クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

代理人がすべてを奪う

この季節に風邪引いて熱出すと、インフルかと心配になる。寝込む前にチョコもそれ以外のプレゼントも用意済みなので、安心して寝込んでられたけどさ。

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ショコラショー。ホットチョコレートをカッコよくしたもの。

 お茶もコーヒーもショコラショーも。飲んでる最中より作ってる最中の方が、香り高くて美味しそうで幸せになれる。美味しそうな匂いというのは、差別要因だね。

 

さて、オリンピックフィギュアスケート男子シングルの試合日。

 

日本は羽生選手や宇野選手時々田中選手の活躍に興味津々。ネットで拾える範囲で、(それはつまりとってもお手軽ってことだけど)確認してみると、同じ競技でも各国の興味関心度合いにはお国柄が現れているから、面白い。

 

アメリカでアダム・リッポンの話題が出る時には、ゲイであることをカミングアウトした選手という紹介が、大抵ついている。フランスのペアフィギュアスケータ―は、黒人女性と白人男性という、あまりない組合せ。

 

ペアフィギュアでは、アジア系と欧米系という「人種融合」はもはや珍しくもないけれど、黒人と白人という組合せでオリンピックまで勝ち上がってくるのは珍しい。珍しいだけでなく、氷上ではとっても見栄えがする。最早4回転が飛べるだけでは勝つことも難しい技術の進歩とともに、社会の変化もしっかり反映してる。

 

変化をもっとも感じにくいのは、やっぱりいつでも真ん中なんだよな。。半径5メートルくらいの景色しか見てないから。

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雪玉系イルミネーション、きれいだね。

寝込んでる時に見た『代理人』という1995年の映画は、ハル・ベリージェシカ・ラングという二人の女性が、生みの母と育ての母となって、ハル・ベリーが産んだ黒人の赤ちゃんの親権をめぐって争う内容だった。

 

裁判所でのシーン。元ジャンキーのホームレスから更生した、ハル・ベリーを擁護するために証人となった女性が、“お金持ちの白人家庭が、貧しい黒人家庭から子供を取り上げる政治的正しさにはもううんざり”的なことを発言する。

 

事情はもっと複雑で、最初に赤ん坊を捨てた(しかもゴミ箱に)のは、ハル・ベリーの方。死んだと思っていた赤ん坊が、実は生きていたと知り、更生した後に親権を取り戻そうとする。

 

政治的にまったくもって正しくない行いをした人が後に、黒人の子供は(シングルマザーであっても)黒人の母親の元で育つべしという、政治的正しさを持ち出して争うところがキモでもあった。ちなみに1995年の作品だから、”その当時の常識”で描かれている。

 

でもねぇ。死にそうな黒人の子供を放っておけなかった、ジェシカ・ラング演じる白人の育ての母は、めちゃくちゃ赤ちゃん可愛がってたんだよな。。周囲の反対を押し切って養子に迎え、白人家庭の中の黒人養子という、困難な家庭をそれなりにうまく回してた。

 

将来の選択肢が広がる豊かな家庭で育つことか、同じカルチャーやルーツを持つ家庭で育つことか。どちらの方が政治的に正しいかという点が争点でもあって、裁く方も「難しい」と言いつつ裁いてた。

 

政治的に決着はついても、温かい家庭から無理くり引き剥がされた子供は泣き止まず、新しい環境にも馴染まないから政治的決着のその後、後日譚がある。

 

自分は非道な母親ではなく、母親として適格であると言わばお墨付きをもらったハル・ベリー。だけど子供目線からすれば母親とは受け入れがたい存在を、今後はこの人を親として慕いなさいと子供に命じることは、政治的に正しいことなのか。いつまで経っても子供の涙を止めることのできない母親は、非道ではないのか。

 

人種的に正しくなくても愛情いっぱいに育ててきた子供を突如奪われた、奪われた者の欠落はどうやって埋めるのが「正しい」のか。政治的にセンシティブな問題に、「愛情」から解を見つけようとする視点は、机上の空論からはいつも一番遠いんだよな。

