クローズドなつもりのオープン・ノート

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先進国と新興国が直接つながることで起きた悲劇『汚れたミルク あるセールスマンの告発』見てきた

世界一の巨大企業、言わば巨人を相手に闘うことになった末端のセールスマンを描いた『汚れたミルク あるセールスマンの告発』見てきた。

 

ノー・マンズ・ランド』のダニス・タノヴィッチ監督による、実話をベースにした幻の問題作。先進国と新興国が直接つながることで起きる問題を、問題のまま提示してるから問題作。たかが90分のフィクションで、複雑な問題にすっきりした解が出るわけないじゃん。

 

という態度で鑑賞すると、過度の期待も裏切られません。

 

どうすればよかったのか。という思考実験が好きな人なら、楽しめるかも。

 

あらすじ

パキスタンの製薬会社勤務のアヤンは、美しい妻と結婚したばかり。その妻の勧めにより、世界最大のグローバル企業の営業職に応募し、水準には達しないもののやる気を買われて採用される。

 

アヤンが売るのは赤ん坊のための粉ミルク。

 

営業職が天職のようなアヤンは、努力の甲斐もあってトップセールスマンへと成長する。ところが旧知の医師より、不衛生な水に溶かして粉ミルクを飲んだ乳幼児が、多数死亡していることを聞かされる。その事実に愕然としたアヤンは職を辞し、事実を知りながらも販売を続けている企業を告発しようとする。

 

アヤンの人生を知らずにこの物語は語れない

主役であるアヤンを演じるイムラン・ハシュミは、ボリウッド映画界で最も高額なギャラを受け取っているスターだけあって、ハンサム。カッコいい。

 

ハンサムで向上心があって勤勉な男性が、美しい妻を迎えたところからアヤンの物語がスタートする。

 

アヤンの物語を見守るのは、アヤンの告発を映画化しようするドイツ人のスタッフたち。彼がグローバル企業と関わることとなった、そもそもの経緯を経て、まずはアヤンがいかに優秀なセールスマンかが語られる。

 

優秀なセールスマンが、売って売って売りまくったから、被害を受けた乳幼児の数も増えてしまった。アヤンは問題を大きくした張本人でもあって、恐らくは罪悪感から職を辞して、世界最大企業を訴えようとする。

 

が、相手は世界最大企業だけあって抜かりない。

 

まずは元上司のビラルが立ちはだかり、アヤンの手落ちを指摘されてしまう。相手は世界最大企業だから、コンプライアンス対策はバッチリで、恐らくアヤンは“コンプライアンス”なんて聞いたこともないタイプ。

 

ここ、先進国と新興国が直接つながることで起きる問題その1。

 

中途採用のローカルスタッフに、本国の幹部候補生並みの教育が行われていない。行われるはずもない。ペーパーだけ渡されて、自分で勉強してね!の自己責任制。でもさ、いざ問題が発生したら、本国の本社基準で一律に処分されるんでしょ?

 

グローバル企業だから、ルールブックは世界共通。そして売上、成果に厳しいのも世界共通。報酬や待遇とのトレードオフで、成果が求められる。そしてヤンの元上司ビラルは、アヤンの無知、あるいは無邪気さにつけ込んでくる悪擦れした人。

 

結婚後も両親の家に住むアヤンは、近隣の人との関係も良好で、家族や地域に愛されて育った人。だから自分たちに連なる人、同胞に、害を及ぼそうなんて考えもしない。

 

前半でいっちゃん好きなのは、就職試験を控えたアヤンのために、家族や親戚あるいは近隣の人が寄ってたかって、彼をステキビジネスマンに見えるよう改造するところ。改造といったって、スーツ貸したり靴貸したりするだけなんだけどさ。でも、アヤンが家族や地域から、大切にされてきたことがよくわかるシーン。邪気なんて、持ちようもない。

 

存分に愛情を注がれて育った人だから同胞への愛も強く、その反動で、同胞に害を為す不正義が許せない。世界最大企業を告発しようとするアヤンは、執拗な嫌がらせを受けて時には家族や自身にも身の危険が及ぶけれど、それでも告発を諦めない。

 

PL(製造物責任)か公衆衛生か

アヤンは世界最大企業を告発しようとするけれど、製品そのものには瑕疵がない。それどころか優良品で、正しい使い方、衛生的な水に溶かしてさえ使えば、きっと粉ミルクそのものは栄養満点。

 

PL(製造物責任)で罪に問うのは、筋が悪いんだ。製品そのものには、問題がないのだから。問題は売り方。

 

グローバル企業がローカルスタッフを雇用するのは、現地事情や人脈をあてにしてのこと。だから、現地事情に詳しい人の方が有利。なのに、不衛生できれいな水が入手できない家庭にまで、粉ミルクは普及してしまった。粉ミルクを彼ら、時にはスラムの住民にまで薦めたのは、医者たち。医者である彼らは、患者の家庭環境を知らないはずがない。

 

セールスマンであるアヤンは、粉ミルクは衛生的な環境でしか効果がないことを、もっとアピールするべきだった。

 

用法上の注意について、聞かされていなかったと医師の怠慢を許してしまう状況を作ったのは、アヤンの怠慢。善良な彼には思いもよらない取り扱い方をする人がいることを、もっと考慮すべきだったんだ。

 

日本でも乳児に蜂蜜を与える人がいて問題になっていたけれど、問題になることで、社会の分断もはっきりした。私はそんな使い方しちゃうんだ。。と驚いた方で、生育過程のどこかで“乳児に蜂蜜危険”と刷り込まれている。きっと粉ミルクを薦めた医師たちの中にも、思いがけない使われ方をしただけだと受け止めている人もいるかもしれない。

 

