クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

クリスマスなので、鶏を丸ごと調理してみた

クリスマスというホリデーシーズンに、海外、特に欧米からニュースらしいニュースが流れてくるわけもなし。彼らにとってはお正月みたいなもの。

 

こんな日に仕事するのは、ワーカホリックかそれとも違う宗教の人。祝日が異なる人たちと一緒に働くと、いちばんのメリットは休日が取りやすくなるってことさ。

 

クリスマスといえば、一年の中でも屈指のハレの日。何作りますかねぇと悩みつつ買い物に出かけると、出会ってしまった「鶏丸ごと」。あぁこれを料理したい。というわけで、今年のメイン料理は鶏に決定。いかにもクリスマスらしい。

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外国産かと思ったら、北海道産だった。“鶏の半身揚げ“にザンギに、いつもは細切れで出会う鶏肉、どーんと一羽丸ごとだと迫力あり。内臓は、思った以上にきれいに取り払われ、中身はすっかり空洞。

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鶏はまず水洗いし、キッチンペーパーで水気をふき取る。そこに、スタッフィングを詰めていく。雑に市販のレバー・パテとマッシュルーム、そして玉ねぎをみじん切りにして、鶏に詰める。想像以上に空洞だったので、ちょっと多目かと思う量でちょうどよかった。

 

油を鶏全体に回しかけてから、これもやっぱり市販のシーズニングを全体にまぶして、電気圧力鍋へGO。隙間から白ワインを適当に流し入れてスイッチオン。あとは、出来上がりを待つだけ。

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お尻の大きなウサギに見えなくもない

鶏といえば丸焼きだけど、どう考えてもパサパサになりそう&しっとり焼き上げるのは至難の技っぽかったので、電気圧力鍋蒸し鶏風にする道を選んだ。二度加圧し、すっかり火が通ったら完成。

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あとはさつまいものポタージュと、なんちゃってアッシュパルマンティエ風を添える。なんちゃってなのは、マッシュポテトとひき肉(今回はコーンビーフで代用)のフィリングを入れる順番を間違えたから。ほんとは、マッシュポテトが下。

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ついでに、どこかのレシピサイトで見つけた、トルティーヤ生地にゴルゴンゾーラ、はちみつにくるみをトッピングしてピザ風に。見た目はピザっぽくなったけど、味はやっぱりトルティーヤだね。。という出来上がりで、何事もやってみないと分かんないもの。わざわざやってみなくても、やらなくていいものもあり。

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鶏の丸ごと蒸し。

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完成した時点でやり切ったという達成感の方が強く、食べるのはついでみたいなもの。

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どう考えても、食べきれるわけがない量。ふた切れ・三切れほどでもうお腹いっぱい。とはいえ濃厚なフィリングがアクセントになって、淡白な鶏の味を引き立ててくれたので、味にはそれなりに満足。

 

とはいえ、カニ食べてる時みたいに無口になれる。骨があるから、決して食べやすくはない。決して食べやすくはないから、一年に一度で十分さ。疲れる。

 

食べ切れなかった残りは、スープの具やリゾットその他にして消費する予定。食べ切れない量を作って、その後もチビチビと同じものを食べ続けるという発想も、お節っぽいからイベント向きレシピ。

 

クリスマス休戦という価値を共有できるかどうかは、話が通じる相手かどうかを見極める試金石にもなる。

 

正月あるいは旧正月に置き換えてもいいんだけどさ。相対する国がそれなりに大事にしてる行事ごとの日には、事を荒立てないという発想さえ通じないのなら、同調してもらうのもそりゃ難しくなるさ。

 

お休みなさーい。

それは献身に値するものか、よーく考えよう

法人税率の引き下げを受けて、通信大手のAT&Tなどはすでに大型投資を予定しているとか。直接政府が介入して、雇用の創出や公共事業を通じて経済を活性化させた、ニューディール政策民間活用版に、なったらいいわねぇと渋茶すする。

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予約して買う福袋で欲しいものナンバーワンは、クリスマス用オーナメントの詰め合わせ。どうせクリスマス間近になると叩き売られるんだから、あらかじめお買い得価格で、ついでに福袋として売ってくれたら、買う人は買いそうな気がするんだけど、どんなもんでしょ。

 

