クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

クズにはクズなりの理由がある『ラリー・フリント』見た

PLAYBOYの創刊者ヒュー・ヘフナー死去のニュースに、そういや彼を主役にした映画があったよな。。とAmazonを探してみたところ、ハスラーの創刊者ラリー・フリントと勘違いしてたことが判明。

ハスラーは劣情をウリにする下品な雑誌

PLAYBOYハスラーの紙面の違いや読者層の違いなんてそもそも知らないけど、映画『ラリー・フリント』を見れば、よくわかる。

 

PLAYBOYに出てくる女性は、成功者あるいはお金持ち男性のマスコット的存在で、だから女性目線で見てもかわいいあるいはきれいに見える。それに対してハスラーに出てくる女性は、年収の低い男性の劣情を煽る存在で、女性目線で見ると下品。

 

ハスラーの創刊者であるラリー・フリントのセリフとして、年収2万ドル以下の男性の欲望に合わせるとあったので、狙っての路線だったことは間違いなし。

 

劣情を煽る存在とはいえ、後にラリー・フリントと結婚するアルシア役のコートニー・ラブが、とにかくかわいくてキュート。下品でいかにもアバズレなんだけど、遠くから見るだけだったら(つまり関係者として振り回されるほど近しい関係でなければ)魅力たっぷり。

 

ちなみに、表現の自由にもマイノリティの権利向上にも興味関心に乏しく、その手の運動を一緒にやりましょうよと寄ってくる人が居たら、塩蒔いてあっち行けと怒鳴りつけるタイプの人による感想です。

 

ベビーブーマーが彼らに富をもたらした

赤貧と言っていい、ラリー・フリントとその弟の貧しい少年時代から映画はスタートする。時代は第二次大戦後間もなくのアメリカで、1942年生まれのラリー・フリントは、ベビーブーマー世代のちょっと前。弟のジミーは1948年生まれだから、ばっちりベビーブーマー世代。

 

成長した彼ら兄弟は、女性の裸を見世物にするストリップバーを経営するようになる。映画の前半はわりといかがわしい&しかも美しくともなんともない感じで辟易。いかがわしくて、お金になる商売が彼らの原点で、高尚な哲学も何もなかったところがポイントさ。

 

高尚なことがしたくて、売上が上がらないから女性のヌードに手を出したわけでは全然ない。最初から彼らは下劣。

 

その地域では、初めて出来たいかがわしいお店。地域の風紀を乱すと反対運動が当然起こるけど、ラリーは気にもせず。

 

さらなる営業拡大を目指し、お店で働く女性のブロマイド誌を作り、『PLAYBOY』にインスパイアされて、劣化コピーかつ下品度200%増しな『ハスラー』の創刊を思いつく。

 

写真だけ載せるつもりが法律の壁に阻まれて、文章がないと雑誌にはならないと知って、見よう見真似で自分たちで文章も書くようになる。最初はすべて手作り。

 

アメリカが豊かになり、労働者が自分たち目線の雑誌を欲しがっていた頃。『ハスラー』は面白いように売れ、ラリーは大金持ちとなる。

 

劣情やゴシップは売れると確信し、その路線を突き進んだことがラリーの成功の源。

 

オールドメディアから見れば噴飯もののキュレーションメディアにまとめサイト、近頃だとフェイクニュースサイトがそれでも大儲けしたことを思えば、ラリーあるいは『ハスラー』は、その路線の開拓者かも。かもかも。

 

最初の大儲けのきっかけが、ジャクリーン・オナシス・ケネディのヌードだからな。嫌われるさ、そりゃ。

 

ヌードを扱うと、「産めよ増やせよ」が寄ってくる

劣情とゴシップで財を築くものは、いつだって良識派からは目の敵にされるように、ラリーも徹底的に、目の敵にされる。

 

いかがわしいものを公衆の場で売るなと非難されるけれど、いかがわしいものを求めるのは大衆だとばかりに、闘志満々。

 

出版の自由のために闘う人っぽい扱いになって、悪目立ちするようになると、思いがけない人が寄ってくるんだけど、これがなんと宗教。ジミー・カーター大統領の妹で、著名なキリスト教伝道者ルースがラリーに接近し、ともに神への道を歩きましょうとラリーをたぶらかすからアリシア、顎が外れそう。

 

ラリーに宗教家が接近するのは、ラリーが「産めよ増やせよ」を肯定してるから。本人にそこまでの意図はなくても、行為の結果はそういうことで、「産めよ増やせよ」の広告塔が居るなら、乗るしかないこのビッグウェーブに!!!って感じじゃない?

