64歳にして、起立したままで3時間半ぶっ続けで演説する気力・体力がないと、権力者にもなれんということで。大学の講義でいえば、2コマぶっ続け。トイレ休憩くらい欲しいところだけど、どうなんすかね。居眠りどころかあくびさえ無理っぽい権力空間だったら、話す方も聞く方も、そりゃ真剣勝負にもなりますわ。
不正追及中のジャーナリスト殺害に、月の地下に巨大な空洞発見に。
どちらも、映画とかドラマとか小説とかコミックとかフィクションの世界ではお馴染み。それム―で百万回見た奴や(そんなわけねぇ)、あるいはゴルゴ13で出てきたらワンパターンとシラケる奴やと思うと、驚きもせず。
フィクションの世界ではお馴染みのこと、ほんとにやっちゃう、あるいは発見されちゃうなんて、どうゆうこと???と、戸惑いしか感じない。
重大な発見も重大犯罪も、すべてが軽くなってゆく。
たぶんフィクションとの接点がさほどでもない国や世代と、ありまくる国と世代では、受け止め方にも違いがあって、事態の深刻さや重大性に、より敏感になれるのはフィクションよりノンフィクションに比重が傾いている方。
虚実の区別がつかない、あるいはわざとボーダーを踏み越えてくる“あっち側の人”にとって、事実、ノンフィクションはより軽い。
事実をより軽く扱う人に、重厚なフィクションなんて、扱えるわけがない。事実の重さ、深刻さを骨身に染みるまで思い知らされない限り、わかるはずがない。
Me Tooの#つけてのセクハラ狩りがはやりだけど、「パーティー」に招かれたあと”いい思い”をした人、例えばいい役柄をもらうようになった人に対して、掌を返すなら今だよとけしかけてるようにも見えて、なんだかなぁという感想。
掌返したのを見届けたあとでまた、あいつは掌返す奴で信用ならねぇと、何らかの選別に使いそうだから、ショービジネスの世界はどこまでいってもおっかねぇ。
ハリウッドでレッドパージの嵐が吹き荒れた時は、密告せよ、さもなくば有罪に問うという方式だったはず。#つけての告白は、ある意味密告をそそのかしてるようで、そこは素直に感じ悪い。
目的が何であれ、見知らぬ人と一緒に拳振り上げたり、振り上げさせようとするのは、とにかく好きじゃない。
運動、アクティビストとして活動、活躍したかったんでしょ。という感想。
旧弊な慣行が支配する業界にも、自浄作用がきかない業界にも、人生賭けてもしょうがないから、優秀な人から逃げていく。
広い目で見れば、リクルーティング活動の一環みたいなもの。
中世の魔女狩りは、合法的(かどうかはともかく)な財産没収手段でもあって、だから冤罪であっても魔女が盛んに狩られたとか。
現代の魔女狩りで狩られるのはセクハラ男で、没収されるのは影響力とかその他既得権。持てる人ほど、おちおちしてらんないね。
お休みなさーい。