クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

つぶ餡かこし餡か

つぶ餡派かこし餡派かは神学論争みたいなもので、永遠に決着なんてつかない。最終的には「好み」という、曖昧なくせに改宗困難な理由に落ち着くものに、そもそも優劣なんてつけられないし、つけようもない。

 

あら?あらららら?

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既視感のある、あんこをパイで包んだ和洋折衷菓子。

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こちらは北海道を代表するお菓子メーカー、六花亭のもの。中身はつぶ餡。北海道命名百五十年記念のお菓子。

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一方こちらは、札幌ローカルのお菓子メーカーで北海道内でも広く知られた千秋庵のもの。中身はこし餡。季節に合わせ、中のフィリングが時々に変わるのも嬉しいところ。どちらも甲乙つけがたい、間違いのない美味しさで、ミルクやミルクをたっぷり使った飲み物と相性ピッタリ系。うまうま。

 

なんだけど。

 

今では六花亭の方がすっかり大きくなったけど、もともとは千秋庵から分かれたお店。名前を変えて、ビッグになった。らしい。

 

白い恋人面白い恋人だったら訴訟沙汰になったけれど、こういうケースはどうなんでしょ。縁もゆかりもある(らしい)二つの会社。一方はメーカーを代表する、ローカルな人に広く親しまれてきた人気のお菓子。もう一方は、北海道を代表するお菓子メーカーが出した新興の、でも北海道命名百五十年記念という記念のお菓子。

 

この後北海道ゆかりのお菓子メーカーは、続々と“あんこをパイで包んだ和洋折衷菓子”を発売するんだろうか。ネーミングも各社自由につける方向で。

 

あらそのやり方だったら、さっぽろスイーツで見たやつと、似てなくもない。ちなみに、さっぽろスイーツ2018グランプリ作品は、“さっぽろ抹茶チーズ~お豆とともに~”。さっぽろスイーツの場合は、“さっぽろ抹茶チーズ~お豆とともに~”という商品名を変えないところが、キモ。

 

ローカルのメーカーが、それぞれの個性を生かしつつ“札幌のスイーツは美味しいよ♪”と盛り上げようとするなら、みんなで一緒に。みんなで一緒と横並びになれないほど大きくなったら違うフェーズで市場を取りに行き、ライバルは早めに叩き潰そうとするのか。

 

扱ってるものはお菓子で、食べたらほっこりにっこりできんだけどさ。この二品には、追うものと追われるものとの火花が実はバチバチ散ってるぜ。最前線だぜ。と、思うと代わり映えのしない日常でもスリリングで、感受性は自分で守るもの。

 

札幌ローカルを代表するお菓子メーカーの本店は、現在工事中でいつリニューアルオープンするのかと密かに楽しみにしてる。狸小路商店街にも近く、言ってみれば旧市街の中でランドマークになれる場所。何かのポータルにももってこい。

 

10年20年先に、生き残っているのはどちらになるのか。その筋書きを勝手に考えるのは、使い古されたネタが散見されるフィクションを読んだり見たりするより面白い。何しろ答えはわからないんだから。

 

子供が居たら、その子にどんな人生を望んだのかと考えることは、いつでも楽しい遊び。あれもこれもと望むなかで、優先順位が高いのは金融教育。社会人になると、入る会社や配属先によっては現株取引禁止がされてたりするからな(投資信託その他はセーフのケース多し)。

 

少額を種銭として渡し、まずはこれで買えそうな株見つけて増やしてみれば?と、やらせてみたい。

 

有名ではないけれど業績もいい、いい会社が世の中にはあると知ることが、現株取引をやる一番のメリット。世の中の動きと連動した生きた教材から、教科書では学べない生臭さも学んで欲しい。

 

お金も生き物だから、不道徳な面が急成長する時もあれば、その逆もある。世の中が今どちらの方向に向かっているのか。お金の動きから学べることも多く、そのネタは日常に転がってる。そうか、この商品を扱ってる会社が一兆円企業か。。と知ると、なかなかに感慨深く、なぜ今日のグーグルカレンダーのロゴは、ジョージ・ピーボディなんすかね。

