クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

凸凹

凸凹をフラットにならしてるとインターネット的。そもそも影響力がある人の声や意見を、拡声器となってさらに大きな声で知らしめてるとテレビ的。

f:id:waltham70:20180421002045j:plain

今週のおやつ。

だから、凸凹をフラットにならしてる人がインターネット代表でいて欲しいと思ってると、そろそろ老害と言われるのかも。かもかも。鳩も日向ぼっこする、陽気。気温が急上昇すると、紫外線が怖い。

 

昔、ちょっと興味を持ってた犯罪系小説について、恐らく話題性を高めるためだと思うけれど、「実は殺人犯が書いたものです」というTwitterの書き込みを見た後には興味が雲散霧消して、手に取る気さえ失せたことがあった。

 

そのくせ、シャーリーズ・セロンが家庭内殺人事件の生き残りを演じる映画は何とも思わずに見れたから、先入観なんて勝手なもの。被害者OK、加害者NG。その差はどこから来るのかと考えたら、どうもそういうことらしい。

 

加害者が、フィクションの中とは言え加害者を描いたり演じたりするのは、加害者視点に感染しそうでNG。被害者が被害者を演じ、被害者感情に感化されるのは許容範囲で、「可哀そう」という感情はそもそも強いんだ。個人差はきっとあり。

 

可哀そうという感情は強いから、可哀そうとされた人には支援が集まりやすく、家庭内殺人事件の生き残りを演じるシャーリーズ・セロンの元にも、最初は多額の寄付が集まってた。事件の風化とともに、年々寄せられる寄付は減り、お金に困った彼女がちょっと変わった依頼を受けることから、事件は新たな展開を迎えていく。という内容だった。

 

可哀そうには同情が集まりやすいことを逆手に取ったビジネスは、昔っからそれなりにある。より可哀そうな方がお金を集めやすいとなると、進んでより可哀そうな境遇に身を落とす人も出てくるから、その手のビジネスは水もの。

 

真面目で世間擦れしていない人ほど、小狡い人の餌食になりがち。

 

二重三重のセーフティーネットに守られた、そもそも恵まれた人が自分とは真逆のまったく恵まれてない人と出会った時、どうにかしたいと思う気持ちとどう向き合えばいいのか。

f:id:waltham70:20180421002051j:plain

真面目で割り切るのが下手で経験値も低くて悩み過ぎるような人は、つい聖者然とした振舞いをしてしまいがちだけど、たいていの人は聖者じゃないから限界がくる。気が付いたら、食い物にされてる自らの姿に気付いて愕然とする。なんてことがもしあったら、笑えない。

 

普通でいいんだよ。

 

という、悟りをもたらしてくれたのは『聖者は口を閉ざす』のおかげ。当然といえば当然だけど、現在では入手するのにもひと苦労しそう。恵まれない人との共生を突き詰めて考えるよりも、たいていは晩ごはんのメニューの方が需要あるからしょうがない。

 

売れてる本ほどポチッと簡単に入手できるようになり、ベストセラーの売り上げに益々貢献する今のAmazonは、凸凹をフラットにならすインターネット的というよりも、強者をますます強くするテレビ的。

 

だから、テレビ的でありたいインターネットメディアとも相性よさげ。今も昔も、インターネット的なインターネットの方が、本質的には好きさ。

 

お休みなさーい。