スーパーはすでに、お正月用品へとシフトしていた、せわしない年の瀬。

 

風邪で寝込んだ日は、小難しいこと考えられないから、子供向けの本、児童書を読むくらいでちょうどいい。児童書といえども行間は文字でびっしりで、児童書よりもスルスル読める薄っす~い行間スカスカの自己啓発書よりも読みごたえあって、新鮮だったわ。

 

大人目線と子供目線では、読後感がずいぶん違うというレビューに興味を覚えてポチッたのは、『ミオよわたしのミオ』というアストリッド・リンドグレーン原作の本。

ミオよわたしのミオ (岩波少年文庫)

ミオよわたしのミオ (岩波少年文庫)

 

 孤児院、そして意地悪な養父母に引き取られた少年ボッセが主人公。少年ボッセが架空の王国で、波乱万丈の経験をするという、お子様向けファンタジーの王道のようなストーリー。それでいて、ラストには膝カックンを食らうようなオチが待っていて、嬉しい楽しいで終わらせない、怖いお話でもあった。

 

怖さに気付けるのは、きっとある程度経験を積んだ人限定と思われるので、経験値の浅い人が読むと、ハリーポッターの方が面白いじゃんという感想になりそう。

 

アストリッド・リンドグレーンといえば、『長くつ下のピッピ』に映画にもなったロッタちゃんシリーズ、最近だと『山賊のローニャ』と、数々の児童文学の名作を生み出してきた人。その人が、架空の王国での波乱万丈冒険の旅に、大いなる落とし穴を仕込んどくとはねぇ、と感慨深い。

 

さて、少年ボッセはある日突然架空の王国へと旅立つことになるんだけど、そっちの国では彼は、それは一体誰のことやねん???という“ミオ”という名で呼ばれてる。

 

しかも猫なで声。ミオよわたしのミオと、彼の本当の名前はガン無視して、呼びたいように少年ボッセを呼ぶのは、優しい王様。王様のもとでは、食べるものにも住むところにも、一緒に遊ぶ友達にも困らない、ステキな日々を過ごせる。

 

でも、彼の本当の名前は決して呼ばれない。

 

それは一体誰のことやねん???という呼び名を受け入れている限り、約束される甘い生活と、理由も知らずに駆り出される悪者退治の旅。なぜ?と考えることを捨て、架空の王国の求めるままに過ごしてる限り、いつまでも続く甘く優しい生活お友達つき。

 

でも。決して本当の名前では呼ばれない、その架空の王国から一歩外に出た本当のあなたは、一体どこにいるのさ???

 

と、ネトゲやソシャゲ漬けで廃人一歩手前となった子供がもし自分に居たら、こんな気持ちになるのかと思いましたよ。読後に感じるのは、まず哀れという感情。あとイメージとしては、帰還兵なんかもぴったりきた。

 

王様=リーダーの指示に従っているあいだは、衣食住も安全も保障され、理由も知らされずに言われるままただ悪に立ち向かい、無事生還すれば多くの仲間=戦友と一緒の楽しい日々が待っている。

 

ところが戦争が終わって故郷に還ってきてみれば、そもそもが孤児で待つ人もいない身。誰かが寂しがっててくれるといいなぁと願う姿。とも考えられて、なおさら切ない。

 

空想と孤独は相性よしで、孤独と相性がよすぎるから、空想は優しくて残酷。

 

決して本当の名では呼ばない王様を喜ばすため、架空の王国で剣をとって闘ったとしても、その献身は、ひと時の癒しとなっても必ずしも孤独に報いるものとは限らない。

 

ということを、子供のために嬉しい楽しい数々のお話を書いた人がわざわざ筆をとって書いてるってことは、子供目線に「だけ」立った、安易に子供を喜ばすだけのコドモダマシへの忌避感でもあったのかしらねぇ、と渋茶すする。

 

甘くて優しいだけのコドモダマシフィクションに溺れてたわけじゃないから、

合理的でない人の行動は、市場競争で淘汰されてしまって、市場経済の動きには反映されない可能性も高い

『経済学のセンスを磨く』 大竹文雄著より引用

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ってことも、すんなりと受け止められる。

 

ミックスAmazonプライムにネットフリックスで見放題のアニメにゲームに。リッチになったお子様向けコンテンツと比べると、やっぱり地味で面白いと思う回路が開くまで訓練が必要な、本を読むという行為。