 

センシティブな問題がその辺りに転がっていて心かき乱されるから、解を求めて苦闘してきた歴史があるとないとでは社会や世の中の深みってもんが、全然違うことがよくわかる作品でもあった。

 

ご都合主義から遠くなればなるほど、深みや余韻が生まれるのかも。タイトルで損してる系作品。『代理人がすべてを奪う』とでもしたい感じ。

 

ハビエル・フェルナンデス選手。にこやかに軽やかに、苦労とかタイヘーンという努力を微塵も感じさせずに楽々と難しい技もこなすから、羽生選手の演技より心象がいい。

 

苦労はどうしても語りたくなるものだから、にこやかに軽やかに難しいことをこなす姿には、素直に拍手喝采したくなる。フリーの演技も楽しみ。

 

 お休みなさーい。

文学者が考えた、お金についての異色の本『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』読んだ

お金お金、お金お金、お金お金~♪という某マネー番組のテーマソングが、至極しっくりくる仮想通貨バブルが盛り上がってはじけそうな今日この頃。

 

現金や金塊のように、実体のあるリアルマネーとはまた違う。紙幣や硬貨といった実体もなければ信用の裏付けも脆弱な、法定通貨とは別種の通貨が回す世界の存在が、大衆に知られるようになったのはきっと仮想通貨バブルのよい一面。

 

投機的色彩を帯びると、口座数が爆速で増えるという事象を目の当たりにして、貯蓄から投資運動を地味に地道にやってた人は、がっくり来たんじゃないすかね。

新しい通貨という社会実験の例は、過去にもあり

ところで法定通貨とは別の通貨や貨幣システムは、過去にもなかったわけじゃない。

 

エンデの遺言 根源からお金を問うこと』*1という古い本には、ブレクテアーテ、ゲゼルの自由貨幣にイサカアワーやヴィア銀行、テラ通貨にLETSといった、すでに消え去ったか細々と今に続く、法定通貨とは別種の地域通貨や貨幣システムが続々と登場する。

 

エンデといえば、『モモ』に『はてしない物語』で知られる児童文学作家。

 

彼が残した、お金についての疑問という一本のテープをもとにテレビ番組が作られ、1999年5月に放送されたそのテレビ番組を制作したスタッフによって書かれたのが、『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』という本。

 

だから、エンデが直接書いたわけではない。まどろっこしい。ついでに共著者とも言える“現代グループ”についての記述はなし。誰?エンデの発言をベースに、既存の経済学者の説く経済政策には懐疑的な立場から書かれてる。

 

文学や芸術を嗜む余裕を社会に残す、お金の仕組み

書かれたのは、ヘッジファンドデリバティブによるマネーの暴力が、アジアの新興国を襲ったあと。

 

パンやお米を買うのに必要な「生活のお金」が、生きるために労働を必要としない「投機のお金」と一緒にされ、脆弱な個人の生活が脅かされことに対する憤りが込められている。

非良心的な行動が褒美を受け、良心的に仕事をすると経済的に破滅するのがいまのシステムです。

(『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』本文より引用)

 とのエンデの発言を引用してるくらいだから、憤ってることは間違いなし。

 

非倫理的な行動が富を生むのなら、世の中から倫理は消える。非倫理的な行動を前にすると、黙ってられないのが、文学を生業とするもの。と、考えるとエンデがお金、ひいては暴力的なまでに猛威を振るう札束の暴力について、深く考察するのもちっとも不思議じゃない。

 

時間の経過とともに価値が減ずる腐るお金を推奨

エンデが晩年に傾倒した思想家シルビオ・ゲゼルは、時間の経過とともにお金の価値が減じていく、腐る(=減価する)お金を推奨する人。

 