 

Wikipediaの記事は真似するには訓練が必要で、相当熱意あるいは覚悟でもないと、取り組めない。編集方針も記事の書き方もすべてオープンで、その気になったら誰でもできそうでできないこと。何しろボランティアだ。今もすべてオープンかどうかは知らね。

 

まずはブログで練習しようとしたけれど、5秒で諦めた。主観的な文章を書きたいから、ブログというフォーマットを選んで満足してる。

 

お休みなさーい。

小姑AI

人里離れた場所で自給自足生活を夢見る人は、他人に頼りたくない人。

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小指いっぽん動かすだけでも大きな反響を呼ぶような人は、いつどこで何に対して自身の影響力を使うべきか。悩みも尽きなさそう。

 

体感的にはバレンタインの時より人が多かった気がする、ホワイトデー売場。私は自分への贈り物を買いに行きました。

 

進学や就職で子供は独立し、配偶者は大都市やあるいは海外勤務で留守を預かっているような女性が、地方には多いような気がする。札幌も、男性より女性の人数の方が多いけれど、独身女性も多く、あるいは女性の方が長生きゆえに数が多い可能性は大いにあり。

 

男性より女性の方が多い職場だったら、マイノリティである男性がマジョリティの女性に気を遣うのは、職場環境を良好に保つための処世術。なのかどうかは知らないけれど、ワッサワッサと買い込まれたプレゼント用のお菓子。どうぞお納めくださいと、三顧の礼で差し出されるお供えにも見えてくる。

 

立つ鳥跡を濁すで何の未練もない職場だったら、お彼岸用のお供え菓子をプレゼントしてもいいかも。落雁固めた不味そうなやつ。身の安全対策として、翌日から有給消化でもう職場に顔を出す必要がないような状態にしとかないと、大変だけど。貰ったもの、その場で開ける人はいないじゃん?

 

僕・私は社会を変える人。社会を変えるにはお金が必要だから、社会を変えないあんたたちは僕・私のためにお金稼ぐ道具になってよが、あまりにもあからさまになったのが今のSNS

 

うっかり、イイね!と承認するのもおっかねぇ。

 

みんなで一緒に豊かになろう!と持たざる者の労働力をアテにされても困るし、みんなで一緒に貧乏になろう!と豊かな人のフトコロをあてにされても困る。

 

要は思想(というほど立派なものでもないけれど。。)や経済力への介入ってことだから、功利や打算が透けて見えると、ただもうひたすら無視したい。もちろん、分かり合えないと無視されてもヘーキ。

 

個人に最適化しやすいよう、事前にある程度ローカライズされたAIを作る必要が出てきた時。日本の、特に地方都市でのローカライズにぴったりなのは「小姑根性」。ウザいけど、ローカライズを考えた時、これ以上ピッタリくる言葉もないと思う。

 

イヤだけどな。小姑っぽいAI。

 

重箱の隅を突くように、あーでもないこーでもないとダメだしされたらイヤすぎる。ただし、イヤな人格だから、今時あからさまにする人の方が珍しく、上下関係のある職場でやると、今だったらパワハラ認定されかねないから、ホワイトな職場にはそもそもいない属性。

 

だから、家に居ながらにして社会に揉まれることになって、社会に出た時の理想と現実のギャップにも苦しまずに済む。むしろ、限度を知らないAIよりもリアルな人はなんて優しいんだと、ポジティブに考えられるかも。かもかも。

 

最初はまっさらだったAIが、徐々に人格の悪さを獲得して露悪的に振る舞うようになる未来。あぁイヤだ、ディストピア

 

やっぱり小姑っぽいAIよりも、フレンドリーかつ礼儀正しく愛らしいAIの方が、百倍も好ましい。

 