 

空想と孤独は相性よしだから、みんなが楽しんでることが、必ずしも楽しめない人向きのメディアとも言えるかも。なんて考えましたよ。みんなが楽しんでることが、必ずしも楽しめない人が勝手に掘り進んだ道が、勝手に大きくなった姿、前にも見たよ。歴史が繰り返されるかどうかは、知らね。

 

お休みなさーい。

正義のヒーロー出動のお値段

  • 日本相撲協会、すべての力士・親方を集めて暴力根絶に向けての研修会を開催
  • 独立に揺れるスペインのカタルーニャ州で、州議会選の投票始まる
  • 日本企業による中国での人民元建て債券による資金調達が解禁へ

相撲取りが一堂に会すると、ちょっとした迫力。こんな絵面には、きっと当分お目にかかることもなし。テロが身近となった世界では、被害者が自己防衛のために振り上げた拳だって過剰反応と見做されて、暴力ダメ絶対という単純なルールの前では分が悪い。念のため、日馬富士の件とはまったく関係のない、単なる私見。

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救急車を呼ぶにも有料の世界は最初から性悪説をとっていて、優しくしたらつけ上がるタイプの人間を織り込み済み。優しい顔を見せたらどこまでいってもつけ上がるタイプの人間、クラスタに対して、もっとも効果的なのはコストの負担を求めること。

 

優しい顔を見せたらどこまでいってもつけ上がるタイプの人は、コスト負担を求められた途端、逆上することがあり、おかしな人かどうかを見極める分水嶺にいい。

 

そもそも生きる世界が違い過ぎて、常識も違えば、頭のネジが一本か二本、あるいはもっと足りない可能性あり。芸術とか宗教とか。なんだか主語が大きすぎるタイプのやつは、奉仕して奉仕して奉仕して、なーんの見返りもなくてもそれが生きる道。

 

的な、使役する側にとってだけ都合のいい理屈を、ぶん回してるという自覚もなしにぶん回しつつ距離つめてくるから、厄介。なので、無視無視無視。

 

正義のヒーローものというジャンルがあって、今でも土日の早朝あたりのテレビ枠でやっている。たまーに見る、というか眺めることがあるけれど、セリフだけはずいぶん立派で小難しいこと言ってんだよね。

 

昭和の昔のヒーローものはもっと単純で、悪い奴は見るからに悪かった。

 

見るからに悪そうではないけれど実は悪い奴で、悪い奴を倒すにもいろいろ理屈つけてやっつけなきゃで、正義のヒーローもそりゃ苦悩するわ。

 

正義の味方と悪い奴と、双方ともに苦悩を抱えつつ戦うから、問題が複雑に見えて解決も遠のくんだけど、小利口な理屈並べて小難しそうな考え方をお子ちゃまに伝授するより、もっと大事なのは、コスト意識。

 

今回の正義のヒーローの出動に要した費用はおいくら万円。悪者によって破壊された人的・物的損害の復旧に必要な費用はおいくら万円。現在の地球防衛軍の収支は、現在のところ黒字。今後同様の攻撃には、X回耐えられる見込みです。あるいは、次回より赤字に転落、当分の間正義のヒーローの出動はありません。とかなんとかさ。

 

現実に起こる争いも、つきつめれば損得の問題に帰するんだから、正義はノーコストという考え方をアップデートするにもちょうどよし。

 

正義はノーコストという無策が、十字軍に、白虎隊に、特攻隊に子供兵という人命の無駄遣いを生む土壌になってきたんだから、正義をテーマに語るのなら、一緒にコストも教えなきゃだわ。

 

正義のヒーローの出動は当分なし、呼ぶならお金チョーダイ、今フトコロ寂しいから、ギャラはたっぷりねと告知しておいたら、気軽に正義のヒーロー呼びつける人も居なくなって、自助の気持ちも生まれるかもね。かもかも。

 

お休みなさーい。

プランAプランB

築地から豊洲へ市場が移転すると聞いても、(* ̄- ̄)ふ~んという感想しかないものの。例えば5年後10年後の銀座は、今と同じようにキラキラしているのか。築地がなくなると、さらにキラキラが加速するのか。そこにだけは興味あり。