減価するお金や利子がつかないお金を実体経済に持ち込めば、腐らないお金がぶっとい札束に化けて脆弱な個人の生存を脅かす、“マネーの暴力”に対抗し得ると説いていた。

 

国家は経済や思想に介入すべきではないとの立場は、共産主義とはまた別モノで、資本主義の搾取もイヤ、官僚主義もイヤ、共産主義もイヤと受け入れ難いものを消去していったら、最終的に残った仕組みっぽくもある。

 

資本主義の搾取に甘んじ、官僚主義共産主義で思想や経済に対する介入に甘んじてたら、自由な創作に打ち込める、時間も心の余裕も生まれやしない。という文学者ならではの発想が、根底にあるような気がしてしょうがない。

 

いいものが、不偏的なものとして必ずしも後世に残らなかった。その反省に立ってか、時間も心の余裕も失わずにすむ仕組みって何だと考えて、たどり着いたのが地域通貨

 

自分たちでコントロール可能な世界で、極端な富者も貧者も生み出さないシステムとして、地域通貨をクローズアップしてる。

 

この本が出た2000年代初頭以後、地域通貨ブームともいえるムーブメントがちょこっと盛り上がりを見せたけれど、今にして思えば極端な富者と貧者を生み出す金融バブルに飽いたからこその、地域通貨ブームだったのか。極端な経済格差は人間関係まで破壊してしまうから、『詩羽のいる街』で描かれたような“地域通貨が回す優しい世界“への憧れが募ったのかも。

 

文学者だから、経済や金融の問題にもクリエイティブに答えを出す

本流とはいえない経済学者や経済システムを多く取り上げているのは、現行のシステムでは解決できないという問題意識に貫かれているからと考えれば、しっくりくる。

 

ビットコインに代表される仮想通貨も、もともとは現行のシステムに満足していないから生まれたわけで。お金を使う人の属性や動機が多様化するのなら、使用者の多様性に合わせて貨幣システムも多様になる方が自然っちゃ自然。だから実験的な貨幣システムは、今後もきっと生まれ続ける。

 

この本で問題提起された、「こうだったらいいのに」という幾つかのものは、2018年現在ではすでに現実のもの。

 

腐るお金はマイナス金利として、パンやお米を買う生活に使うお金と投機のお金を分別する仕組みとして、NISAやiDeCoに。小額から積立可能な投資信託も、生活防衛のためと考えれば、これもやっぱり生活のお金と投機のお金を分別する仕組みに含まれるかも。

 

友愛を理念とした経済システムとして、クラウドファンディングやフレンドファンディング。という風に、「こうだったらいいのに」というクリエイティビティを発揮させたら、現行の不足を補うものができている。

 

減価するお金を提唱したゲゼルは、輸入業者として国際為替相場の乱高下に悩まされた経験持ちで、国際為替相場の乱高下が仮想通貨の生まれる土壌となった可能性さえ薄っすら想定する程度には、妄想が広がった。

 

今後増えていきそうなのは、株式会社が会社から降りて、財団や基金といった公益性に勝る組織への生まれ変わりか。

 

非倫理的な経済システムにダメ出ししたら、次に待っているのは公益に配慮した経済システムで、仮想通貨バブルで個人が踊っているあいだにも、社会的責任を自覚する企業はESGに取り組んでいる。

 

灰色の男たちに対する斬新な解釈

この本のなかでもっとも興味深いのは、『モモ』に出てくる灰色の男たちを斬新に解釈した箇所。

 

モモでは灰色の男たちは「時間どろぼう」とされているけれど、経済学者オイケンは彼らを金利生活者とみなし、生活のために働く必要のない者が死ぬのは金利生活が出来なくなった時と解釈している。金利生活者の生活が行き詰まる背景には、減価するお金のアイディアがあり、その解釈にエンデも同意している。

 

解釈が斬新で面白いけど、高齢化してゆき労働力が減りゆく国は、金融立国となってお金でお金を稼いでもらいたい事情もある。投機とはまた違う、投資によるお金がお金を稼ぐという金利生活くらいは許容範囲にしときたい。

