クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

箸置きのある暮らし

向田邦子さんのエッセイで、40超えたら箸置きにこだわる暮らしをしたい人について、綴った文章があった。

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20代30代と同じペースで仕事にがむしゃらに取組んで、日常の生活、特に食事をおざなりにすることについて疑問を持つにいたった人を取り上げていた。おざなりな食事風景の象徴が”箸置き”。箸置きを使う食事がしたい、あるいは食事に合わせて箸置きを選ぶ生活をおくりたい。そんな心情を持つにいたった人につい て書いていた。
 
 
いつまでもトップスピード、前のめりにがむしゃらに働けるものではないと綴っていたところがポイント。前のめりやがむしゃらを積み重ねていくうちに、息苦しくなってしまい、ついには箸置きのある食事風景に対する誘惑に負ける。前のめりな働き方から卒業する。そんなお話。
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それ以来、箸置きのある食事風景は、”余裕ある生活”の象徴になった。
 
 
箸置きみたいに小さなものは、ふだんの生活にも取り入れやすい。季節感を出すのにもちょうどいい。いいなと思ったものは気軽に買っているので、ちょっとした”箸置き”コレクションにまでなっている。
 
 
本当に余裕のある生活をおくるのと、余裕ある生活を象徴するアイテムを集めることはまったくの別もの。なのについ、余裕ある生活を象徴するアイテムを集めて満足してしまいがち。
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箸置き、あるいは豆皿のような小さなものは、作ったところで大した利益は見込めない。だから、クラフトフェアのように損してもいいかと思えるところでしか売らない。各地のクラフトフェアに出展することで生計を立てている、ある個人作家さんがそう言っていた。
 
 
余裕ある生活を象徴するアイテムをいくら集めたところで、そこに利益もちゃんと上乗せされないと、結局のところ全体に余裕は行き渡らない。象徴はいつまで たっても象徴のままで、実効性はない。物販の限界、物を売ってるだけでは価格競争に収斂していくから、物を買うだけではだめなんだとか。たかが箸置きか ら、どうしてここまで脱線して思考が飛ぶのか自分でもなぞ。
 

wired.jp

自分では作れない物を作ってる人たちがまぶしくて、眺めるだけだった、Etsy。いつの間にかこんなことになっていて、少し悲しい。その代わり、日本でも似たようなサービスは始まっている。ただ、Etsyは自分の生活圏にはない物やデザインとの出会いが嬉しかったし、たとえ見てるだけでも楽しかった。
 
 
リアルショップにめぐまれてる生活圏なので、生活圏の延長線上にあるものなら、リアルショップで事足りる。生活圏には無い物との出会いを、さてどこで求めたものか。
 
夜中の薔薇 (講談社文庫)

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お休みなさーい。