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人生を賭けた大きな賭けだったら、大抵はプランAとBあるいはもっと。状況に応じて複数のプランくらい、考えとくわな。

 

クリーンなプランAが成功すれば、表沙汰にしても問題ないきれいなお金が動き、ダーティなプランBでいくしかなくなれば、動くお金もダーティなものになる。ということも、あるかもね。

 

動いたお金が表沙汰にできないタイプのお金だったら、お金を動かした主もまた、表には出てこられない場所で逼塞するしかない。

 

内部キャッシュが豊富だと、銀行を通さず何でも自分とこでやりたがるものなのか。メールで送金口座のやり取りとか。危なくないのか???

 

海外とのやり取りで請求書うんぬんの書面だとタルイから、メールで済ますのはわからなくもないけれど。顔が見えない相手との遠隔地取引で、真贋をどう見極めるのか。いざとなったら責任を押し付けられるよう、真贋を銀行その他に任せるのもリスクヘッジの一環だよな。。と、思いましたよ。

 

昔々にも、わかる人が見たら一発でわかる、偽物の取引で高級ブランド品の売買代金が騙し取られた大企業がありましたねぇと、遠い目になった。その取引に関与した銀行はどこだったのか。あるいは銀行を介さない取引だったのか。そこだけが気になったさ。こういう詐欺は、単純なほど引っ掛けやすいのかもね。

 

スターウォーズが公開中で、評判にかかわらず結局は見に行くんだけど、もはや惰性。

 

物語にどのようなピリオドを打つのか。興味があるのは、もうそこだけ。近代的かつ強大なシステムと豊富な人材を持つ巨大帝国が、もはや装備もボロボロで人材もロートルが目立つ零細独立戦闘組織に倒されるという夢は、現代では持ちにくい。

 

どちらかというと、巨大帝国に同化した方が楽だけどいきがかり上そうもいかず、同化したいんだけど同化できない物語として見てしまいそう。

 

レジスタンスと呼ぶとカッコいいけれど、やってることはテロリストだったら、もはやそこにカッコよさは期待できない。非暴力不服従だと虐殺されていくばかりのリアル社会もオーバーラップして、ますますフィクションが能天気に見えてしまう。

 

能天気なフィクションに耽溺できた昔は、思えば平和だった。日本上空をミサイルが飛ぶ未来が来るよと10年前の誰かに吹き込んだら、きっと笑われたに違いない。

 

笑いごとになる社会だからフィクションにすることもでき、もはや笑いごとにもできないほど事態が進行してしまうと、いじるのもセンシティブになる。みんなで一緒に見る大きな夢が見にくくなったら、それぞれがそれぞれなりのささやかな夢でも見ていくしかないやね。

 

みんなで一緒と共有体を作り上げ、そのパワーで押し上げられつつではお先にと利益体に移行した人が、やっぱお前だとダメだわと利益体から見切られた時、迎えてくれる共有体は、またイチから作り上げるしかないんでしょ。

 

お休みなさーい。

面白いのは最初だけ

  • 楽天ビックカメラ、共同でネット通販会社設立へ
  • ワシントン州で列車が脱線、幹線道路に落下し死傷者多数
  • 北海道東部沖で今後30年以内に巨大地震の可能性、引き上げられる

日常的にAmazonでポイポイ本を買ってる方。本以外のものを買う場である楽天では、あんまりポイポイ買ってない。ポイポイ気軽に買えるのは、本やあるいは雑誌のようなものだと、まず偽物をつかまされる心配はないから。公式ショップでしか買い物したくない派にとっては、公式ショップでの買い物の機会が増えるのは、よいお知らせ。

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このくらい雪積もってる方が歩きやすい

ゴルゴンゾーラチーズとホウレン草のサラダ、生ハムと柿、ピラフのなれの果て風チャーハン。という晩ごはん。ゴルゴンゾーラという名称が使えるのは、イタリアの特定地域・特定製法に限られるようになり、それ以外はフェイクとなる未来が待っている。

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むかーしに読んだ、ボストンを舞台としたエンタメ小説のお話。タイトルももう忘れちゃった。ボストン生まれボストン育ちの男性が、不文律として許されてきた自身の車の駐車場所を、不文律をわきまえない新参者によって占拠されて怒るというシーンがあった。