お休みなさーい。

あとで読む

オリンピックのような大きなイベントで、勝利に一喜一憂しながら浮かれ騒ぐのは、うれしい楽しいで一緒になった極北の姿。極北って使いたかったんだ。

 

うれしい楽しいで一緒になれる人と、辛い苦しいで一緒、一体感を得られる人と。大きく分けたら世の中はこの二つのタイプに分かれそうでもあるけど、喜怒哀楽といった感情表出にためらいのない人は、どちらのクラスタにも馴染めるから説得力はなし。

 

辛いに一本足したら幸せになれるから、離合集散を好む人は辛い苦しいで一緒になって、幸せになれたらハイさようならを繰り返すのかも。うれしい楽しいからイチ抜けし、抜けた後のグループがグタグタになってダメになるのを見るよりは、後味は良さげ。

 

離合集散、くっついたり離れたりを繰り返す組織化のお話で、イチを足すのが得意な人もいれば、イチ抜けして崩壊に導くのが得意な人もきっといる。適材適所は、その逆をやらないことよな。

 

Jリーグがeスポーツに参戦して何するの???と思ったけれど、eスポーツでもサッカーするんですね。プロゲーマーがやるようなゲームは格闘系との思い込みがあったので、サッカーゲームもいまだ健在だったかと、新鮮な気持ち。

 

現実のサッカービジネスを彷彿とさせる、課金要素っぽいものもしっかり実装されていて、ネットとリアルの一体化スポーツ版をしっかり感じる。

 

熱心なファンは熱心な評論家、“大いなる聴衆”になりがち。

 

何を言われようとしょせん“大いなる聴衆”の戯言と、馬鹿にして見下して取り合わない、鉄の心臓の持主ならともかく。取るに足らないファンの身勝手な言動が、束になって選手に襲い掛かってダメージを与えた姿、つい先日の平昌オリンピックでも見たばかり。

 

スポーツ観戦の趣味はないのでよく知らないけれど、同様の、結果に納得できないファンのアンチコメント攻撃によって、選手がメンタル面をやられたケースは、表沙汰にならないだけでこれまでにも結構あったのかも。

 

気にしないようにしたところで、人間だもの。選手は生身の人間だから、AIで代替するわけにもいかず。だったら、“大いなる聴衆”の方を仮想空間上に引っ張り上げて、評論の代わりに実際にプレイもするファンになってもらった方が生産的。と、考えたどうかは知らね。

 

人気選手のアバターとなって活躍したい人、それなりに居そうだからキャラクタービジネスが捗るよな。あるいは生身の人間は酷使できないけれど、仮想空間上で仮想選手が活躍するだけだったら、年間試合数も限りなく増やせそう。と、勝手な妄想も捗る。

 

こういう妄想は、言語化するのも苦ではない。

 

読むのもつらい読み物は、書いた方、言葉にする方もきっとつらい。整理のつかない気持ちを引っ張り出してこねくり回し、言語化する作業はただでさえ骨の折れるもの。思い出したくもない、封印した記憶を手繰り寄せるとなれば、疲労度もさらに増す。

 

読むのもつらく、言語化する方もきっとつらかったんだろうという読み物は、同じような経験をした人ほど強く共鳴し、つらさが増すのがわかるものだから、敢えて避ける人もいる。

 

今は思ったほど読まれないけれど、あと何十年かしたらきっと今とはゼロの桁が違う数で、共感をもって受け入れられそうな読み物は、ただ時代に早過ぎるのかも。

 

現実の事件や出来事を彷彿とさせる、”事実に基づいた物語”を肯定したくない派ではあるけれど、時代に早過ぎ場所が近過ぎる、それでいて誰かに語るべき手法としてはある種の優しさでもあるのかも。逃げでもあるけれど。

 

肯定したくないのは、オモチャにした後はハイさようならと放り出したくなるようなことには、最初から手を出すなという気持ちがあるから。

 

誰も経験したことのない未曽有の災害や悲劇を伝える生々しい声を、どこの引き出しにしまうべきか。あとで読むタグは、単純にサクサク処理できない、こういう時に便利ね。

 