 

普通の人は慎ましくておとなしいから、そんなこと言わないもの。ついでに『ハスラー』のターゲット層もまさに布教対象にぴったりで、数の拡大を目指す人にとっては魅力的。

 

ラリーたちは儲けたかった。それもがめつく面白おかしく。そこに変な奴が乗っかってきたんだから、アリシアが不快になるのも当然。

 

伝道者ルースの影響で、一瞬品行方正になるラリーだけど、転機が訪れる。

 

銃撃事件がラリーの転機

いつものように法廷に呼ばれ、裁判所を出たところで、彼の弁護士ともども銃撃される。銃撃犯について、映画では深くその身元も思想的背景も追求することはないけれど、撃ったのは「産めよ増やせよ」とは関係なさげな男性。

 

お金にも女性にも不自由しない男性とは、対極にありそうな感じで察して下さい。

 

とにかくこの銃撃事件がラリーの人生の転機となり、映画もここでその趣を変え、面白おかしく大金を稼いでいたビジネスマンが、違う人になっていく。アリシアを道連れに。

 

銃撃により半身不随となり、「産めよ増やせよ」とも無縁となり、疼痛から逃れるために薬物依存となったラリー。

 

要塞のようなビバリーヒルズの豪邸のなかで、より薬物の悪影響を受けたのはアリシアの方。法廷で奇行を繰り返し、権威に喧嘩を売ることで生き甲斐を得たように見えるラリーと違い、アリシアには何もない。

 

ラリーの会社は順調に大きくなり、かつては一緒にバカをやっていた創業者メンバー達も、もはや立派なビジネスマン。

 

製品である『ハスラー』は、やっぱりバカと劣情がウリだけど、そこにはもう権威に喧嘩を売るような、かつての勢いはない。会社にとって、現在の彼らにとって、リスクになることは避けたがり、その態度がラリーやアリシアとの間に溝を作る。

 

ラリー、合衆国憲法修正第1条の伝道者となる

会社では孤独となるラリーだけど、法廷で奇行を繰り返し、権威に喧嘩を売る彼にはまた新たな支援者、あるいは共闘者が現れる。いかがわしいものを公衆の場で売るなという権威に対し、合衆国憲法修正第1条を持ち出すラリーの味方となるのはNYTなどのクオリティペーパー。

 

言論または報道の自由を守ると言うことは、どんなクズにだって発言と報道の自由があるということで、クズ中のクズっぽく見えるラリーが発言すると、効果も抜群。

 

奇行を繰り返し、いかがわしい商売で財をなした貧しい生まれの彼は、これ以上ないほどクズっぽい。その彼が、俺に発言させろと迫るんだから、言論または報道の自由を守る、これ以上ないほどの逸材だわな。

 

教養もあれば、往々にしてハイクラス出身のNYTに代表される知識人は、言論または報道の自由を守る大切さは知っていても、クズからはほど遠い。

 

クズじゃない人が、クズにだって発言の権利があるとどれほど言ったところで、説得力に欠ければ、“発言する機会にさえ恵まれないクズ“というクラスタの、支持も得られない。

 

言論または報道の自由に、知識人あるいはハイクラス層は、ただでさえ近くに居る。

 

近くに居るから独占もしやすく、クズに言論または報道の自由を開放すべきでないという考え方にも陥りやすくなる。ハイクラスの人ほど排除の気配にも敏感で、だから彼らはクズを自認する人が、“我はクズでございます”発言を歓迎する。というより義務として擁護する。

 

ラリーのように奇行を繰り返し、“我はクズでございます”と自身の立場を明らかにして、それでもクズな発言を繰り返せる人が、言論または報道の自由に携わる人の中に一体何人居るのか。そんなに居るわけねぇ。