 

月極駐車場のような場所ではなく、単なる路上駐車。単なる路上駐車ではあっても、自身で決めた定位置があり、その“彼が決めた“定位置をわきまえず、空いていたからと先に駐車する新参者に怒ってた。

 

不文律で明文化もされておらず、情報共有する機会もなかったら、そんなものわかるわけがない。という新参者の言い訳をまったく考慮しないところに、ローカル生まれローカル育ちの人らしさがいっぱいで、苦笑するしかなかった。

 

不文律が通用しなくなるのは、その地域からローカル色が薄れゆくことの証でもあって、ボストンはもうすでに、ローカルな人たちだけが住まう土地ではなくなったということ。なんだけど、その変化に苛立ちが隠せない、ローカル生まれローカル育ちな人の焦燥が凝縮されていたシーンだった。

 

かといって無用な争いを避けるため、禁止事項を明文化してデカデカとどこかに掲示するなんて、野暮じゃない。その野暮な行為に踏み切るということは、もう野暮だなんだといってられる段階を、とっくに超えたってこと。

 

脅迫ダメ。暴力ダメ。

 

そんな当たり前のことを、どうして今さらわざわざアピールしなきゃならないのさ。

 

一方に、地位やよいポジションを提示する権力があり、他方に、地位やよいポジションを提示する権力を倒せという権力があり。

 

そのどちらに与しても、権力におもねるという意味では一緒じゃん。その必要もないのに、権力におもねる意味がわからない。

 

余暇という余った時間は、自身の本業に資することに時間をあてたいというのは、そんなにおかしな主張なんですかね。

 

余った時間を自分のために使うよりも、権力のために使った方が、よりあなたの夢や希望にも近くなるよというショートカットのおすすめは、その必要性を感じない人にとっては単なる悪魔の囁きにしか聞こえない。

 

誰かを笑顔にする、そのためなら努力できる資質を備えた人間を、お前はニコニコ笑顔ふりまく要員じゃないからこっち来いと、本人が望んでもいない場所に引っ張り込むのは、どう考えてもタチが悪いし筋も悪い。

 

元始、女性は太陽であったと平塚らいてうが言ってたようなことを、どうして今さら見せられなきゃならないのか。てっぺんがそのレベルだったら他は推して知るべしなのか。わざとそう見せて、これ以上競争が激化しないよう調整しているのか。

 

調整してたら、それ単なる談合やね。

 

どちらかに与すると、権力構造がそっくり入れ替わるという構造そのものがすでに政治そのもので、しかも二大政党制が染みついた、アメリカの流儀を踏襲してる。その流儀を踏襲することは、ここは日本ではなくアメリカと宣言するようなもの。

 

観光客気分でローカル色が薄れつつある地方で暮らし、文化的にも欧米文化には親和性を感じているけれど、だからといって、自分以外の誰かや何かの代弁者になるつもりもなし。

 

芸を讃える場に政治を持ち込むと、面白いのは最初だけ。最終的には正義に寄っていくから、芸そのものがつまんなくなっちゃうんだよね。政治を持ち込むなと、ダメなものはダメは両立する。誰かを笑顔にしてるものは、そこちゃんとクリアーしてる。

 

お休みなさーい。

印象で語る社会設計

昔住んでいた人口20万程度の街は、選挙前になると怪文書が飛び交う街だった。○○候補には複数の愛人!!!とかいう下衆な週刊誌みたいな内容で、ご丁寧に愛人とされた人たちの顔写真(目貼り入り)つきだった。

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あまったりんごの蜂蜜漬け

個人の権利意識が高まった現在だったら、通用しない手法。場所を変えてネットでやろうとしたって、ネットがマスメディアになろうとしてる今はもうアウト。

 

恐ろしいのは、怪文書がある朝突然集合住宅のポストに投げ込まれていたこと。

 

誰かが特定個人を標的に、秘密裡かつ組織的に大々的に行った犯罪。今なら監視カメラがあるけれど、監視カメラもなかったら、もうどうやっても犯人なんて捕まえられそうにない。

 

丁寧に三つ折りか四つ折りにされていた封書を前に、いい歳した大人がここまで薄汚い手段に手を染めてまで、生き残ろうとするのかとただただ暗い気持ちになった。

 