お休みなさーい。

知らんがな

さらしきってない生のタマネギを食べると、近頃はキモチワルイ。軽く頭痛と吐き気がし、気持ち悪さに耐えること数時間。気を紛らわすために眺めるのは、美味しそうな食べ物がたくさん載った何か。

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これは雨が降る前。このあと雨が降る。

レシピだったり、スイーツランキングだったり。

 

まともに頭使って考える、思考力を要する小難しい本なんかは、体調が悪い時には内容が頭に入ってこない。気晴らしとはよく言ったもので、レシピやスイーツランキングは、気晴らしにぴったり。今だったら“ままどおる”、それもチョコ味が食べたいやね。食べたことないから。

 

今年のアカデミー賞の授賞式中継は視聴率がイマイチだったと聞いたけれど、真偽は知らね。あんまり楽しみにしてなかったのも確か。

 

Me Tooムーブメントのせいで、真っ黒のドレスばかりになるかと思うとセレブウォッチングにも気が乗らず。今年はアメリカ中間選挙の年だから、受賞者その他のどんなスピーチも政治的アピール臭がしそうで、まともに聞く気にもなれず。

 

政治臭が過度に漂うようになると、一年に一度の映画の祭典をただ楽しみたい派としては、関心も急降下。政治”ショー”には、興味関心が薄いんだ。

 

日本だって今年は自民党総裁選の年で、選挙戦ではお金が動いて広告代理店も動くから、ステマと同じく知らぬ間に「作為的に拡散された不適切な情報」に触れる恐れがあって、ステマに利用される恐れさえあるから、知らんがな。

 

ステマ嫌いとしては、「一見これは一般市民の素朴な意見っぽく見えますが、実はスポンサーの意向を受けての政治的発言です」マークくらい欲しいところ。

 

どうせお金使うなら、記事広告としてちゃんと広告枠買ってアピールすればいいと思うけれど、オープンな場所でも臆せず出てこれる人は限られるから、きっとそっち方向には行かなさそう。

 

ヘイトを容認拡散するのも国民感情の一部だから、マイナスの国民感情に配慮する政治家だったら要らない。ヘイトを容認拡散したい国民感情を理解する政治家を欲する限り、“自分達の器以上のリーダー”は決して持てない。だから、マイナスの国民感情に対しては政治的にきっぱり引導渡して欲しい。

 

という面倒くさげなことを思いついたのは、『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』という古い本を引っ張り出したから。

 

雪が降ったあとに雨が降り、足元が悪くて外出意欲も削がれまくりだから、インドアに過ごした一日。札幌はさほどでもないけれど、記録的な大雨で雪解け水が洪水に変わり、テレビのニュースでは終始警報が流れていた。

 

『砂のように眠る~』は、1997年の時点から戦後の昭和を振り返ったもの。ざっくりいえば熱狂のあと、宴のあとを振り返っている。フィクションとノンフィクションが交互に現れる趣向で、戦後の象徴的な出来事、浅間山荘事件や田中角栄のネガティブな面を取り沙汰している。

 

同時代の熱狂の中ではかき消されてしまう意見も、熱狂の去ったあとだと書き残しやすいのか。書き残された「個人の意見」がどこまで時の試練に耐えるかはまた別モノだけど、同時代の熱狂を醒めた目で分析した、とはいえ事実の羅列ではない感情込みで記述されてるから、何度も読み返せる。

 

事実の羅列だけでは退屈で、感情の奔流をただ受け止めるのも荷が重い。感情の抑制がほどよく効いていて、こんな風に歴史を記述する方法もあるのかと目からウロコが落ちる。

 

死んだら仏様は、日本以外にも仏教信仰とリンクした東洋ではどこでも見られるものなのか。

 

本人には訂正することもできない、事実とはかけ離れた悪評や風評被害が出回り過ぎて生きるのさえ辛くなった人に、死んだら仏様になれてもう悪口は聞こえてこないよという悪魔の囁きは、甘美に聞こえることもある。

