クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

君の名は

百姓とはよく言ったもので、やんごとなきわけでは全然ない人の苗字は百どころか、千も万もある。捨てても惜しくない名前は、簡単に捨てられる。

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世界や歴史を見渡すと、苗字を持たない国や民族も少なくなくて、例えばミャンマーには姓がない。アウンサンスーチーさんはスーチー女史とか呼ばれたりするけれど、ほんとは区切りなく“アウンサンスーチー“と呼ぶのが正しいんだとか。

 

じゃあ、パスポートはどうなってんのさ???というと、無理くり姓っぽいものと名前っぽいものとで区切ってるらしい。グローバルスタンダードに合わせると、却っておかしな状況が生まれるパラドックス。生まれた場所、生まれた国を出ることさえなければ、苗字はいらない。狭い範囲で生きていく分には、個人を識別する記号は短ければ短い方がいい。

 

思えば苗字獲得は広い世界への第一歩で、明治の名字帯刀は外圧による開国という背景を背負ってか、生まれた場所を離れ国を離れても生きていけるようにとの深謀遠慮も実はあったのかも。かもかも。

 

近隣諸国を見れば、中国も韓国も日本ほど苗字は多彩じゃない。

 

名字帯刀が許された時、できるだけ他と被らないようオリジナルに走った結果と思われる千や万の苗字群は、自分で選べるのならオリジナルとの結果と思えば納得で、その気持ちが嵩じてのキラキラネームと思えばさらに納得。

 

名付けにはいろいろルールがあり、慣例や前例を踏襲しないオリジナルな名付けは、言ってみれば自己流王朝の始まりを宣言したもの。伝統を軽視する宣言でもあって、新しい名付けの創始者は、新しい名付けに従って新しい道を生きた。とかの前例を発掘できればなお面白いんだけど。

 

ペンネームも、いつのまにか姓&名の組合せではなくなってきたっぽいけれど、始まりはいったい誰なんすかね。心当たりがあるような、ないような。一見新しいように見えて、実はグローバルスタンダードには与しません宣言かもしれず、聞いてみなけりゃ真意はわかんね。

 

日中の気温は15℃以上にもなり、暖かい。暖かくていいけれど、手持ちの服を見渡せば薄手の春物が思ったより少なく、例年いつまでもモコモコと着込んできたことがよくわかる。

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全国放送のアナウンサーは、すでに半袖姿も珍しくないけれど、半袖が活躍するのはまだまだ先。もういくつ寝ればGW。気温が上昇すると、外を歩く人の姿も確実に増える現象は、やっぱり冬が長い国に特有のもの。

 

桜の蕾はまだ固いままだけど、小さい春はもうすぐそこ。

 

お休みなさーい。