 

グローバルマネーは絶対的貧困の解消に向かうから、相対的貧困を解消するのは、地域に閉じたお金の方。とはいえ地域とひとくくりにしても、地域を構成するメンバーが多様だったらひとつにはなれない。法定通貨を補完する補完通貨としての地域通貨は、企業城下町のように多様性に欠ける世界の方が、流通しやすそう。

 

地域通貨が新しい概念だった、この本が出たばかりの頃と今とは事情が異なり、お金の話として参考になる部分もあるけど、ならない部分も多々ある。スマホはローカルとグローバルをワンタップで繋ぐから、もはや地域に閉じる方が難しい。緊急避難的に流通したオルタナティブ通貨は、二つのうちひとつの道が示されたらその役割を終える。

 

イーサリアムモナーコインにリップルに。あぁそんなのもあったわねぇと、いつかはすべてが思い出になる。

 

ローカルとグローバルがワンタップで繋がるこれからのお話は、今どきのベストセラーに学ぶ方が学び甲斐もある。古い本を手に取ったのは単なる趣味だけれど、歴史的経緯を知ったことと今につながるアイディアの源泉に触れたようで面白かった。

 

よくも悪くも現行のシステムに満足できない文学者が、普遍的なものを残すための自由な時間や発想が許される仕組みについて考えたもの。自由な時間も発想も、灰色の男たちに奪われてもヘーキだったら用はない。

 

ま、こっち来いや、あるいはこっち来んなでぶん殴って、輪の中に引きずり込んだり放り出したりするのは、友愛からはもっとも遠いことは間違いないやね。

*1:読んだのは、NHK出版版。同タイトルの講談社+α版は読んでない。ほんとはとんぼの本から出てる『ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと』を読んでからの方が、エンデの真意を捉えやすいのかも

ウルヴァリンとコーヒーとエチオピアと

1時間くらいのドキュメンタリーを探していて見つけた、『デュカリの夢』。

 

ハリウッドスターがエチオピアの貧しい村を訪れ、コーヒー栽培農家の生活を体験。その体験をもとに、ハリウッドスターだからできる貧困支援プランがカタチになるまでを追ったもの。ハリウッドスターという、発信力のある個人メディアの理想形かも。

 

貧しい生活を追体験することそのものには、今や希少性なし

アメコミ原作の映画『X-メン』でウルヴァリンを演じたヒュー・ジャックマンが、エチオピア辺境の村でコーヒー栽培を営む青年デュカリのもとを訪れる。

 

エチオピア入りする前には、ジェフリー・サックスという経済学者からレクチャーを受けるヒュー・ジャックマンジェフリー・サックスという名前でピン!と来る人には、ある種予想通りな持続可能な社会に向けての取り組みが紹介されていく。

 

貧しい村で、電気やガスなどのインフラも未整備。干ばつや気候変動の影響か、近年収量は半減し、どこから手を付ければいいのか状態な場所。

 

作業はほぼ手作業で、機械化しようにもそもそも電気がない。これが農地なのか?と思ってしまう、雑木林と見紛うばかりのコーヒー農園は、大規模プランテーション農場とはえらい違い。

 

一見すると、何もかもがないないづくしで前近代的な場所だけど、ないなりにエコロジーシステムが発達していて、そこには素直に感心した。

 

ないないづくしで前近代的な場所に、最先端な技術を持ってきても使いどころなく故障したまま放置される未来しか見えない。ということを、現地の青年デュカリとともに働くことで、体感するヒュー・ジャックマン

 

そこで終わったら、よくあるハリウッドスターのエスニック体験記。その続きは、NYに帰ってから。

 