 

事実とはかけ離れた悪評や風評被害をまき散らすことにメリットがある方に、やめろと言っても抑止力はないから、そこはやっぱり「死んだら仏様?ナニソレ?」という文化をぶつけて封じ込めるくらいしか、思いつかないよな。

 

お休みなさーい。

123歳まで生きられる

花粉の代わりに小雪が舞い、最高気温も最低気温もマイナスとなった真冬日。冬用コートを引っ張り出す。寒い。

 

123歳まで生きられる未来はお好きですか?私はイヤです。

 

一生をかけて追及したい何かがある人はともかく。長い長い老後を、どうやって過ごすんですかね。一生をかけて追及したい何かがあっても、先立つもの、お金がなければどうしようもない。123歳まで生きる未来について、何よりも知りたいのは老後破産しないマネープランと、長寿社会でもパンクしない社会保障制度についてさ。

 

新興国と、新興国のダブルスコアを生きる先進国と。社会の在り方があまりにも異なると、分断もさらに深まりそうなんて思ったところ、エチオピアでさえ平均寿命はすでに64歳(2015年)を超えていた。あらら。

 

40歳代後半あるいは50歳代前半かと、勝手にイメージしてた。報道で知るアフリカはネガティブニュースが多いから、今でも長生きが難しいエリアかと思っていたけれど、想像よりもずっと社会は安定していた。世界平均では67歳。

 

若年人口を、たっぷり含んでいるかどうかで国のカタチや活力も違ってくるけれど、社会が安定すれば寿命が延びるのは間違いなし。

 

先進国には都市の貧困や格差がつきものだけど、その層にも健康で文化的な生活が保障されたら、理論上は123歳まで生きるのも難しくないのかも。かもかも。

 

パラリンピック日本アイスホッケーチームの平均年齢は、42歳。ゴールキーパーは61歳。失った機能の代わりに強力なツールが手に入れば、いくつになってもアスリートとして活躍できる。

 

ついでにパワースーツがあれば、非力ではない、パワフルな老人にだって変身可能で、スリやひったくりにだって対抗できそうで、いくつになっても臆することなく外出だってできる。

 

本当は、非力な人だって堂々と外出できる方が望ましいんだけどさ。

 

現実にはおんな子供や老人とみれば、容赦なく暴力をふるったり、甘い言葉でだまくらかしたり。危険がいっぱい。ゲーテッドシティの中だったら、おんな子供や老人でも安心して暮らせる度合いは上昇するから、ゲーテッドシティの中と外という、ディストピアSFでありがちな設定にも現実味が出てくる。

 

123歳まで元気で暮らせる社会は、ゲーテッドシティの中でなら想像もしやすい。

 

中と外と。侵略あるいは襲撃しようとする外敵に備えるとなると、西域あるいは北方の異民族の襲撃に悩まされた漢民族みたいで、都市生活者を脅かすものはいつだって代わり映えしない。

 

123歳まで元気で暮らせる社会で、蛮族の襲来に備えて都市の守りを固める人材は、何も若者に限らない。失われた機能をパワーアップさせる、パワースーツ的なものさえあれば誰でも、老若男女がその任務につける。

 

当然これらもSFの世界ではすでに認知されているアイデアで、認知されてるアイデアを社会に実装するのに成功したもの一等賞で、神通力あるいは影響力という名の武器を得るコンペティションとか、なくてもいい。

 

ディストピアなアイデアと知りつつ、それを実装するとか。倒錯としか思えない。果てを可視化して、可視化された果てを避けようとする方が、知性のあり方としてはよりレベルが高く見えるやね。

 

お休みなさーい。

使い勝手が信頼につながる

来月から給料は仮想通貨払いな。と、言われたら暴れる。安全資産と言われる金(きん)で支払うと言われてもイヤだ。

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本日のおやつ。

例えば邦貨にして給料30万円分の仮想通貨を給与支払い日に受け取ったとして、現実には支払手段として普及していない仮想通貨はそのままでは使えない。そのままでは使えないから、Suicaのような交通系ICカードにチャージしたり、あるいは生活資金用の銀行口座に移しかえる必要がある。

