詩人で評論家の大岡信さんが亡くなった。
訃報を聞いて、おかしな擬音が思わず口から出たほど驚いた。正確に言うと、高齢ということはわかっていたので、ニュースなどでその死を大きく知るよりもっとひっそり何ヶ月か何年か経ってから、あぁそうなんだという穏やかな形で知りたかった。完全にこっちの都合だけど。
教科書にも載っていた、『言葉の力』という文章(随筆?)で出会ったのが最初。柔らかな語り口ながらも論旨が明確で、わかりやすい文章が好きだった。詩や評論という分野の人だけどロジカルで、日本語の持つウェットさと格闘もしていた人。ウェットであることをわかりつつ、そこから脱しようとしてたところが好きだったのかも。今にして思えば。
言葉は氷山の一角(『ぐびじん草』、言葉の力より引用)
というフレーズは、初めて見た時からずっーとずっーと、心に残り続けている。
どれほど見目麗しくて一見感じが良さそうに見えても、対面で向き合った時その人の口から出る言葉が口汚いものだったら、それがその人の性根で本性で、だいたい間違いなかった。
普段どのような言葉に囲まれて暮らしているのかが丸わかりになるのが、その人の口から発せられる言葉。書き言葉は誤魔化しがきくけど、話し言葉は誤魔化せない。訓練でどうにかなる分野だから、ささいな言葉、日常でポロポロ漏らす言葉にこそ、より真意が表れやすい。
本棚から久々に引っ張り出してみた『ぐびじん草』。読み返してみると、ささいな言葉こそ大事なんだということが繰り返して書いてあって、我ながら笑える。影響受けすぎ。
言葉の皮肉な在り方の一つに、大げさな言葉はわれわれをあまり感動させず、つつましく発せられたささやかな言葉が、しばしば人を深く揺り動かすという事実がある。
言葉というもののささやかさを強調したい。一つひとつの言葉はまことに頼りない、ささやかなものだということを言いたい。
その大事な素晴らしい言葉というのは、実はそのへんにごろごろ転がっているあたりまえの日常の言葉なんだということに対する徹した認識があるかないか、ということだろう。
といった調子で、ささやかな言葉を大事にしましょう、ということが書き連ねてある。
言葉がキャッチコピー化し過ぎて先鋭化すると、あざとさやどぎつさが先立って、そもそも目にするのも嫌になる心証を、言葉を大量に扱う人だからこそ言い当てている。最初は物珍しかったどぎつい言い方も、100人が一斉にやり出したら、もう見たくもない。
可処分時間奪い合いで、アテンションエコノミーがデジタル資産として通用する今では、虚しく響くのもわかってるんだけどさ。ギョーカイの人じゃないんだから、読みたいのは穏やかなもの。
訃報を聞いてAmazonで、いい加減『折々のうた』が電子書籍化されてないかチェックしたところ、新書や文芸・評論部門でもランキング入りしていて嬉しかった。書店でも山積みになっている本や著者の中で、健闘している姿がなんだか健気。電子書籍化されていたら、もっと順位が上がっていた気がしてしょうがない。
落語もいいんだけどさ。『折々のうた』のようなもの聞いて、しみじみしたい。試しにFebeでも探してみたけどやっぱり見当たらず、ごくごく少数者の意見だってこともよくわかった。世の中が年老いても、しみじみしたい人が増えるとは限らず、年の取り方が変わったものよと、しみじみした。
しみじみしてても決してそう見えない自分は、やっぱりウェットな人やモノとは相性悪し。
お休みなさーい。