ヒュー・ジャックマンフェアトレードコーヒーの伝道者となる。

まずは発電所作らなきゃという、条件の悪い土地。そこで生きるしかない生産者が、生活できないと生産も続かない。そうだフェアトレードだとヒュー・ジャックマンは、エチオピアコーヒー、ひいてはデュカリ農園の付加価値を高めようと、フェアトレードの宣伝役をかってでる。今風に言うと、アンバサダーやね。

 

どこから手を付ければいいのか状態な場所に、大金つぎ込んでもブラックホールのように吸い込まれていくだけ。成果を実感することがなければ、支援者の支援しようというモチベーションもだだ下がり。

 

だったら、お金払うかわりにお金をもらわずに宣伝をかってでて、付加価値を高める方がずっといい。と思ったのかどうかは知らないけれど、ヒュー・ジャックマンフェアトレードコーヒー愛は、最終的にはひとつのカタチになる。

 

先進国にしかできないお仕事

ヒュー・ジャックマンが、エチオピア入りする前にレクチャーを受けたジェフリー・サックス氏について、まったく無知だったので、見終わったあとでググってみた。

toyokeizai.net

サックス氏の失敗は、市場を開発できなかったこととする記事を見つけたけれど、『デュカリの夢』は、そのアンサーで新しい挑戦になっていた。

 

先進国のお仕事は、付加価値の高い商品に高値がつく市場を開拓することで、ハリウッドスターという資本主義のてっぺんに居るような人が、資本主義ピラミッドの最底辺に居るような極度の貧困状態な人を支援するから、その波及効果も大きくなる。

 

モノはいいんだけどね。。という商品に付加価値をつけるのは、まずは名声ある人のお仕事で、名声ある人が現地まで出向いて現地の推薦を受けた人間を審査してから推挙してる、その一連の過程もすべてオープンにすることで、より商品の付加価値を高めてると言えるかも。

 

ハリウッドスターという個人の財布がいつまで持つのかという問題は、未来につきまとうけど、ヒュー・ジャックマンにはフェアトレード・コーヒーのアンバサダー的お仕事もあるわけで。

 

企業や組織が手を出せない分野で、資金力のある個人が動いて、先進国に市場をつくるお仕事は、夢を売って生きてきた人のセカンドキャリアとしても、相応なんじゃないすかね。

 

経済学者とSDGsとハリウッドスターとフェアトレードと。一見結びつきそうにない者同士のコラボが、予想外に面白かったけど個人差はきっとアリ。コーヒーの消費量は日本でも増えているそうで、選択肢にフェアトレードコーヒーが当たり前に加わると、生産国の風景も大きく変わるのかも。

 

お休みなさーい。

ドローンでアート

冬季オリンピック開幕。

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雪だるままんじゅう。

開幕式をオンタイムで見てた。夏のオリンピックに比べれば、選手の人数も少なく見ていてもダレることなし。寒さを考慮して、欠席した人も多かったせいか。

 

お揃いの赤いコートを着た北朝鮮の美女集団、ファーで覆った首元は暖かそうでも、足元はタイツではなくストッキング着用かと思われる肌色だった。まじか。濡らしたタオルが5分で凍るという極寒の地で、にこやかに笑顔を振りまく彼女たちは、見た目は美女でもやっぱり鍛え抜かれたソルジャー。

 

幼少期から「暖衣飽食」とは縁遠かったら、そりゃ我慢強くもなるやね。

 

すべてにおいて平均値の低い場所での特権階級か、すべてにおいて平均値の高い場所でのありふれた人か。

 

前者、すべてにおいて平均値の低い場所での特権階級を望む人こそが、失敗した国家の担い手なんだな、きっと。低位安定が心地いい人は、全体のレベルをかさ上げするなんてことは、望んじゃいねぇ。

 

開幕式で見た、ドローン編隊がヒト型や五輪の輪っかに変化するアトラクション。荷物を運んだり農薬を散布したり。実用面が取り沙汰されがちなドローンも、すでにアートの分野に進出かと感慨深かった。そのうち花火大会で、スターマインとの競演なんてこともあり得るのかも。かもかも。

 

