クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

目立つ場所に置くのは真善美寄りの方がいい。

ちょっだけ日記でゆるふわ成分が満たされたので、ゆるふわじゃないことも。

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たくさんの人の声を聞くと商売になって、自分の声を聞くと商売にならない。儲からない。ひとりよがりに人は寄りつかないから、当たり前といえば当たり前。

 
「意識高い」や「上から目線」と揶揄されるくらいだから、ちょっと意識低い、目線が低いところから見上げて何が望まれてるのか。自分の好みや趣向は脇に置いておいて、「みんなの好み」に合わせた方が、そりゃ人は群がってくる。
 
 
露悪的なメディアやコンテンツに人が集まるのは、露悪を心から楽しんでるというよりも、「みんなのためにここまでやってる」、いってみれば犠牲をコンテンツとして楽しんでる面もあると思ってる。
 
 
犠牲をコンテンツとして楽しめない人は、そこから距離を置く。距離を置く人が増えて人が減った分さらに露悪的になってと、人が離れたメディアやコンテンツでは、負のスパイラルが起こってる。
 
 
心から楽しいと思えることをしてないんだろうというものを、大ざっぱに犠牲でくくってる。そういう意味では、そんなキャラでもないのに「いい人」を演じるのも、犠牲に含めてる。
 
 
真善美、いいことに裏打ちされたコンテンツは長い歴史があって、見る人の目も肥えてるから、少々真善美を唱えただけでは、もう誉めてももらえない。
 
 
お寺や教会の前を通ると、「道は近きにあり迷える人は遠きに求む」みたいな名言が飾ってあるけど、立ち止まって耳を傾ける人なんて滅多にいない。
 
 
風景みたいに見過ごされてる。
耳を傾ける人は、心が弱ってる可能性大いにあり。
 
 
悪意ある言葉がインフレなら、”耳に心地いいこと言ってる言葉”もありふれ過ぎてるんだよね。
 
 
それでも真善美を目立つところに置いておいた方がいいのは、メジャーとインディーズの逆転が起こるから。
 
 
メ ジャーなものと、それに対するカウンターとしてのインディーズ的なもの。その構図が崩れたら、常識のラインが崩れる。ここまではOK、ここからはアウト。 そんな絶対善・絶対悪に対するラインが後退、あるいはあやふやになれば、すごく社会が脆くなると思うんだよね。居心地が悪くなる。
 
 
何を判断するにしても、いいのか悪いのか。選べなくなって、結局はたくさんの人が選んでるものを選ぶようになる。
 
 
で、たくさんの人の声を聞いてる人は、商売でやってるんだよね。商売人の方がほっておかない。儲けることが悪いとは思ってないけど、道徳より利益が優先されたら、道徳的なものは後退する。
 
 
あら、やっぱり居心地悪くなりそうね。
 
 
崇高な目的(書いてるだけで胡散臭い)があって、あえて露悪に身を落とし、世間の皆様のおもちゃになっても当初の崇高な目的を忘れず世のため人のために尽くしましたとさ。
 
 
そんな、老眼でなくても糸も通せないような細っそい針の穴を通すような奇跡なんて、滅多に起こらないから。
 
 
世間のおもちゃになった分を取り返そうと、払った犠牲に見合う報酬を求めるようになって、道徳的成分が薄くなる。
 
 
たくさんの人の声を聞いてる人に、犠牲を求めない。エールを送る。エールを送られいい気分になった人は、社会に復讐なんて考えない。いい面を見せられた人はいい面で返す。
 
 
たくさんの人の声を聞くポジションにいる、人やものにエールを送っておけば、回りまわって社会に還ってきて、居心地もきっと良くなる。地位やポジションにふさわしくない振る舞いをする人は、払った犠牲が大き過ぎたんだ。そう思って見てる。
 
 
最初からメジャーポジションに居た人じゃなくて、インディーズからメジャーデビューを果たしたような人達。そうした人達が、これからの人達に何を言ってるのか。良くも悪くもたくさんの人の声を聞いて、潰れずに生き残ってる人の声、(生き残ってればの話だけど)。
 
 
そこにはきっと、自分達がとってメジャーに踊り出た方法とは逆の、「これから」のヒントがあるはず。
 
 
具体例に乏しいから説得力に欠けるんだけど、固有名詞は各自が適当に、あーあれかなーと思い浮かべればいいと思います。