クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

競技のルール

なぜこの場所にこんな人が?と思う、カッコいいだけでなく豊かそうで、余裕たっぷりだから礼儀正しく腰の低い、ステキ欧米系外国人個人観光客を見掛ける平日真っ昼間のデパ地下。

 

富裕層をターゲットとしたインバウンド観光に、札幌市は予算たっぷり使ってくれても全然かまわないと思ったね。

 

オリンピック女子フィギュアスケートの女王様が決定する日。最終滑走グループが滑り始める前に家を出るはずが、始まってしまったらやっぱり見てしまう。録画してるのに、つい見ちゃう。

 

実力が拮抗する上位グループに、自己ベスト更新で波に乗りそうな上位グループを追う勢と。大番狂わせを期待するも、結果は順当。赤いチュチュ着たザギトワが金メダル。最終滑走者メドベージェワの得点にブーイングの声が上がる観客席の反応は、判官びいきも含めて観客のハートを掴んだのはメドベージェワだったということかもね。

 

競技だから、やっぱり最後は技術点がものを言うけれど、情感たっぷりに見る人の情動を大きく揺さぶってくる演技の方が、記憶に残りやすい。

 

そもそもフィギュアスケートが人気なのは、情動を揺さぶる情感込みの競技だからで、もしもフィギュアから音楽が消え、情感を伴った演技が消えたら今のような人気を保てるのだろうかと時々思う。

 

技術という絶対評価と、演技構成点による美しさという相対評価がひとつの競技の中に混然一体となって存在することで、「完全勝利」のハードルを次から次へと上げていけるところが競技の魅力。

 

赤いチュチュ着て、跳ねて飛んで。若くて溌溂として元気いっぱいね。でも、情感面ではメドベージェワと拮抗してるから、メドベージェワの情感面がもっと評価されていれば、逆転もあったかもねと「たられば」の話は尽きることがない。

 

情感という表現を語る上で絶対はないから、そこに作為、あるいは操作の余地を勝手にみつけることができる。

 

こんな競技があったら面白いなと、勝手にフィギュアスケートの未来のカタチを想像する。

 

自己の否定は進化への第一歩とか言うらしいから、フィギュアスケートからまず音楽を消してみる。音楽なしで、規定時間内にどれだけ多くのジャンプを飛べるか勝負。三回転、あるいは四回転に二回転と、単純に成功したジャンプの回転数を足していって、数の多いもの勝ち。

 

回転数が同じだったら、より難易度の高いジャンプを飛んだ方が勝ちで、フィギュアスケートの技術面に振り切った競技。絶対評価しか存在しないから、操作の余地あるいは作為の入り込む余地もなし。という競技には、一定数の支持がありそうなもんだけど、どうなんでしょ。

 

とはいえフィギュアスケートの魅力は、情感たっぷりに魅せる表現力にこそアリ。という人の方がきっと多数で、だからアイスショーには大勢のファンが押し掛ける。フィギュアスケートから音楽が消え、情感も消えたその先には、“それもうヒトがやることないじゃん”という次元がきっと待っている。フィギュアスケートのような競技ではまだまだ先だけど。

 

でも、より早くやより強くといった、わかりやすい指標に振り切り最速や最強が総取りできる競技世界が来たら、そのためには人体改造も厭わない人種はきっと出てくるに違いない。と、勝手に思ってる。

 

近未来にはオリンピックとパラリンピックの垣根さえ取っ払われ、最強と最速だけをひたすら追及する競技さえ誕生するかもしれないけれど、なかばサイボーグ化した人間と生身の人間がぶつかり合う、「万人の万人に対する闘争」が実現した無階級社会って、おっかないでしょ。

 

階級は、各競技や競技者を守るために設けられたもの。

 

強いものと対戦したくない時には、階級を越えて弱きものを対戦相手に選ぶ。そんな戦術は、階級のある競技では外道だから、外道は外道にふさわしい末路を辿るんでしょ。弱いものいじめが骨の髄まで染みついた人が、いかにもやりそうなことよね。

 

お休みなさーい。