「奴」に「心」で奴隷が感情を持つと怒りになり、「奴」に「力」で奴隷が力を得るとよく働くという意になるのかと。「奴」を奴隷ではなく、「しなやかで弾力がある」意と捉えると、もっとポジティブになるんだけど、生憎辞書にはそう書いてない。
辞書を引くという行為も、母語だからできること。理解度50%の言語で、辞書を引くかというと、引いても多分読解力が追いつかない。母国語で辞書が読めるのは、思えば幸運なこと。
カリグラフィーに書道に書。
文字、ひいては文字で表せる知識を珍重する気風があると、文字そのものも飾るようになるのかも。知識が珍重されてきた裏返しと思うと、個人的には納得感がある。飾るものさえ持たなかったら、別のものに頼るしかない。
ヨーロッパやヨーロッパをお手本に街づくりをした古い街では、ひと目で何のお店かわかる、シャレた看板が店先に掛かってることがあるけれど、もともとは文字の読めない使用人階級のためだったという説は、何回思い返しても含蓄がある。
今も一緒。文字情報ではなく、イラストや写真を多用するものは、大量の文字情報を処理できない人のためのもの。母語とは別の国で暮らし、生活圏で日常的に使われている言語への理解が50%あるかないかだったら、そりゃイラストや写真が多用されたものの方が好まれる。
ぎっしり詰まってたはずの文字情報がスカスカになり、その代わり、イラストや写真といった視覚情報がふんだんに使われるようになった状況を、文化的侵略と捉えるのか多文化共生への第一歩と捉えるのか。
母語や母語が背負った背景への理解度が、50%あるかないかという人との居心地悪い同居を甘受できる人は、そんなこと気にもしないんだろうけどさ。
幸福な王子は最後は身ぐるみ剥がされて、忠実なツバメとともに息絶える悲しいお話。
悲しいお話だけど、気持ちの通じない人たちの中に取り残され、通じない気持ちを持て余しつつ長生きするよりは、よっぽど幸せ。この世ととっととオサラバできる方が、幸せなこともある。長生きは、人を歪ませるから。老いても養うべき人が多数その肩の上に乗っかってたら、いい人も貫けない。
いい人がいい人のままで長生きできないのなら、悪い人になる前に死ねる方が、物語のオチとしても座りがいいやね。ぎっしり詰まってたものがスカスカになり、スカスカを埋めるためだけに意に反して長生きさせられるのは、さして幸せとは言えなかろ。
凸凹をフラットにならそうとした時、「政」や「官」を無理くりフラットにすることばかりに熱心で、決してその力を「財」や「金」あるいは「芸」に向けない人やクラスタのことは、天変地異が起こっても信用しないし、信用に値しない。偏ってるから。
お休みなさーい。