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クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

『失われた感覚を求めて』読んだ。

東京と京都の2拠点で活動する小さな総合出版社、ミシマ社を起ち上げた同社代表の三島邦弘氏による、これまでとこれからを綴った書、『失われた感覚を求めて』を読んだ。

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 本を読む者として「本の未来」にも関心がある人、近ごろのベストセラーの良い読者にはなれない自覚がある人が読むと、結構響くものがあるんじゃないかな。その意識・感覚を変えるのは、次は読者の番じゃないのかって。
 
 
出版不毛の地、京都府城陽市に土地勘があったので、「あの」場所で出版社を始めた会社ということで、ミシマ社のことを知っていた。
 
 
この本には、東京・自由が丘で出版社を起ち上げた後、城陽市に拠点を求めざるを得なかった経緯から、そこで過ごした時間、次へと向かうまでが書かれていた。
 
 
京都の中心部からでさえ若干距離があるから、何かを考えたり、物を書いたり。いらない情報をシャットダウンして集中するには結構いいけれど、出版社として活動するとなると、城陽市はやっぱり不自由だった。出版不毛の地で活動することのマイナス点も赤裸々に明かされてる。
 
 
そのかわり、そうした不自由を経て明確になる、「出版社とは」や「編集者としての役割」、「編集者としてわくわくするような本を世に送り出し続けるために」が、たっぷり考え抜かれてる。
 
 
そうなんだよね。本を作ってる側の人達がワクワクしてる。そんな本が読みたいんだよね。この本を読んで再確認したのはそんな当たり前のこと。
 
 
これは本に限らないけど、作り手の人達がまず「これを作りたかった、世に出したかった」、そう思った創作物との出会いが、実は減ってるんじゃないかと感じてる。
 
 
「これ出したかってん」「これ読みたかってん」「おおきに!」そういう素朴な感情・感覚が、クリエイティブな物からどんどん抜け落ちていってる。
 
 
本の場合だと、書店はどんどん大規模化・集約化されていくし、電子書籍との競合もある。
 
 
読者としては、まだかまだかと首を長くして続きを待っているのに、「大人の理由」で続きが出ない。そんなことも経験済み。一方で、終わったはずのものがいつまでも「大人の理由」で使い回しされることも。
 
 
「大人の理由」が壁になっているのなら、大人がちょっと我慢すればいいんじゃない。ミシマ社は、製紙会社や印刷会社あるいはサポーターからの援助を受ける、「贈与経済」で一部が成り立っている。
 
 
商業出版社として、一部のマニアにだけ受けるような志や目線の低さがあれば、援助もままならなかったはず。
 
 
ミシマ社では「シリーズ22世紀を生きる」も展開していて、22世紀、未来を見据えてる。その第一弾である『人生、行きがかりじょう』の最終ページには、「シリーズ22世紀を生きる」刊行の辞が掲げられている。
 
 
目線や志を、高く遠くまで掲げた出版社がないと、読者だって意識を高く持ちようがない。
 
 
刊行の辞はとても平易な、語りかけるような言葉で書かれている。
〇〇文庫や△△新書の発刊や刊行の辞と読み比べると、その力の抜け具合が面白い。
 
 
平易であること、脱力してることも、未来への一歩かも。
 
 
「大人の理由」は、大人なら何とかしようがある。本を作る人達(モノを作る人達でもいいんだけど)は、震災という大きな転換期を経て、その意識を大きく変えてきた。
 
 
じゃあ後は、読者、物を受け取る側が、その意識・感覚を変える番なんじゃないかな。
 

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(わかりにくいけど、中央に本をイメージしたイラストが。)
 
この本、ブルーと白の装丁がステキなんだけど、カバー外した時のワンポイントもステキ。こんな細部にまで「遊び」がある。
 
 
本はやっぱり本。データじゃないんだよね。データではなく、本を愛してくれる人が増えるといいな。そう思った。データじゃない本が動くことで、規模としては小さいけれど、生業が成り立つ人はたくさんいるんだよね。
 
失われた感覚を求めて

失われた感覚を求めて

 

 

人生、行きがかりじょう――全部ゆるしてゴキゲンに (22世紀を生きる)

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