『思考停止』という言葉が出てくる、この2つのエントリーを読んで思いついたことなどを。
思考停止は楽な生き方になる場合も
登れない山を無理して登り続けようとすると苦しい。思考停止で楽になるのは、登れない山を無理して登ろうとしないことに等しいのかなと思った。
今よりもっとと地位や収入、あるいは漠然とより善くを求めて、常に上を目指し続ける。登れない山を登り続けることを、そんなイメージでとらえてます。
今よりもっとを求めるのなら、努力し続けないといけない。
努力することそのものが楽しい人も、中にはきっといる。いると思うけど、たいていは努力と引き換えに何を得られるかは計算してるわけで。
労力に見合うかどうかわからない冒険をどこまで続けるのか。
冒険だったら、無理だと思ったところでやめても問題ないでしょと思ってる。
冒険ではなく、義務として課せられているのであれば、また別なんだけど。
ボロボロになって無理な冒険を続けて、何とか見晴らしのいい所にたどり着いたらひとりだった。
そういうのもまた、寒々しい光景で。
先に進み続けること、見たこともない景色を求め続けるのも、考え続けることに等しい。考え続けるのをやめて、今目の前にある物に意識を向ける。身近な人に目を向ける・大切にすることで、山を登らなくても手に入る物があれば、それで十分な時もある。
ブコメでも紹介した『人生、行きがかりじょう』という本の中から、ちょっと長いけど引用。
大海の魚みたいにスイスイと生きていけない質の生き物が、時代や環境が変わってるのに、大海の魚みたいに生きようとしたら、そりゃしんどいですよ。それに、大海の魚ってマグロでもサバでもイワシでもなんでも、同じ顔しとるよね、なんか。磯辺の生き物が大海のマグロなんかと同じ顔して生きようとしたら、苦しいに決まってます。
40代50代にもレールを外れても行きていける方法を、具体的に詳述してるわけではないけれど、こんな本もあるよということで。
ある程度の人口規模を持つ都市で生まれ育った人なら、きっと感覚的に理解してるはず。街だったら、適当に生きてても何とかなってる人がいたんだよね、ちゃんとしてなくても。都市には隙間が多くて、ちゃんとしてなくても何とかなった部分が、少なからずあったし、今もあるはず。
磯辺の生き物に、大海のマグロらしく生きろと言ってもナンセンスでしかない。
鈴木さんのエントリーにはもっとセンシティブな内容も盛り込んでおられるけど、その辺は割愛。
無理は続かないし、無理を強いるのもナンセンス。必要に迫られた時には思考停止を脱して、再び山を登り始める。そんな弾力性があれば、無理を強いるようなナンセンスな事態も、今よりもっと減りそうなんだけど。
休息も取らずに走り続けることが出来る人は、世の中そんなに多くない。思考停止でタメを作って、山を登るかどうか考える。そういうのがアリでもいい。
「思考停止」をキーワードに、思いついたことを。ゆるゆるとしつつ、時々スイッチが入る。そんな感じで日々過ごしてる人が書いてみました。
人生、行きがかりじょう――全部ゆるしてゴキゲンに (22世紀を生きる)
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