日本語の読み書きさえできれば、誰だって文章が綴れる今。社会的意義のある読み物の方が尊くて優先される「べき」とはこれっぽっちも思わない。
複雑なものを複雑なまま理解できないのなら、誤読しようもないもの、キレイ・カワイイ・面白い・美味しそうから始めるのもひとつの手段。
複雑な状況に対峙することができず、独善で突っ走ったあげくに袋小路に陥る男性を描いた映画、『プリズナーズ』を見た。DVD版のレビューでは、えらく評判がよかった作品。期待以上に楽しめた。
ピースフルな日常を最上のものと考える家族が、まったくピースフルではない悲劇に見舞われる。平和を取り戻そうとした父親が、ピースフルでない非日常に自ら突っ込んでいき、ピースフルな日常から完全に遠ざかってしまう様子を描いてる。
アメリカのペンシルヴァニア州が舞台。あらすじにも書かれてるけど、感謝祭のシーンから始まる。家族や仲のよい友人とともに祝うのが、アメリカの感謝祭。幸せの絶頂シーンから始まると言ってもそんなに的外れじゃない。
特に裕福ではないけれど、仲のよい白人のドーヴァー家と黒人のバーチ家。子供二人と家族構成も、子供たちの年頃もほぼ一緒と共通項が多い。仲良く一緒に感謝祭を祝っていたところ、まだ幼い娘たち、白人のアナと黒人のジョイが、忽然と姿を消す。
そこから、ドーヴァー家とバーチ家の苦悩の日々が始まる。幸せいっぱいの感謝祭シーンは、その後に続く不幸とのいいコントラストになっている。あんなに幸せだったのにね。。と、何度でも涙ふりしぼれる。
警察にも通報し、怪しい人物がわりと素早く捕捉されるものの、娘たちの行方は依然として不明。
限りなく怪しい人物がいるにもかかわらず、遅々として進まない捜査に苛立ったヒュー・ジャックマン演じるドーヴァー家のお父さん。自立心旺盛で、自分で何とかするDIY精神が染みついた人だけに、自分の手で娘を救い出したいあまり、暴走していく。
家長としての意識が強過ぎるんだね。。あと、複雑な状況で、白黒つけない曖昧な状態に置かれたままなのが、我慢できないんだな、きっと。
平時であれば厳しく責任感の強い父親は、善き父・頼れる夫なんだけど、娘可愛さのあまり一線を踏み越えてゆく父親は、野生に目覚めた獣のよう。めっちゃ怖い。愛娘がその姿を見ることがあれば、以前とは同じ目で父親見れないよね。。という暴力を、容赦なく振るうようになる。
悲劇をきっかけに社会性を失い、獣性に目覚める男性の姿を通じて、「日常を壊す」ものへのどうしようもない怒りを描いてる。怒りを抱いているから、怒りの矛先に向ける暴力は凄まじく、独善による私刑の恐ろしさも描いてる。
恐ろしいのは独善なんだ。
複雑な状況に複雑なまま対峙できないと、単純明快な「答え」を探し求めるようになる。待てないことが、さらなる不幸を呼んでしまうのさ。
ジェイク・ギレンホール演じるロキ刑事による捜査も進んでいるのに、ドーヴァー家の父・ケラーは、「直感」を頼りに突っ走ってしまう。
もっと相談しろよ、手札を集めようよと、第三者としては思うところ。だけど、すっかりDIY精神が染みついたケラーは、周囲の声よりも直感に重きを置いてしまう。
愛娘が行方不明という、ただでさえ冷静さを欠いた状況で、当たらずとも遠からずの直感に頼って一線を踏み越えて脛に傷もったあげく、ますます公権力から遠ざかってしまう。
「なぜそこで、警察に電話の一本でも入れないのか???」という状況を経て、最終的には袋小路に陥ってしまう。
そこで終わるのヤメテ―!!!と大声出したくなるラストが待っていた。
ケラーのやったことは、法治国家の人間としては完全にダメダメ。だけど、家族思いの父親として見た時には、行き過ぎではあっても共感を伴う行為。完全に否定はできない。
犯罪被害者が加害者に対して抱く、「殺してやりたい」や「何としても口を割らせたい」を、愚直なまでに実行に移しているだけ。
行為は完全にモラルに反していても、その動機は「娘のため」というモラルに縛られたもの。だったら、快楽殺人のような行為も動機もインモラルなものとは、ちょっと違うものとして捉えたいという気持ちもわき起こる。
怒り狂う父親は、ちょっとというよりかなりイヤ。だけど、それもこれも「娘のため」であったら、ケラー以外はピースフルという終わり方が、ケラーに対して気の毒過ぎるような気がしてならない。
そう思う程度には、家族に縛られている。
家族というしがらみが皆無な、完全無欠の合理主義者が見れば、また違った感想を持つのかも。理屈に合わないことは好きじゃないけれど、家族のようなしがらみが、非合理的な行動にも走らせることについては、理解できてしまう。
非合理的なものにも相応の耐性はあるけれど、他人に対して「腐れ」と非合法な手段を用いても強いてくる人物や集団に、好意を感じる理由はない。
お休みなさーい。