クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

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インターネット原野商法ということばが脳裏をよぎる、今日この頃。原野商法について、無知の人もそろそろ増えてきたからか。

 

美味しいものの話をしていた。

 

ある土地の名物となっている魚。塩焼きの状態でサーブされ、ある程度食べ進めたところでいったんお皿が下げられ、残った身(骨の周囲とか)をこそげたものをご飯に混ぜた、混ぜご飯が美味しかったとのこと。

 

えっ、何人かで一緒につついて食べた魚。誰かの箸がつついたかもしれない魚の身を、ご飯に混ぜるの!?と、美味しさよりもそっちが気になって美味しそうに思えなかった。

 

一人ひとりにサーブされるのではなく、結構大きな魚だったので、数人でひとつの魚をシェアする形だったらしい。

 

鍋の後の雑炊と一緒だと言われたけど、家族以外の人と囲む鍋もノーサンキュー。

 

大皿に盛られた食べ物、例えばパエリアなんかを数人でシェアすることはよその国でもありそう。その場合でも、個別にそれぞれの取り皿に取って食べる姿しか思いつかない。

 

誰かの口に入った、箸やフォークやスプーンなどが直接触れた食べ物を複数人で食べる習慣、日本以外にもあるのだろうかとふと疑問に思った。

 

温泉のようなお風呂も、見知らぬ人と一緒に入る。スパやサウナは海外にもあって、水着着用のところと水着なしの場合と、ケースバイケースだけど、パブリックなほど水着着用率が高くなるような気はしてる。

 

もしかして日本、見知らぬ他人とのシェア率、もともと異様に高いのか?

 

シェアエコノミー、海外由来かと思ってたけど、ルーツはもっと泥臭いところにあったりして。

 

よそはよそ、うちはうちときっぱりと個が確立されてない。もっと他人との境界が曖昧な界隈で昔からあった共有の概念を、イチかゼロかのデジタルな領域に持ち込んで、カッコよく名前をつけてみた感じ?

 

正当な対価を払う商業世界に、境界が曖昧な界隈の人の善意を持ち込んだら、起こるのは価格破壊。正当な対価だったら入手不可能な、不当あるいは不相応に立派なものが手に入る。そうまでして不当あるいは不相応に立派なものを手にしたい、根拠がなぞ。

 

対価が払える人なら、相応の対価を払う。払えないものは、手に入らないとあきらめ相応のものを手にする。

 

世の中もっとシンプルでいいと思うんだけど、魔法のツールさえあれば簡単に手に入るかと錯覚させるのが、ゼロイチのデジタル世界なのかも。罪だね。

 

お休みなさーい。