雪まつりでも、年々プロジェクションマッピングは派手に大掛かりになり、ちょっと色ついただけで喜んでいた頃が遠い昔のよう。

 

自衛隊を動員して作る大雪像はやっぱり見応えがあるけれど、見ていて楽しいのは小さな雪像の方。バリエーション豊富で、2017年のトレンドもある程度踏まえているから、変わり雛を愛でる気持ちで眺めてる。

 

眠れない夜のお供は、カワイイや楽しいが詰まった緊張しない軽い読み物。

 

カワイイや楽しいあるいは“みんな仲良し”がつまった、ただただ楽しませることに特化したハートウォーミングコメディ。案外作者は辛いや苦しいの渦中にいて、心強い仲間やどんな局面でも支えてくれる、家族の温かさに飢えていたのかもと思った。

 

友情や家族の有難みをことさら美しく感動的に描けるということは、かつて友情や家族愛に心底飢えた疎外経験があり、孤独を感じたその昔、ほんとはこんな風であって欲しかったという願望を描いたら、とびきりハートウォーミングな読み物になりました、と。

 

作者の置かれた環境なんて知るよしもないけれど、幸せの渦中にいる人は、幸せとはどういうことかについて考えることも分析することもなければ、そもそもする必要もない。

 

足りないものや欠点にやたらと目ざとい人は、まずは率先して足りないものを足す行為を自らの身に当て嵌めていくと、そこかしこにハートウォーミングの小山が築かれるかもね。かもかも。

 

お休みなさーい。

空気のように目に見えない

医者がメディア、ロサンゼルス・タイムズ紙を買収と聞くと、ずいぶん金回りのいい医者もいたもんだと驚くけれど、医師出身の企業家あるいは起業家と聞けば納得。

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ローカル線で見かけた電話ボックス。レトロ過ぎ。

ワンクリックさせるためのテクニックに、今日も見事に引っ掛かりまくり。

 

ロイターは金融データ事業の過半を売却し、報道をテコ入れするとか。ニュースや報道で目にする姿だけでは違いもわからないけれど、メディアのカタチが色々変わるなか、信用に値するメディアはどこかいな?と模索する日々。

 

大勢の人に支持閲覧されているけれど、実はフェイクニュースだった。という事例もままあるから、大勢に支持されているから信頼に足るとも言い切れない。

 

信頼に足るというのも、空気のように目に見えないものだから、信頼を無くしたら立ちゆかない人や組織が支持する人や組織こそが、信頼に足るのかな、と。あぁ見分けるの、とっても難しそう。難しいから、わかりやすく数値化されたものを信じる方が簡単。

 

久しぶりに読んでみるかと思った新書レーベルがあり、本屋で探したけれど、見つからず。そのレーベルから今でも本を出してる人は、平均的な日本人なら必ず名前を知ってそうな大御所ばかりで、もはや大御所しかそのレーベルからは本が出てないようだった。

 

ちなみに読みたかった本は電子書籍化されていないので、取り寄せるしかない。

 

「読みたい時にいつでもポチッ」の輪から外れてしまい、書店からも姿を消してしまったら新規ユーザーの獲得は難しく、古参の信者ばかりになってしまう。まぁこっちも古参なんですけどね。

 

東京よりも変化の乏しい街に住んでいると、環境や景色の変化に鈍感になる。環境が変わればその中身も大いに変わってるはずなので、環境の変化に敏感かつ適応できてる人との差は広がるばかり。

 

環境の変化に合わせる理由が極小だと、キャッチアップしようという意欲も極小。

 

目には見えないけれど、そこに悪意があるのか善意があるのかもすっかり丸わかり。悪意に勝るものは、世の中から隠されるようになってるんでしょ。こっちはボチボチやるだけさ。

 

