クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ただの日記

党規約にその名前が盛り込まれたことで、毛沢東・鄧小平に並ぶ「偉人」と認められたことになるんだってさ。一方では、国のために戦って死んだのに、その名前も覚えていなかったと、お悔やみの電話をかけてきた大統領に涙ながらに訴える人がおり。たかが名前、されど名前で悲喜こもごも。

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汚職で数千人規模の大粛清を行ったら、そりゃむやみに他人を信用できるはずもなし。気心の知れた人のみで周囲を固めるのは、それだけ「知らない人」を警戒してることの裏返し。信じてた人に裏切られた経験も、一度や二度ではきかないのかも。

 

そういえばブロックチェーンは、信用を前提としないシステムがウリだったような。

 

信頼に値する人かどうかを審査するコスト、意外とバカにならないから、信用しなくてもいいシステムは、誰も信用できない人にとって使い勝手もよさげ。考えてみればそれも、“ナッジ“の一種かも。

 

転がり落ちる恐怖に晒されている人の声はでかく、心身ともに弱っていると、何かとつけ込まれやすいんだってさ。くわばらくわばら。

 

電子書籍リーダーは、読みながらメモできたり、マーカー引けたりする点が気に入ってる。見返す時に便利だから。同時にその便利機能のおかげで「脳みそに一言一句刻み込まれる」ような作用は期待できなくて、ツールに引っ張られる形で、経験値も薄くなっていく。

 

それ他力本願過ぎと言われたら、返す言葉もないんだけどさ。

 

たまに階段を上り下りするだけで息切れするくらいだから、山とかまったく縁がないんだけど、山籠もりしたくなるのは集中力を高めたい時。

 

物理的に他の情報がまったく目に入らない状態だったら、目の前の対象に没頭できるし集中できる。

 

以前に比べたら格段に何でも便利になって、その便利さをある程度享受もしているけれど、その代わり失ったのは、静けさ。便利さと引き換えに騒々しさを引き受けなきゃならないんだったら、多少不便でもいいやと思う今日この頃。

 

人身御供に人柱。日本だけでなく多分世界のどこにでも、天災を鎮めるためやその土地の安寧を祈願して、儀式に名を借りた殺人が行われてきたもの。

 

数十年に渡って行われて来た、知る人ぞ知る犯罪が、表沙汰にならずにすんできたのは、儀式、あるいは通過儀礼ととらえられてきたからで、犯罪として糾弾されるようになったのは、そこにはもう”神様”なんていやしないと、バレちゃったから。かもね。

 

お休みなさーい。