すだけという状態で届いた食材に、スイッチをいれれば稼働し、勝手に調理してくれる調理器具が揃ったキッチンの姿は、外食店のキッチンをそのまま家庭に持ち込んだようなもの。調味料を加えるといった動作もプログラム済みとなれば、調理あるいは料理の定義も変わる。料理とは、どこからどこまでの動作を言うのかわからなくなる。

 

料理好きな人がまったくの趣味で時々集まって一緒に楽しく料理をし、感想戦を行う姿は料理好きの極北で、その場で披露される料理はだいたいとんがってた。とんがってるから趣味の範疇におさめ、売り物にする代わりに時々自由に調理して楽しむ道を選んだっぽくも見えた。

 

とんがってるもの、平凡じゃないものを売り物にしてビジネスにしていくのは、凡百のものを売り物にしてビジネスをしていくより難しそ。他文化あるいは異文化への入り口に食べ物を持ってくるのは、ハードルが極めて低くてとっつきやすい。

 

半世紀前の食卓に比べれば今の日本の食卓、日常に口にするものは知らぬ間にグローバルになっていて、ではまだ足りない“文化”は何でしょうと考えたら、足りない文化もおのずと見えてくる。

 

イデアだけは豊富に詰まってる人に必要なのは、スイッチオンで自在に動いてくれる、自力で動かす必要のない調理道具よな。そして、市場規模が大きくなったら勝手に周囲が忖度してお膳立てしてくれる。

気は優しいけど力持ち系

30人分の雇用を奪うという、AI搭載気は優しいけど力持ち系ロボが出てくるテレビ番組を見た。

 

恐ろしい恐ろしいと恐れ入るよりもまず、日本で常時30人を雇用している農家、あるいは農業生産法人特技は高級フルーツなんてあるのか???と疑問に思った。高級フルーツは、高級だから少人数で手間暇かけて生産しても採算があうようにできていて、収穫時になったらいっせーので多人数で一気に収穫するようなありふれた商品作物とは別モノ。

 

カリフォルニアかどこかの、見渡す限り一面の緑という広大な敷地で露地栽培されるならともかく。

 

日本のいちごは、ハウス栽培の方が多くないか?30人分の雇用を奪うという、AI搭載気は優しいけど力持ち系ロボを日本にそのまま持って来たら、借金して建てたハウス栽培用ビニールハウスをズタボロにする未来か、狭い敷地で身動き取れずに“リセットプリーズ”と立ち往生する姿の方が容易に想像できる。つまり、オーバースペック。

 

じゃがいもにタマネギ。あるいは小麦粉にお米。どれも北海道を代表する商品作物だけど、だだっ広い農地で生産されていて、見てる分には特に繊細な扱いには見えない。わりと荒っぽい。

 

30人分の雇用を奪うというのなら、まずは生産分野で常時30人を雇用する規模にまとまるのが先。規模が大きくなれば、傷物になりやすい商品も優しく最適な時に摘み取って出荷可能になって、人手不足の救世主になれる。

 

家族経営プラスアルファのファミリービジネスだったから、JAがあって小を大にまとめて地域外に出荷する仕組みがうまく回ってた。少子高齢化で働き手が減って、最小単位である家族の構成員が少なくなるほどに地域を回す仕組みも軋んで、軋みが大きくなるほどに地域単位で出荷できる数も減っていく。

 

生産者の数が減った時は、同じ労働でもより利益が増える、高級品取り扱いへと鞍替えする好機。だから、薄利多売なシステムの一部に組み込まれ、地域のブランドを支えるよりも、個人でブランドを確立した方がお得になる。

 

高級品取り扱いをめざす生産者にとってのリスクは、これから確立しようとするブランドを毀損する行為だから、うっかり人も雇えず増やせない。

 

同じように高級品を取り扱う個人ブランドへの鞍替えをめざす人たちとの競争は、局地的には始まっていて、個人(っぽい何か)の利益を最大化する行為は足を引っ張りやすくて、引っ張られやすいから油断ならねぇ。

 

人を雇わずともやっていけるのは、少量限定生産の高級品だからで、少量限定生産の高級品用ルートがあるからやっていける。誰かへの贈り物、あるいは自分へのご褒美だったら、廉価品は選ばない。

 

廉価な商品作物がないと困るのが廉価な商品作物が並ぶお店で、日々の暮らしはご褒美ではないから、お買い得品の方が喜ばれる。なのにそのお買い得品が減っていくばかりだと、廉価な商品作物を並べるお店の利益もゴリゴリ削られてゆき、最終的には廉価な商品作物が並ぶお店もなくなっていく。

 

生産者サイドには、少量限定生産の高級品をめざす動機と環境が十分にある。その一方で、供給サイド、プラットフォームと言い換えてもいいけれど、そちら側には廉価な商品作物を失うわけにはいかない理由と環境がある。

 

生産者なんて、一朝一夕で即席栽培できるものでなし。

 

よそが育てた人材を掻っ攫って事業を大きくすれば、わりと長きに渡って恨まれる。企業間の確執は、大体どちらかのどちらかによる仁義なき行為に基づいているもの。「負の歴史」なんて知ったこっちゃねぇと、まっさらな道を歩めた方がいいに決まってる。

 

即席栽培した生産者に作れるものは、まずは廉価な商品作物。廉価な商品作物だけでは30人分の雇用を生む利益を出すのは難しいから、気は優しくて力持ち系ロボもヒールではなくヒーローとして活躍できる。広大な農地前提だけどさ。

 

離農した農地を買収していけば広大な農地は手に入るけれど、広大な農地が広がってる場所は、たいてい人が居ない。

 

ついでに広大な農地はきっと自然の力も強く、雨風どうすんのさ。。という大自然の驚異にもさらされ続ける。高い志と理想を胸に北海道を開拓に訪れ、失意とともに去った歴史、今さら繰り返したってしょうがない。

 

30人分の雇用を奪うという、AI搭載気は優しいけど力持ち系ロボは、人手が足りない場所では30人分働いてくれる、頼もしい助け手にもなれる。

 

30人分とは言わないから、5人くらいでいい。

 

という日本の現実的なサイズに合わせることができたら、使える場所ももっと増えそ。そして、ダウンサイジングやオリジナルでない商品をより洗練させてブラッシュアップさせる方が、日本のモノづくりには向いてそうで、お家芸っぽいんだけどさ。

 

家電が大型化したからといって、早々家は買い替えない。家に収まるサイズの物を買うもんでしょ。