クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

遠慮のかたまり

法は正義で冷たいものだから、「でも」や「だって」といった曖昧な感情の置き場所はない。

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雪まつりという、宴のあとの雪山。

限られた任期中に自己の功績の極大化をめざし、安泰な余生めざして任期が切れたらハイさようなら。後に続く人の苦労なんて、散々煮え湯飲まされたんだから知ったこっちゃねぇ。

 

まずはマイナスから始めればいいじゃん?という不毛なサイクルを、12周くらい見聞きしたら、勝ち逃げできるシステムにこそ欠陥ありと気付いたのか。

 

逃げることさえ許されない、腐敗すれば身の破滅まで一直線かつ権力の座から退くことは自己の死まで一直線のシステムは、功績の大きな人だったからという「でも」も「だって」も許さない。

 

どんな善人でも状況次第では善人でいられないことがわかっていたら、そそも人の善性をアテにしたシステムに頼ることもない。

 

人も法もどこまでいっても不完全なら、人の情より法に裁かれる方が百倍マシと考える人は、そもそも他人に期待なんかしない。

 

春まで特にめぼしいイベントもない大通公園は、自然に雪が融けるのをただ待っている。イベントがなければ、この状態に不便を感じることもなし。

 

雪が解けて凍って路面がアイスバーンになっての繰り返しだから、局所的に路面はツルッツルで滑りやすい。

 

荷物が重たくなってしまった時は気軽にタクシーを使いたいものだけど、「近くで申し訳ないんですが」と遠慮しつつ使うのもなんだし。。と、結局は自力でどうにかしてる。

 

何人かで会食した時に、お皿に残った誰も手を伸ばさない最後のひと口ぶんを「遠慮のかたまり」とか言ったりするけれど、人より多く取ってはいけない、得してはいけないという気持ちの表れっぽくてなんだか日本人らしい。

 

遠慮なく毎回「遠慮のかたまり」に手を出すと、「あの人は口が汚い」とか言われそうなところまで含めて日本人っぽい現象。

 

相手がおんな子供、あるいは無力な老人と見るや途端に横柄になる人は一定数いるもので、「近くて申し訳ないんですが」「些細なことで申し訳ないんですが」のフレーズは、横柄な人から身を守るおまじないのようなもの。

 

でもさ、そもそもなんで遠慮しなきゃならんのよ。遠慮するくらいなら使わないわ。という気持ちを軟化してくれるのが、無人タクシー。近距離で大した金額にもならないと知ってるからこそ、気を遣う相手も居ない方がラク。

 

人が足りないとわかっている、大したお金にもならないと知っているからといって、いつでも自力で何とかできる人は、結局は強者。強者ではなくても何とかしたかったら、ツールを使えばよくて、ツールさえあればという弱者の数が、それなりに多い都市向けの解決法。

 

弱者は群れて無理を通せというのは、とってもスマートじゃない。そんなことはしたくない人は、いつだって人じゃなくてシステムに向かうんだよな。

 

悪いものに魂がないのは、魂食べられちゃったからでしょ。魂を抜かれた人型(ヒトガタ)と巡り合う機会は、できれば極小に抑えたいもの。

 

お休みなさーい。