『大いなる沈黙へーグランド・シャルトルーズ修道院』と『フィツカラルド』と。短い映画だけじゃなくて、長ーい映画も見てました。
どちらも、DVDだったら面白さは半減してたに違いない。大きなスクリーンで見たからよりいっそう心に残るものがあった、そんな映画だった。
この後は長い(2715文字)ので折畳みます。
『大いなる沈黙へーグランド・シャルトルーズ修道院』は、カトリック教会の中でも最も厳しい戒律で知られる男子修道院を記録した、音楽なし、ナレーションなし、照明なしのドキュメンタリー作品です。
上映時間2時間49分。音楽なし、ナレーションなし。しかも題材は修道院。3時間に及ばんとする、長丁場に耐えられるのか、私。
そう思いながら観に行った。正直言って、途中でブラックアウト、睡魔に負けてしまったところもある。
昼食後すぐの会議や授業は眠い。
それと同じで、スクリーンを通して聞こえてくる、修道士の祈りの言葉がちょうどいい子守唄になった。
音楽なし、ナレーションなしとはいえ、全く”無音”の映画じゃないんだよね。
スクリーンを通して修道士たちの生活音、足音や作業中(料理だったり、何かの修理だったり)にたてる音、あるいは祈りを唱える声だとか。
そうした生活音しか聞こえてこないせいか、いつしか自分も修道院の中にいるような気分になった。
自分もその場にいるかのように錯覚すると、緊張するのか。
最初は退屈だったのに、どんどん目が離せなくなった。
ナレーションがないから何の説明もない。修道士たちも何も語らない。だからどんどん疑問が大きくなる。「この人たち、どうしてこんな生活が続けられるんだろう」と。
単調な日々を繰り返す、厳しい生活。なのに時折大映しになる彼らからは、迷いはあんまり感じられない。
彼ら以上に明確に、生きる目的を手にした人たちをちょっと他に思いつけなかった。
祈り。学ぶ。身の回りのほとんど全てのことも自分たちでやってしまう、自給自足の生活。
生きる目的とか言っちゃうと、世界を変えようとついうっかり銃でも手に取りそうな、危ういポジティブさも潜んでたりする。
彼ら修道士の生きる目的は、もっと内に内に、内面に降り積もっていくような、静かなものに見えた。
この映画、監督が修道院内を撮影したいと申し入れてから、16年経ってようやく取材許可が降りたんだよね。
長く待たされたのもわかる気がする。
申込みした時が1984年、資本主義が大勝利を収めようとする矢先にこんな映画が公開されても、曲解されるかスルーされるのがオチだもの。
富の偏在や機会の不平等が露わになって、資本主義大勝利でもないよねという空気の中でこそ、見直されるタイプの生き方を描いてるから。
静かで効率とは無縁な彼らの世界では、ひとつひとつの作業が厳粛な宗教行事みたいだった。
祈ること・学ぶこと・働くこと。
生きる目的がクリアーで、言ってみれば小さなことの繰り返し。小さなことを繰り返す中で、ひとつひとつの作業=生きるための工程が大きな意味を持ってくる。
静かに生きてる彼らだけど、感情を忘れたわけじゃない。
静かに小さなことを繰り返してるから、稚気も情熱も充分に残してる。
大のオトナが些細なことで大喜びするラストシーンが、特別にステキだった。小さなことでも喜べる彼らは、どこにでもいそうで実はなかなか見つけられない人たちだから。
『フィツカラルド』は、19世紀末のブラジル、アマゾンのジャングルを舞台に、巨大な船で山を越えようという、とんでもないスケールの妄想を描いた映画です。
157分、2時間半とちょっとの長さ。こちらはハランバンジョーな展開
で、飽きることなく画面にくぎ付けだった。
何しろCGさえなかった時代(1982年制作)に、実際にアマゾンの奥地でロケをして、結構な大きさの蒸気船で実際に山越えしてる。
ローテクで山越えしてるから、見てる方もドキドキ。絶対に何かよくないことが起こるに違いないと、ハラハラした。
”船が山を越える”という、衝撃のシーンに目が奪われがちだけど、ストーリーにも夢=妄想がいっぱいで、めっちゃ面白かった。
以前読んだ本に、「限られた人にしか通用しないものが文化で、好き嫌いは文化に通じる」とあって、なるほどと思ったことがある。
それでいくと、自分の「好き」、美しいと思ったものをよりたくさんの、その素晴らしさをまだ見たことのない人のために届けようとしたら、そりゃもうエライ目にあったよ、という映画。
アマゾンの奥地、電気もガスも通じない僻地に、オペラハウスを建てて希代のテナー歌手を呼び、歌ってもらおうと思いついたことがそもそもの始まり。
なんでアマゾンの奥地でオペラなの。
なんで船が山を越えなくちゃいけないの。
ただお金を儲けようとした方が、きっともっと簡単。
でも、主人公であるフィツカラルド(フィッツジェラルドの現地読み)にとって、お金は手段でしかない。やりたいことはもっと途方もないことで、お金だけでは解決できない類のものだから。
この映画、起業を志す人が観たら、かなりぐっとくるんじゃないかと思った。
何か途方もないことをやらかそうとした時に、一番難しいのは「人を動かす」ことだから。
知識も技術もある。でもその有用さ、きっと素晴らしいことができるに違いないと世の中に認めてもらうには、船で山を越えるような馬鹿力、熱意がないと山も越えられないし、人も動かないから。
エキストラとして、アマゾンのインディオ達も、たくさん登場してた。
言葉も習慣も違う彼らが、なぜフィツカラルドのどえらい事業に手を貸すのか。
その答えは、彼ら、知識も技術もない彼らだって、山を越えたかったから。動かない現実を動かしたかったからじゃないかなーと。
この映画見て、『フラニーとズーイ』の一節も思い出した。
思い出してばっかり。
”おまえは太ったおばさん(ファット・レディー)のために靴を磨くんだよ、彼はそう言った”
自分がいいね、ステキねと思ったものを、まだ見たことがない自分の近しい人に見せようとした時、船で山を越えるような馬鹿力だって出せるんだろうな。
この映画は、DVDやましてや手のひらサイズの画面で見るなんて、考えもつかない時代に作られたもの。大きなスクリーンで見てこそのスケール感を堪能した。DVDも出てるけど、大きなスクリーンで観れてラッキー。
『北大映画館プロジェクト CLARK THEATER』にて、今日18日16:20~19:40にも上演される。