 

すると「為替・exchange」が存在し、移しかえる時点での仮想通貨のレートによって受取額が変動する。ついでに交換時に手数料がかかるとなれば、さらに手取りが目減りする可能性もある。

 

受け取るのが金貨や金塊(になるほどの額ではないかもしれないけれど。。)であっても、国内に居るのに使う時には為替が必要となるものは、決して給与にはして欲しくない。

 

とはいえ海外在住でありながら、給与は現地通貨ではなく日本円で支払われている海外駐在員の場合、日本円から現地通貨に交換する際には日常的に経験している理不尽。

 

仮想通貨あるいは金で支払うこととなった場合、給与振込口座代わりの交換所的なものを、まずは個人の側で指定しろと言われたら、困惑する。どの交換所を選ぶべきか。まずはそこからのスタートとなるから、円建てに比べたら著しく使い勝手が悪い。

 

ついでに現金やICカードを使う時には、偽札やデータの改竄を心配することはほとんどない。

 

現金に限れば、もし偽札であれば何らかの違和感を感じるに違いないという、「偽造が難しい」日本円に対する物理的な信頼がある。仮想通貨は「仮想」なだけに真贋も見分けられず、物理的に信頼することがまず難しい。

 

ICカードのデータについて、改竄を心配したこともほぼない。多数の人間が日常的に使っているものだから、その保守にも多大な労力が割かれていることを、体感的に知っている。

 

仮想通貨もデータのカタチをしていて目には見えないけれど、仮想通貨が物理的に紛失するさまを見せつけられた後では、ICカードのデータと同じような信頼を寄せることは難しい。

 

仮想通貨は、知識のない人には真贋の見分けが難しい技術回りの話がてんこ盛りで、真贋の見分けコストが高過ぎる。

 

盗難コストがあるあたりは物理的貨幣っぽいにもかかわらず、物理的な貨幣である紙幣やコインが紛失した時と比べれば、いくら盗まれたかの価値の算定時には物理的貨幣にはない幅、変動が生じるとか。わかりにくすぎる。

 

給与の一部を仮想通貨払いにという取り組みは、自社株買い推奨っぽくもあるけれど、その実体は取引相手から押し付けられた仮想通貨の下げ渡しだったらどうしましょ。力関係がフラットではない交易では、あり得ないことではなし。

 

国家による裏付けが存在しない通貨は、過去の歴史にも登場・流通しているから、国家による裏付けは必ずしも通貨が信用される条件じゃない。金もダイヤモンドも、国家による裏付けはないけれど、信頼度は抜群。

 

結局、容易には偽造されないから受け取り時も支払い時も安心して使える。かつ誰でも容易に発行できるものではないからという、ある種の権威の裏付けが必要で、その双方が揃っていない通貨は、誰が旗を振っても貨幣としては流通しないのかも。

 

権威が“これを通貨として認めよ”と告知したところで、使う側がこれは貨幣だと認めない限り、やっぱり貨幣にはなり得ないから、ユーザビリティこそが鍵なのかも。と、極めてユーザビリティに欠けることをやってるからよくわかります。

 

汎用性に対する転々流通性という語彙を得たことが、いちばんの収穫だったかもしれない、『仮想通貨に「信頼」は成立するのか』という本というより論文は、隙間時間に読むのにピッタリの長さと内容だった。

 

次に読むんだったら、ユーザビリティへの配慮とマネロンの助長防止をどう両立させるか、かな。

 

国内で為替が発生する通貨あるいは貨幣といえば、江戸時代のお米。大名は石高、生産可能なお米の量でランキングされていたけれど、両替商がなければ日常の生活は不便だった。

 