真冬でも快晴が続くことに感心した、太平洋岸式気候の街だったんだけどさ。

 

今年もっともバズったワードにビットコインがあるけれど、バズったおかげで上から下までビットコインに殺到して、流行りものはやっぱり悪だねと痛感したこの一年。年末なので、何かにつけて“この一年”ってつけときゃ年末気分も盛り上がる。

 

元旦に届くようにしたかったら25日までに年賀状を投函しましょう、とこれは自分への刷り込みさ。

 

ざっくりと同じ年代の子供たちを、例えば10年20年という単位で長期に渡って面談、観察、記録し、どのような生育過程をたどるか研究する手法。何か名前があったはずなんだけど、どうしても思い出せない。

 

日本では類例にとぼしく、海外先行型だったような。

 

長期に渡って定点観測することで、生育過程におけるどのようなイベントがどのような変化を生んで、その結果何が起こるのかの一次資料が集まるわけで、肌感覚、印象論で語っていたような事象に、エビデンスが加わる。

 

エビデンスがあれば、肌感覚というぼんやりとした印象にさらに強固な説得材料が加わるわけで、いろいろと使い道も多そう。

 

何かを主張した時に、それはあなた個人の感想ではないですか?と返ってくる反論に対しても、エビデンスをもとにさらに反論を加えることができて、恐らくもっとも有効な使い道は社会設計。

 

そもそも超長期に渡って社会を観察し、その変化を記録するなんて気の長~い研究、パトロンになれるのは国くらいのもの。お金たっぷり持ってるグローバル企業が、手を挙げるかどうかは知らね。手を挙げてない人をサンプルに使ってたら、サンプルとして役に立たんわな。同意なき実験は、どれだけ効果的、あるいは恣意的に使える要素たっぷりでも使えない。

 

流行りものはやっぱり悪だねと痛感したので、フィルターバブルに包まれて、何が流行りかなんて、知らない方がずっと生きやすいかも。

 

お休みなさーい。

補助線と調理バナナ

強い言葉を使うと逆に弱く見えるのは、いくら強い言葉を使って俺・私たちは強いんだぞ~、怒らしたら怖いんだぞ~、べろべろばぁ。

 

と強がってみせたところで、あんたら強者に見捨てられたらおしまいやん。というのが透けて見えた時。何かの威を借りての虚勢だというのが、すっかりばれてたら逆効果。

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調理バナナ。

調理バナナ。変わったものを見つけると、つい買ってしまう。

 

変わった食材だけど、変わったレシピは特に思いつけないので、カレーに入れてみる。ザクザク雑に切って、放り込んだだけ。どこかのカレー伝道師に忖度したわけでは、まったくない。フリッターにすることもちょっと考えたけど、揚げ物は華麗にスルー。

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食感はジャガイモみたいにホクホク。味はやっぱりバナナ。甘みは少なく、噛むほどにあぁバナナだねというお馴染みの味が広がっていく。リピはなし。

 

酢豚にパイナップルは許容できるけれど、ポテトサラダの缶詰ミカンは許容できないタイプ。許せる許せないの違いは、きっと酸味にある。トロピカルで酸味があるものはOK。トロピカルでも酸味が感じられないと、NG。

 

という実体験を通じて、合う合わないというデータが積み上がっていく。

 

ある特定個人Aを、数年ではなく10年以上というロングスパンで観測し、その嗜好や好み、どのような本や映画その他のフィクション・ノンフィクションをインプットとして取り込んで来たか。逆に、決して近寄らない領域や嫌ってるものは何か。

 

手許に膨大なデータがすでに積み上がっていたら、その人物を高ストレス環境にわざと置いて、究極の選択を迫ったときにどう反応するか。もうね、山ほどデータを持ってる人ならすっかり承知してるに決まってる。

 

東インド会社というグローバル企業の走りのような会社は、世界がひとつになったら意味をなくし、その活動を終えたんだってさ。

 

今は西欧先進国が中心でも各国の政府が志を同じくして、あれは要らんとひとつになろうとするのは、お払い箱にしたい何かがあるから。なのかもね、かもかも。

 

オーストリアで極右政権誕生のニュースに、衝動買いした『アドルフに告ぐ』最終巻。今さら全巻読破するのはダルイから、最終的にどうなったのか結末だけをおさらい。

 

