クローズドなつもりのオープン・ノート

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失敗から学べることは多い『古文書返却の旅』読んだ

『古文書返却の旅 戦後史学史の一齣』という、タイトルからして取っつきにくさ満点。ちなみに、“一齣”の読み方がわからなくてグーグルさんに聞いた。“ひとこま”と読むらしい(帯にはしっかりルビが振ってあった)

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)

 

 取っつきにくいタイトルながら、その中身は「借りパチ」*1したものを、頭下げながら返しに行った旅の記録で、いわば失敗を振り返ったもの。

 

借りたのは、第二次大戦後すぐの混乱期。すぐに返しにいくつもりが手違いの連続で、無事所有者の手許に戻るまで、実に30年以上もの月日が流れた。中には怒れる所有者から、返せと督促も受けたものの、資料の所在不明などが理由で、すぐには返せなかったものも多し。

 

集められたのは、未調査のまま日本全国の旧家に眠っていた古文書。その数、なんと百万点以上。収集の目的は、漁業制度改革の幅広い資料とするためで、主に漁村から集められた。

 

著者は、歴史研究者の網野善彦氏。

 

実際に古文書収集に携わり、収集した文書を管理保管する組織に勤務し、文書とともに組織を異動、文書の返却作業にも携わり、全文書返却の目途がついたところで退官(大学教員)を迎えた人物。

 

著者の職業人生そのものが、預かった古文書と重なり続けるため、時に「自分語り」も交えながら、当時の空気にも触れられる趣向になってる。細かい日付が随所に見られ、研究者らしい几帳面さが顔を出す。

 

組織の一員として、無謀で完成図の見えない事業に駆り出され、資金の枯渇で頓挫した計画を引き継ぎ、振り回されながら、あるべき場所にそれぞれの文書を返そうと個人的に努力した記録。

 

四半世紀近く経ってから、「お宅の家宝とも言える、大事なものを借りっぱなしでどーもすいませんでした!」と全国に頭下げて回る作業を引き受けたことにもなるわけで、どう考えても愉快ではない作業。

 

愉快ではない作業のはずなのに、恨み言は少なく、何十年ぶりかで返しに行ったら逆に大喜びされたとポジティブ。突き抜けるような楽天性は、研究者に必須なもの。愉快ではない作業と自覚しつつ、それでも古文書返却という再訪の旅から新たな発見を得たりと、ほんとポジティブ。

 

最初の旅ではただ物珍しいだけだった史跡も、著者の学識が深まった後に見ると、新たな解釈が引き出され、新たな解釈をきっかけにまた知られざる歴史にのめり込んでいくさまが、目に見えるようだった。

 

訪れた場所、エリアごとに章が分かれているので、その地で何を学んだかが、すぐにわかるようになっている。

 

例えば霞ヶ浦

 

湖の民には湖の民のための自主ルールがあり、その自主ルールが湖と田畑に代表される陸地のルールに押され、再訪時にはルールとともに往時の勢いも無くなっていた。太平洋・瀬戸内海といった、海の民のルーツにつながる来歴も同時に失われ、今は文書にその名残をとどめるだけ。

 

例えば奥能登

 

不便なこともあって(当時)、東京からは遠い辺境の地。流刑地という来歴も、辺鄙な土地という印象を強くするけれど、実際には豪農も居た豊かな土地。しかもその豪農は自前で船を持ち、日本海交易にも携わっていたリッチマン。

 

その史実から、さらにもう一歩進み、領内で水呑と差別的に扱われていた貧しいはずの貧農の、別の姿が浮かび上がる。

 

土地を持たないから、水呑=貧しいのではなく、職人や船員など他の職と掛け持ちしていて豊かだったから、土地を持つ必要さえなかったという逆転の発想に、著者は大いに興奮。

 

今風に言えばノマドワーカーで、技能を売れば職になり、職に困らないから、土地に縛られることもなかったと聞けば、現代でもそれなりに納得感がある。ノマドワーカーの原型は、江戸時代、それも能登という東京から離れた土地にすでにあったと聞けば、きっと著者とは別の意味で感慨深い。

 

江戸時代といえば年貢制で、米や米の代わりになる作物が作れなかったら、貧窮にあえいでいたかのようなイメージも誤りで、現代よりももっと土地の来歴に合った交易で、現在の姿からは想像もつかないほど豊かな世界が広がっていたのかも。と、想像が広がる。

 

主に漁村に伝わっていた古文書を収集していたから、著者が訪れるのは海辺や水辺のまち。

 

海辺や水辺のまちは、海、海の先にある異国にまで通じていて、鎖国していたはずの時代からも、外国製の古銭が見つかる。

 

サハリンや清、あるいは北海道まで船を出し、交易で富を築いていた歴史が、しっかりと文書に納められていた。

 

大河ドラマのファンではなく、流行りのエンタメも食い合わせが悪くてスルーしている。なので検証はできないけれど、“今そこにある“エンタメに、実はどの程度「それ昔っから伝わってる奴やん」と言われるようなエピソードが含まれてるのか、知らない。

 

知らないけれど、今度はアニメにもなるらしい『ゴールデンカムイ』にも、きっとその土地に詳しい人しか知らない、伝わってないような歴史が含まれている。

 

戦後に始まり三十年余りを経て返却の旅を終えるあいだに、著者が旅したような今はマイナーな場所も、時にはテレビの番組に登場し、大衆の前に姿を変えて登場する。

 

そのままでは埋もれてしまうだけの、けれど確かにあった、その土地の来歴。記録さえ残しておけば、姿を変えても次世代に伝えることはできる。

 

どこに伝わっていたものなのか。

 

来歴を探る時には場所が何よりも重要で、一度移動してしまうと来歴が追えず、散逸、最悪の場合には紛失してしまう。

 

「借りパチ」したものを返しに来る人はマレで、マレ人(びと)だからこそ、著者は各地で歓待された。

 

誰かが掘り起こさないと埋もれたままだったはずの、漁村経済の一面を伝える文書の数々とその謎解きは、今では寂れてるような場所の別の面を掘り起こす。

 

良くも悪くも長い歴史のある日本では、来歴のない土地、まっさらな場所を探す方が難しい。

 

今はさびれているような場所も、もっとも栄えていた昔に戻り、当時の来歴に忠実に交易に乗り出せば、あるいはかつての賑わいが取り戻せるのかも。

 

取り上げられていた場所、文書採集のために訪れたまちは、どこも東京からは遠い。

 

中央である東京が押し付けてくる、「お前んとこはこういうイメージで」に多少抗って、勝手にしたところで、どうせすぐにはわかりゃしない土地ばかり。

 

だったら、自分たちの土地がもっとも栄えた頃の自分たちの姿に、戻ってみてもいいんじゃない?と思えたことがいちばんの収穫。

 

失われたものは二度と戻らない。だから、無くさないよう、伝えていかなきゃならないんでしょ。

 

著者と同じく、日本常民文化研究所に勤務し、同じく古文書収集にも携わった民俗学者の本。この人も、失敗から学んだねという、タイトルが秀逸。手に入りにくそうだけど、読んでみたくなる。

調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本

調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本

 

 お休みなさーい。

*1:人から借りたものを返さずに自分のものにすること。もしかして方言?