お休みなさーい。

才能を育てたいというのも欲望の一種、『ギフテッド』を見た

映画には「数学もの」とでも呼びたくなるような、数学者を取り上げた作品、古くは『グッド・ウィル・ハンティング』から『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』に『ビューティフル・マインド』と色々あるけれど、『ギフテッド』も数学ものと呼べるかも。

 

ただしヒロインはとっても可愛くてあどけない女の子で、数学ものであってもハートウォーミングな家族もの。人並み外れた才能に恵まれた子供を、どう愛するのかを描いてた。

 

早熟な天才をどう育てるのか

あるところに叔父さん、亡き母親の弟と暮らす女の子メアリーが居まして、彼女が小学校(エレメンタリースクール)に進学するところからお話はスタート。

 

協調性ナシ、授業でもやる気ナシでとっても学校生活に向いてないメアリーは、実は数学の才能に恵まれた天才児。普通の子供ではないと見抜いたメアリーの担任は、天才児向けに特別教育を施す学校をメアリーの保護者であるフランクに薦めるけれど、フランクは乗り気じゃない。

 

フランクがメアリーに望むことは、普通の子としての生活。

 

とはいえメアリーは、ほっとけば終日小難しい数学の本にかじりついているような子で、普通の子への道もなかなか厳しい。でも仲良しの叔父さんの前で見せる、子供らしいあどけない仕草がとっても可愛いんだ。そのうち疎遠なはずのメアリーの祖母(何しろメアリーは、彼女に会ったことさえない)まで現れて、メアリーの教育方針をめぐってフランクと対立。

 

天才児メアリー、どうなっちゃうの?というストーリ―で、常人にはない才能に恵まれた子供を、どのように育てるのが本人にとってもっとも幸せなのかを丁寧に描くあたり、才能を本気で大事にするお国柄らしいっちゃらしい。

 

才能を育てたいというのも欲望の一種

メアリーの祖母は、メアリーの天賦の才を最大限に伸ばそうと、やる気満々。対するフランクは、才能を伸ばすことよりも、メアリーに子供らしい普通の生活を送らせる気満々で、二人の教育方針はすれ違う。

 

メアリーは大人顔負けの難問を次々と解いていくけれど、その世界を志すものにとっては解けて当たり前のもので、いわば通過儀礼。フランクが見ているのは通過儀礼の先に待つ世界で、メアリーにとっての本当の壁は、学位を得たあとにやってくることを彼は知っている。メアリーに期待されているのは、前人未到という高い壁を乗り越えることなんだから。

 

才能の片鱗を見せたら嬉々として乗り込んでくる女性に育てられたのは、フランクとその姉(=メアリーの母)であるダイアンの方が先。その彼らが、メアリーには普通の生活「も」知って欲しいと望むのに、英才教育の第一世代である彼らの母親にはなかなか通じない。

 

メアリーの親権をめぐっての裁判で、0勝2敗と皮肉られた挫折経験が、祖母のメアリーに対する執着に拍車をかけているのは間違いなし。

 

才能を育てたい、次こそは我が手で才能を開花させたいという欲望は、たぶん度し難い欲望のひとつで、才能を育てたいというエゴを爆発させるのはたいていジーサンバーサン。しかも彼らの方が、お金も権力も持ってるから大問題。メアリーに対する愛情では勝っていても、フランクには不利なんだ。

 

一生を捧げるのか、一身で二生を生きるのか

メアリーの祖母はメアリーに、生涯をかけて数学の道を究めることの素晴らしさを説き、共に歩む仲間の素晴らしさも説くけれど、最先端では結局ひとりで孤独が待っていることはすっ飛ばす。

 

メアリーの母ダイアンは、一生を研究に捧げ、二生を生きることなくその生涯を閉じた。

 

フランクやダイアンがメアリーに普通の生活を望むのは、一身で二生も三生も生きられるよう願ってるからと言えるかも。かもかも。

 

非凡な人生を子供に望む親や保護者は往々にして、平凡な人生を歩んでるものなんだ。

 