アドルフ・カウフマンという日独ハーフの男性が主人公。舞台は第二次大戦下のドイツおよび日本で、ナチスに傾倒し、忠誠を誓ったいわば戦争の加害者を主人公にしている。

 

少年の成長物語といえば清く正しく強くなるのが王道だけど、『アドルフに告ぐ』は、清くも正しくもなく、けれど強くだけはなった青年を描いてる。しかもナチスの威を借りてのことだから、単なる悪ガキより質が悪い。とはいえ繊細かつ神経質な面もあって、生いたちと環境のせいもあるけど、それなりに複雑で奥行きもある人物。

 

アドルフ・カウフマンの横暴かつ非人道的な性格を強調するように、親友には好人物のアドルフ・カミルを配してる。こっちのアドルフはユダヤ人で、ユダヤ人だけど、二人はある時点までは親友だった。

 

アドルフ・カウフマンは、高慢でイヤな奴ではあるけれど、同時に母親や歪んではいるけど自分が気に入った相手に対する愛はそれなりに深く、その愛情の深さが仇となって、時として彼を不合理な行動に駆り立てる。

 

この物語のとっても秀逸なところは、戦後を用意しているところ。

 

第二次大戦が終わり、ナチスとして大いなる加害者だったアドルフ・カウフマンは、戦後は曲折を経てパレスチナゲリラとして生きていた。

 

ナチスが敗北し、価値観が逆転した西欧社会で生きるより、非文明的であってもパレスチナの方が生きやすかったのか。妻と娘も得てそれなりに安定した生活は、やっぱりそう長くは続かない。

 

パレスチナゲリラとして生きるアドルフ・カウフマンの前に、イスラエル兵となったアドルフ・カミルが現れ、彼らイスラエル兵によってアドルフ・カウフマンの妻と娘は殺されてしまう。

 

はい、ここで、ナチスとして大いなる加害者であったアドルフ・カウフマンは、イスラエル兵(=ユダヤ人)に愛する家族を殺されてしまうという、大いなる被害者へと立場を変える。

 

被害者と加害者が立場を入れ替わるという「補助線」が引かれることで、単純な二項対立で語ることのできない世界が出現する。

 

ユダヤが悪いと言い募れば、あんたたちナチスユダヤに一体何してきたんだと返される世界で、妻子を殺され生きる望みを失ったアドルフ・カウフマンは、アドルフ・カミルへの復讐に執念を燃やす。

 

やられたらやり返すを、何回繰り返せば気が済むの???を地で行くように、アドルフ・カミルにはアドルフ・カウフマンをこっぴどい目に遭わすじゅうぶんな理由もあるんだけど。でもさ。

 

被害者と加害者と。立ち位置が変わる争いを繰り返すだけだったらいつまでたっても、紛争は終わらない。

 

アドルフ・カウフマンは一身で二生を生きた人だけど、三回目の生を見つけるには、あまりにも遠くて過酷だったから、個人的復讐に生きることにした。

 

そんじゃあ三回目、四回目行っとくわと、簡単にリセット繰り返せるゲームじゃないでしょ、リアルな世界は。

 

アドルフ・カウフマンはフィクション上の人物で、もう後がないからやることも滅茶苦茶。アドルフ・カミル出てこいやと戦場で一対一の決闘を望むんだけど、そんな呼び出し、無視すりゃいいんだよね、ほんとは。

 

でも『アドルフに告ぐ』はフィクションで、最後にはエンドマークつけなきゃならないので、戦場に出てきちゃうんだな。

 

お前が悪いに応えてノコノコ出てきて殺し合いしたら、そこにはもう共存の余地なんてない。

 

アドルフに告ぐ』から半世紀以上たった現在は、もっと世界は複雑。双方が被害者で加害者なら、そのどちらを生かすのかについて、さらに複数の補助線が引かれる。

 

わかりやすく解きほぐしやすい問題なんて、もう残されてない世界で、解決までの道筋をどうつけるのか。補助線を引いて敢えて単純化し、二項対立を繰り返す世界は、ツルハシを売るビジネスだけが儲かるだけで問題の解決からは遠ざかるだけ。という悪寒がするので、あったかい飲み物飲んでから寝ましょ。

 

お休みなさーい。