だから不衛生な水に溶かして飲むしかない“汚れたミルク”は公衆衛生の問題で、企業が責任を感じる必要性も無し。と元上司ビラルは割り切って、不正義と知りつつビジネスに邁進する道を選び、優秀なセールスマンであるアヤンを思いっきり利用する。

 

ここ、先進国と新興国が直接つながることで起きる問題その2。

 

情報の非対称性を利用すれば大儲けできるけれど、その代わり搾取され、時には子供の死やトカゲの尻尾きりで失職という悲劇を生んでしまう。

 

名前だけで商売できたら、誰もその中身をまともに精査しようともしない。世界最大企業の看板は、国内市場が育ってない新興国では絶大な信用を持って迎えられる。事実、製品そのものの質はいいんだから。

 

不衛生な環境では効果を発揮しない、生活実態とかけ離れているかもしれない割高なものを喜んで使って、子供を死なせてしまう母親の姿に絶句する。そんな世界は知らないから。

 

同胞と思える人は不正義に怒り、メシの種と思う人は悲劇ごときでは動じない。

 

コンプライアンスや人権が尊重され、公衆衛生が行き届いた先進国では起きない問題で、なおかつ新興国内、ローカルベースでは解決できない問題。

 

不適切な使用法を見過ごし続けて利益を上げ続ける世界最大企業を訴えたアヤンは、ローカルな生態系で甘い汁を吸ってきた人たちを敵に回してしまったから。

 

未成熟な新興国では、不正に加担した方が経済的メリットも大きいからどうしようもない。一方の先進国では、不正に加担すると経済的不利益が大きくなる。立派なルールブックは、公正であることにインセンティブを働かせるためにあるもんさ。

 

だから不正行為のエビデンスは、徹底的に隠されるか、そもそも残せないようになっている。コンプライアンス意識に乏しいローカルスタッフの暴走にすれば、世界最大企業には傷さえつかない。

 

アヤンに語らせ、アヤンにとっての真実を訴えるけれど、先進国は感情だけでは動かないし、動かせない。

 

罪のない子供たちの死に憤り、職を辞し、多勢に無勢で家族ともども危険に晒され、仕事を干され、兵糧攻めにされた。その事実だけでは、企業の責任を問うには弱過ぎる。

 

登場するのはアヤンを筆頭に、零細な個人と大企業と軍部と医者。文官どこよ?なローカルから、映画化という先進国のメディアで圧力をかけて問題を表面化しようとするけれど、それも頓挫。

 

物的証拠に乏しく法的に争うのは難しい事案だから、「可哀そう」「ひどい」という感情に訴えようとするけれど、「可哀そう」と憐れんでもらうには、絶対的弱者の方が有利で効果的なんだ。

 

ところが給料も保障されず組織のバックアップも受けられない個人の限界で、アヤンにも不利な事実が出てきたところから、雲行きが怪しくなる。

 

先を読んで行動するのは優秀なセールスマンなら当たり前で、先を読み過ぎたことが仇になったのか。当然の保身であっても、ハンサムで善良というアヤンのイメージを失墜させるのには十分。

 

巨大企業は、新陳代謝も激しい

告発系の映画では、フィクションの体裁を取っていても短命なことが多く、今後は多分動画にならずにスルーされていく可能性があるかもと思っている。(だからマイナーな映画でも、興味を持ったらできるだけ見に行く)

 

巨大企業の場合、その時そこに居た人を罰し、必要な対策を取って表面上はクリーンになる。器にふさわしくない社員を処分し、新陳代謝を図って別ものになろうとするから、問題が起こった前と後では違うもの。

 

クリーンになった会社を問題発生当時のままで語ろうとすると、名誉棄損や業務妨害になってしまう可能性がある。

 

中身がすっかり入れ替わった、国家並みの影響力を持つ大企業と一個人が衝突した時。高潔でない、高潔であろうとしても頑張り切れなかった零細な個人を「可哀そう」「ひそい」という感情に訴えずに救う方法はあるのか。

 

問題が発生した新興国には問題解決能力がなく、先進国でも法的にはグレーで白とも黒ともつかない複雑な状況を、複雑なまま理解した上で、どうすれば社会正義が実現するのか。裁判員裁判裁判員になった気持ちで、鑑賞してた。

 

問題解決能力に乏しい新興国を、先進国並みに引き上げコンプライアンスを遵守させたところで、意識が伴っていなければ、第二のダメな先進国が生まれるだけ。例えば過払い金請求のように、システマティックに被害者を救済する方法が編み出され、弱者であり続けることがメリットになってしまう恐れもある。

 

公衆衛生の問題でもあるから、“公“、パブリックを強くして、自国内ではパブリックの方が強制力を持つシステムに変えていくとか。思いつくのはそのあたり。高潔であることにインセンティブが働かないと、社会的不正義がはびこってしまう。高潔であるには金銭的誘惑に負けない財政基盤が絶対に必要で、飢えたトラは容易に暴走する。

 

どうすればよかったのか。一強の傲慢を許さない第二の存在があれば、アヤンの訴えだって喜んで聞き入れられたかも。

 

先進国と新興国が直接つながることで起きる問題は、これからも生まれ続ける。すべての基準を先進国、あるいは新興国に合わせ、ひとつになれれば解決するかもしれないけれど、多様性を残したい派としては、別の解を持ちたい。

 

ローカルに生き、ローカルルールに合わせて多少の不正義には目を瞑りつつ窮屈に生きるのか。グローバルに生き、グローバルルールに合わせて自由度がより高くなる高位高職をめざし、ローカルが変わるまで待つのか。どうすればいいのか。

 

とりあえず、多勢に無勢で数の力を信じて傍若無人に振る舞う勢とは、距離置きたいことは間違いなし。そこには、グローバルもローカルもないと信じたい。

 

お休みなさーい。