クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

『かもめのジョナサン 完成版』読んだ。

抽象の世界に飛び立ったカモメは、生活の夢はもう見ないのか。

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40年以上も前に出版され、大ベストセラーとなった『かもめのジョナサン』。「飛ぶ」ことに誰よりもこだわった奇妙なカモメのお話は、3章までで終わってた。そこに、かつて著者自身が封印した「最終章」をつけ加え、半世紀近くの時を経て新しいピリオドが打たれた。
 
無駄に長くなったので、この後は折畳み。興味ない人はすっ飛ばして下さい。(2466文字)

 

 
完成版への序文として、刊行時にはすでに4章まで書き上げていたにも関わらず、著者自身の判断として、封印したいきさつが述べられてる。
 
 
かもめのジョナサン』、思い入れのある作品だけに、”幻の最終章”を加筆して完成版出版と聞いた時は、正直むっとした。
 
 
3章で完結していた作品世界を素晴らしいと肯定してきたのに、そこに余計なものが加わって、作品世界が台無しになってたらどうしようと心配したから。
 
 
ただこのお話が特別なものになった時から、すでに十数年以上は経っている、私の場合でさえ。
 
 
初版から時間が経てば、受け止める読者の側の世界も変わる。
 
 
新しく書き加えられた最終章は、今の時代への祈りみたいなもの。そう思った。
 
 
ジョ ナサンというカモメは、飛ぶのが大好き。他のカモメたちが「食べる」ために飛んでいる中、飛ぶことそのものを楽しむジョナサンは、異端として一度は群れを 追われる。群れを追われても、ただ飛行術を追求し続けたジョナサンは、やがて至高の域にまで達し、そこで初めて同志と呼べるカモメたちとめぐり合う。
 
 
同じような高いレベルのカモメたちと、さらに高みを目指す日々を送るジョナサン。やがて飛行術を他のカモメにも手ほどきし始めたジョナサンは、自らを追放した群れ、古巣へと戻ってくる。
 
 
追放カモメとして最初は恐れ、忌み嫌われるジョナサン達だけど、やがて若い世代を中心に、群れの中から賛同者が現われる。新しい世代へ飛行術のバトンタッチができたところで、今までは終わってた。
 
 
最終章が加筆される前の『かもめのジョナサン』は大体こんな話。「飛ぶ」を「生きる」に置き換えても、「音楽やアートなど好きなことに没頭する」に置き換えてもいいと思う。
 
 
食べるために飛ぶ人と、飛ぶ・生きる・音楽やアートなど、ただ好きなことに没頭するために飛ぶ人と。生活を抱えた人と、生活を超えた何かを追求したい人達の、対立と和解の物語にも読める。
 
 
あるいはマイノリティ対マジョリティの物語とも読めたり、色々な読み方があるから何度でも読み返せるし、短いお話にも関わらず、深い印象を残す。
 
 
個人的な理由で、このお話は私にとって特別なもの。
 
 
10数年前、夏休みで南のリゾートに出掛ける飛行機の中で、『かもめのジョナサン』を読んだ。
 
 
客室乗務員と向い合せになる座席に座っていて、向かいに座る男性CAから、その時さんざんオモチャにされた。
 
 
まずゴミ、ストローの空き袋とか紙コップとかが飛んでくる。食事のトレイや飲み物は、「君にはあげないよ」といって、スルーされる。同僚の女性CAの人達から「いい加減にしなさい」とたしなめられても止めない。
そのくせこっそりオヤツをくれたり。
 
 
後でわかったことだけど、同僚の女性CAも含めてこっちのことを未成年のローティーンだと思ってた。実際はハタチをとっくに超えてたんだけど。
 
 
オモチャにされた理由は、『かもめのジョナサン』を読んでたから。
 
 
「いい本を読んでるね、その本はこんなに素晴らしいんだよ、ベラベラベラ・・・・・・」という感じで、彼がヒマになって座席に戻ってきた時には、その話をしたがった。聞いてないふりしてたらゴミが飛んできた。
 
 
コックピットはどっちかっていうと、男性の世界。客室乗務員の世界は、どちらかというと女性の世界。男性CAの彼はマイノリティだった。
 
 
それだけでなく、身のこなし、いちいちポーズつけて物を言うような自己顕示欲の強さからも、きっとマイノリティに属する人なんだろうと思ってた。
 
 
「いい話なんだよ、大事なことが書かれてるんだよ、忘れないでね」。
そんなこと言われたら、忘れられるわけない。
 
 
最終章を読みながら、あの時の彼はこの章をどう読むんだろうと、もう顔も覚えてない、陽気なイメージしか思い出せない彼のことを思い出してた。
 
 
最終章で、あんなに忌み嫌われたはずのジョナサンは、神様のように祭り上げられてる。ジョナサンが体で覚えた飛行術は、意味をなさない呪文に変わってる。形骸化してる。
 
 
そこに、疑問を抱くことも許されない。
 
 
ただ飛ぶこと、自由になることに懸命だったジョナサンが、望んだとは思えない世界が広がってる。
 
 
最終章で、カモメたちが新たに始めた奇妙な慣習について描写されていた。まるで、進んで重装備になろうとしてるよう。
 
 
生活は重い。自ら重みを背負った彼らからは、飛ぶことの喜びは失われ、喜びが失われた群れからは活力が失われていく。
 
 
重い生活を軽くするために、収納術、節約方法、憂さ晴らし。いろんなライフハックが提案される。ほんの少し生きるために飛ぶことが楽になる反面、生活のディティールは、より高く飛ぼうとするカモメから活力も奪う。
 
 
誰よりも早く高く飛ぶことは、生活を離れて自由に過ごす世界。生活のディティールから逃れようとするカモメは、かつてのジョナサンそっくり。
 
 
生活という現実から逃れ、高い理想目指して遠くへ飛んでいく。だけど、抽象が支配する理想社会に居ると、生活が恋しくなる。
 
 
私にとって『かもめのジョナサン』は、常に理想と現実に折り合いがつく、均衡点を探す物語になってる。現実に寄せたり、理想に寄ってったり。その時々で立ち位置は違ってくるから、自分が今どこに居るのかもわかる。
 
 
本から与えられた知識だけだったら、この本は特別なものにはならなかった。英語を母国語としない外国人にも、平易な言葉を使って一生懸命良さを説明してくれた、彼が居なかったら特別にはならなかった。
 
 
知識だけの言葉が空虚に聞こえた時に、生活に戻りたくなったりするんだよね。生きる方が大事じゃんって。
 
 
お休みなさーい。