 

お金もらってクズ役を演じる人は居ても、正真正銘クズであり続けることは、普通は無理。

 

昔は一緒にバカをやっていたラリーの会社の創業メンバーたちも、大人になって、もうバカなことはしない。

 

最初は見よう見真似でやっていたことも、そのうち習熟して上達するから、もうクズではいられない。いつまでもクズな人が居ると、何やってんだと発言や報道の自由を習熟者に限ると取り上げようとする。何を言ったかより誰が言ったかで、「誰」に権威がなければ聞く価値もなしとかすぐ言うじゃない。

 

ほら、言論または報道の自由って、とっても脆いでしょ?

 

最も脆弱なところから弱っていくから、クズを自認する人が、“我はクズでございます”と声高らかに発言できる場所は、言論または報道の自由をもっとも重く考える人によって守られる。

 

クズ役じゃダメなのよ。説得力に欠けるから。はした金目当てにクズ役を演じる人が出てくると、劣化に拍車がかかるから、とっとと放り出さないと。

 

ラリーよりクズなのは、実はアリシアの方

クズ中のクズを体現するラリーだけど、実はもっとクズなのは、アリシアの方。

 

ラリーが疼痛から逃れるために薬物に依存し、その余波で一緒にいたアリシアの方が重い薬物中毒になってしまい、ついにはエイズを発症する。

 

法廷に立つラリーには、一定の人の目が注がれるけれど、アリシアのことは誰も見ない。誰もアリシアの言葉を聞かない。汚いものとして、避けている。

 

長年ラリーの弁護士を務め、一緒に銃撃された不運な弁護士ジーンは、ラリーの奇行に嫌気がさして弁護を放り出すけれど、アリシアの頼みをきいて、ラリーの弁護人を再び務めるようになる。

 

ジーンは、病み衰えたアリシアにも以前と変わらぬ態度で接する懐の深い人。アリシアの目を見て話し、ちゃんと彼女の言葉にも耳を傾ける、彼女に触れることも厭わない。

 

創業者でもあるアリシアに、冷たく接するラリーの会社の人たちとは大違い。

 

そもそもお金儲けが出発点で、時代の波に乗って大きくなった彼らには、言論や報道の自由を守るという意識は希薄か、そもそもなさげ。それなのに会社だけは大きくなっちゃって、言論や報道というシステムの中にしっかり組み込まれてる。そこが、すごーく皮肉。

 

守る気もサラサラなさげな人たちだから、言論や報道の自由にも、ただし○○に限ると制限つけそうな未来が容易に想像でき、そうなったら次はプレスリリース垂れ流し機関へとまっしぐらだってことでしょ。

 

アリシアを演じるコートニー・ラブ、今何してるのかと検索したら、相変わらず「お騒がせ女優」の異名付きで、ゴシップネタになっていた。

 

この映画でいちばんすごいのはコートニー・ラブ

 

本来はキュートでかわいい人なのに、映画後半になると「化け物」。化け物を演じることで、彼女は一生クズの側に立つと、スティグマを背負ったようなもの。この映画での演技がすごかったから、演技派女優をめざしてもいいところ、そんな道は選んでないところがやっぱりクズ。だからいい。

 

ラリーのアリシアに対する愛情が、性愛を越えて最後には父性にまで転じちゃっていて、思わぬ巻き添えで不幸にした、彼女への愛情の深さが感じられて、そこは切なさいっぱい。

 

ラリーがクズの中のクズとして自覚的に振る舞うようになったのも、どう考えてもアリシアのためとしか思えない。アリシアという対象者が目の前に居るからこそ、クズの中のクズであるラリーの言葉にも、重みと凄みが加わっている。

 

女性のヌードを商品として扱う同業者であるPLAYBOYの創刊者ヒュー・ヘフナーは、同時代を生きてるはずなんだけど。もちろんこの映画の中では影もカタチもなし。

 

同時代に生きる同業者であっても、「お前(=ラリー)とは違う」ということなのか。下しか見なかった人も居れば上しか見なかった人も居るということかも知れず、同時代を生きた別視点の人。という観点で、ヒュー・ヘフナーの伝記作品も見たくなった。