クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

愛情と敬意>好奇心

誰もが表現できる時代だからこそ「個」の気配が消えた、長文であっても読みやすく、個性らしい個性が感じられないことが逆に個性になっている。そんな文章に、価値があるように思える今日この頃。

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煮りんごのケーキ。

自分で書くものは、到底そのレベルには達しないんだけどさ。

 

イヴ・サンローランの生涯をテーマにした、ドキュメンタリーと伝記風な二種類の映画を見たことがある。対象として取り上げる人物への愛情と敬意が、好奇心に勝っているかどうかで、見終わった後の印象もずいぶん異なるものだと思った。

 

愛情と敬意に勝っていれば、対象となった人物も好ましく思え、好奇心に勝った好奇の視線が強ければ、好ましからざる人物としての印象が強くなる。

 

描く人によって描かれる人物の印象は、よくも悪くもどうとでもなるんだよな。

 

だから多面で複雑な内面を持つ人を、一方向から見た「赤の他人」によるプレゼンテーションを鵜呑みにして、簡単に評価しちゃいかんいかん。ということで、堤清二氏に関する二冊目の本『叙情と闘争 辻井喬堤清二回顧録』を消化中。

 

先に読んだ『堤清二 罪と業 最後の「告白」』に比べれば、とっても読み進めにくい。1ページあたりの情報量が二倍くらい濃いから、読むスピードもそれだけ遅くなる。

 

堤康次郎という、西武グループの創業者にして衆議院議長まで務めた政治家の父を持ち、学生時代は共産党員として活動、卒業後は経営者にして文学者だからな、堤清二氏。

 

政界・財界に文芸界隈と、交友のあった人物や界隈が多彩で多岐。しかも世に知られた著名な人物ばっかりで、個人史がそのまんま昭和史に直結しそうな勢い。コネがあったとはいえ、マッカーサーアイゼンハワーにまで会ってるって言うんだから、そりゃすごい。

 

勢いのあるニューリッチの前には、次から次へと各界の扉が開くものなのかと、錯覚する。癖のある人物だったとはいえ、大物政治家の息子ならではと言うべきか。

 

最初は読み難くて生硬だった文章も、章を追うごとにどんどん読みやすくなってゆき、鬱陶しそう面倒くさそうな人という印象も、薄れていく。むしろ、冷製で理知的な面が露わになっていく。

 

面白かったのは、不仲と噂されていた義弟にして西武鉄道グループオーナーの堤義明氏に対しては、悪感情を隠してなかったところ。仲が悪いのは伝聞にしか過ぎないのかな?と思っていたけれど、不仲説には根拠があったらしい。

 

2009年にハードカバー発行、その後2012年に文庫化と、決して昔々に書かれたものではないにもかかわらず、時が癒し薬にならずに兄弟は不仲なままだった。2005年の証券取引法違反による義明氏の逮捕が、不仲を決定づけたのか。金持ち喧嘩せずとか言うけれど、喧嘩する人は喧嘩してる。

 

ともに経営の一線からは退いているから、遠慮もないのか。感情的な振舞いを、メディアに残すことにためらいもないあたり、やっぱり今時の経営者とは、ちと違ってる。

 

堤清二は、阪急創始者である小林一三に、同じ電鉄系デパート経営者として関心があったのか、この回顧録でもわざわざ章を割いて、思い出や彼について思うことを語ってる。

 

そのくだりが、『堤清二 罪と業 最後の「告白」』で小林一三についてのインタビュアーとの問答とはちと趣が異なり、どちらが彼、堤清二氏の本音なのかわからなくなる。

 

言葉の力を熟知した明晰な人が、不用意に不用意な発言を記録に残すとは思えないから、過去の発言を言質に取られての狼狽かなと解釈しとこ。本当のことなんて、本人談による映像メディアでもない限り、確かめようがないんだから。

 

ところでホロコーストで生き残った証人の発言を、AIに記憶させるプロジェクトを最近見た。

 

解釈や編集で恣意的に歪められ、本人の望まない不用意な発言でもって後世に記録されたらたまらんからな。

 

後世に名を残すつもりで歪められた発言が世に流布するのを望まない人は、積極的に動画メディアで「これこそが俺・私の言葉で考えたことなの!」というのを、記録に残した方がいいんじゃないすかね。

 

筆が立ったゆえに文章の力に頼りすぎ、過去の発言が未来を縛って望まない人物像が世に流布したら、ただ不幸よなと思うばかり。

 

声の大きな人に頼るだけでなく、いろんな人の意見を聞いた方が、多面な人の複雑な内面には迫れるのかも。取材対象者に対する媚を極力排したら、対象者に対する悪感情こそがすっかり露わになることもあるんだから。

 

お休みなさーい。