非凡な人生を歩んだ、あるいは歩まされたフランクやダイアンは、一身で二生を生きるのに失敗したかうまくいってない人。だからこそ平凡な人生の尊さを知っていて、メアリーの人生の選択肢を増やそうとする。普通の子として育てることで。

 

フランクは才能を育てているわけではなく、ただメアリーという可愛い姪を育てているだけ。メアリーも、素晴らしい才能の器として愛されてるわけではないと知ってるから、フランクの前ではだらしなく伸びたり飛び跳ねたり。無邪気な子供の面を露わにする。

 

メアリーの子供らしい可愛らしさが強調されているのは、彼女は単なる才能の器、入れ物じゃないことを強調してるよう。才能もその入れ物も同時に育てていかないと、どちらかがどちらかを凌駕した時バランスが崩れ、人としては不完全になるかもしれない先例が、数学というジャンルには多過ぎる。

 

ついでにダイアンは、世界で最も優秀と言ってもいい人で、その人が一身で二生も三生も生きる方がいいと答えを出してるんだから、才能に惹かれてしゃしゃり出てきたババアの出る幕じゃない。念のため、作中ではそんな下品なことばは使われておりません。

 

非凡な人生を掴み損ねた人ほど、平凡な人生を否定しがち。才能をめぐっての悲喜劇を、幾多も見てきたお国らしさ満点だった。子役を演じたマッケナ・グレイスが、とにかく可愛いくて、いい。

イワシの目に柊

イワシの目に柊を刺したもの、「柊鰯」は節分のお飾り。と、知識では知っていても、スーパーで大々的に売られているのは今年初めて見た。観測範囲の問題かもしれないけれど。

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ボランティアとは攻撃を受けやすくなる行為と何かの本で読んだけれど、体感としてもだいたい合っている。

 

勝手に広告が表示されるのがイヤで、有料コースでブログを書いているけれど、有料でも無料でも誰に頼まれずともブログを書く行為は、ボランティアではなかろ。単なる表現行為の一環さ。単なる表現行為の一環だから、気が向いた時に好きなように書くだけ。

 

一年でもっとも出不精になるシーズンだから、本を読んだり動画配信サービスで映画を見たりと、文化系活動がはかどってしょうがない。雪を見ながらの温泉もいいけれど、温泉地にとっては繁忙期でもあるから、予約も取りづらい。必然的に、ご近所をぐーるぐるの日々。

 

大通公園では雪まつりの準備も進み、春節シーズンが始まったとはいえ、外国人観光客の大群に、圧倒されることもなし。

 

『トールマン』『マージン・コール』『ダウト~あるカトリック学校で~』『ムッソリーニとお茶を』が、ここ最近見た映画でよかったもの。動画配信サービスのおかげで、毎日映画を見ることも可能になったけれど、やり過ぎると嬉しい楽しい悲しいといった感情が摩耗するから、見過ぎるのはほどほどにしたいところ。

 

マイナーで情報の少ない作品ほど、アタリが多い気がするこれは個人の感想です。

 

趣味が偏っているのは自覚しているから、これではいかんとメジャーどころ、007シリーズなんてものにも手を出してみたけれど、やっぱり全然ダメだった。面白いという回路が、全く開かない。

 

例えていうなら甘いものが苦手な人が、砂糖10個入りの激甘コーヒーと生クリームたっぷりの激甘チョコレートケーキをほれ食べんかいと強要され、その口直しに羊羹を薦められてるような心境で、苦行。

 

向き不向きはあるもので、メジャーな作品すべてがダメというわけではないけれど、日本では劇場未公開の作品ほど、面白く感じる。

 

マージン・コール』は、嵐の前夜に個人の中に吹き荒れる感情の嵐や葛藤を描いていて、よかった。こういう地味な作品は、どう考えても劇場公開は無理でしょう。劇場未公開の作品だって見れるようになったんだから、裾野はかつてないほど広くなって、それはきっと喜ばしいこと。

 

お休みなさーい。