士農工商と身分の上では武士が最上位にあって、商人を最下位にランキングしていた江戸時代の制度は、結局のところ商人に対する名状しがたい憎悪を込めたものかも。お米だけでは生活できなかったのは、結局のところ江戸も現代も変わることはなく、通貨が必要だから。

 

だから権力層から権力を剥ぎ取りたかったら、内国為替、国内で流通する通貨に変動する為替を持ち込めば、商人に頭が上がらなくなる。

 

という立ち位置から仮想通貨回りを眺めると、また違った風景が楽しめる。

 

お休みなさーい。

雪解け水

大河と文明とは相性よしで、エジプト・黄河メソポタミア・インダスと、大河流域には古来より都市国家が成立したと、これは昔習った世界史でのお話。最新の世界史では、どう教えてるのかは知らね。

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久々の青空だった。

日本史の世界でも、水利を巡ってしばしば争ったと、これはフィクション・ノンフィクションが教えてくれる。大規模かつ計算された灌漑施設を古来より備えている都市は、やっぱり古来から文明が発達した都市なんだと納得できる。

 

都市生活に欠かせない水が豊富なだけでなく、水路を備えて都市のすみずみにまで行き渡らせ、誰でもあるいは必要な人が便利に水を使えるシステムを構築できた。巨大建造物を建築・建造する技術と巨大プロジェクトを遂行する組織力があった。大勢の人を動員して作業にあたらせる権力があった。集めた人員を食わせるだけの食料があった。

 

うん、どう考えても都市国家にしかできない所業。だから、巨大プロジェクトを現代に伝えるモニュメントである、古代の水道橋やカナートを見ると、脳内へぇボタンが押されて感動するんだな。ダムしかり。

 

イランの砂漠を流れる大運河。夏季には50℃まで気温が上昇する、乾いた土地とは思えないほどたっぷりした水も、古代の水利施設でカナートを利用したものとか。

 

砂漠の中を滔々と流れる大河。しかもそれが人工的に作られたものだったら、そのべらぼうさにただ驚く。土地の収用にさえ苦労する、現代ではとても再現できない大技で、ビッグプロジェクトを成功させた巨大な権力に恐れ入る。

 

大きな権限をもらったからといって、誰もが後世に残るような巨大建造物を残せたわけでもなく。『グラディエーター』ですっかり有名になった暴君コモデゥス(コンモデゥス)は、聖堂のような建築物もそれなりに作ったみたいだけど、それよりもコロッセウムの中で実際に剣闘士もどきとして闘った暗君として記録されている。

 

立派な業績として後世にまで伝わるのは、誰もがわかりやすく恩恵を受けられる巨大建造物の方。ただ自身が楽しむために作ったものは、狂王ルードヴィヒが残したノイシュバンシュタイン城級に突き抜けないと、業績にはカウントされない。

 

ノイシュバンシュタイン城級の歪んだ美意識の塊を、幾つも後世に残されたらかなわんからな。歪んだ美意識の塊は、そう簡単に後世には残せないよう、現代では美の審判者たちが目を光らせている。

 

ということを考えた、気温が急上昇した日曜日。ドカ雪が急激に融けて、道路は水浸しの大洪水。水溜まりを踏み抜いた車から上がる水しぶきも盛大で、雪の壁がなければおちおち歩いてもいられない。雪解け水がある限り、北海道が水に困ることはない。

 

融ける雪を何らかの形で都市生活に生かし、じゃぶじゃぶ水使ってもヘーキ以外の何かが生まれたら、そりゃめでたいことで。

 

レインシューズが活躍する季節のはじまり。流氷見学にも耐える、真冬のコートの出番ももうなし。ローマが滅んだのは西ゴート族の侵入がきっかけで、それって移民の大量流入ってことよな。

 

おらが村あるいは街の作法が通じない大量の移民の流入は、古今東西その街の姿や景色を変えてきたってことでもあって、歴史は繰り返すから、歴史に学べと説く歴史本が溢れるのかも。

 

お休みなさーい。