クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

『フラニーとズーイ』読んだ

ライ麦畑でつかまえて』あるいは『キャッチャー・インザ・ライ』で有名なサリンジャーによる、意外と人気があるに違いないと信じてる、グラース家サーガのひとつ『フラニーとズーイ』を読んだ。

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 

グラース家サーガ、『ナイン・ストーリーズ』『フラニーとゾーイー(あるいはズーイ)』『シーモア序章・大工よ梁の屋根を高く上げろ』の順番で刊行されてる。
 
 
初めてグラース家サーガを読む人が、『フラニーとズーイ』から読んで、果たしてわけがわかるのか。読む前は心配したけど、村上春樹による新訳版は、独立した物語として読んでも大丈夫、より楽しめるようになってた。
 
 
『フラニー』は60頁にも満たない短編なので、あっという間に読み終わってしまう。ただし、読み終わった『フラニー』を、心の引出しのどこに仕舞えばいいのか、ちと悩む。独立したお話しとして読めば、フラニーの激情しか印象に残らないから。
 
 
『ズーイ』はフラニーの奇行を受けてのお話しで、個人的感想としては「ほっておけば行き遅れになる妹を、渾身の力で外の世界に蹴り出そうとする兄」の話しだと思った。
 
以下、内容に思いっきりふれてるし長いので折畳み。興味のある人だけどうぞ。

 

 

フラニー、久しぶりに会った恋人とのデートで、勝手に機嫌損ねてデートを台無しにしてしまう。ついでにそれがきっかけとなって、自宅で数日ひきこもり状態になる。
 
 
恋人であるレーンのことを、フラニーは間違いなく好きなんだと思う。会えた瞬間はめっちゃテンション高く盛り上がってるし。レーンだって、小説読んでる限りはそんなに嫌な人間にも思えない。むしろ、やけに突っかかるフラニーの方が嫌な感じ。
 
 
一見すると嫌なお嬢様に過ぎないフラニーなんだけど、「グラース家の末っ子である可愛いフラニー」の成長した姿だと知ってると、そんなに嫌とは感じない不思議。
 
 
グラース家の子ども達、子どもの頃からラジオのクイズ番組でレギュラー持ってた(しかもその番組名が『これは神童』だったりする)、世間にも知られた”賢い子ども達”なのよね。長兄のシーモアとズーイはその中でも、ずば抜けて賢い子どもとして名を馳せてた。
 
 
「行っ てきます」と家を出て、「ただいま」と帰ってきた時に顔を合わせる最も身近な異性である兄が、とんでもなく優秀で、おまけにイケメン。そりゃ合間に会う男 はみんなボンクラにしか見えないでしょ。理性の面でも感情の面でも、どこまでも寄り添ってくれる素晴らしい家族に恵まれたことが、フラニーの世界を狭くし てしまってる。
 
 
ボーイフレンドであるレーンのことを感情面では「好き」と受け止めていても、理性に照らせば兄達には及ばなくて、癇癪起こしてる。『フラニー』読むと、そんな風に感じる。
 
 
グラース家、長兄であるシーモアを自死で失ってるんだよね。別の兄も戦争で無くしてるけど、シーモアの喪失の方がより重いんだよね。
 
 
大切な人を亡くしたことで、家族の結束より強まって、幾重にも「グラース家の繭」に囲われ、末っ子で最も長くその影響下にあったフラニーは、家族以外の他人とうまく距離をとれなくなってる。
 
 
悪いことにフラニーって「舌かんで死んじゃいたい!」気分になって、自室に引きこもって泣き暮らしてても、やってける環境なんだよね。裕福だから。狼狽してても多分両親は怒らない。心配するには違いないけど、腫物に触るようにしか接することができない。
 
 
他の兄弟姉妹はすでに家を出て独立してるとなれば、これはもうズーイにしか、フラニーを外の世界に引っ張り出すことができない。同じくグラース家の繭に囚われてきたズーイは、その繭に包まれる厄介さもじゅうぶんわかってるから。
 
 
ズー イ、長湯が好きで『ズーイ』の3分1は入浴シーンで出来てる。そこでズーイが読み返してる、実を言えば何度も読み返してる次兄のバディからの手紙って、ご くささやかな”日常のひとコマ”が書かせたものなんだよね。何度も読み返してるズーイもきっとそんな光景を好ましいと思ってるはず。
 
 
大切な人にはちゃんとして欲しいから。
 
 
「舌かんで死んじゃいたい!」気分のまま泣き暮らしてる妹よりも、ささやかな日常を綴った手紙をよこす妹の方が、嬉しいんじゃないだろうか。
 
 
ズー イや、グラース家の男達のミニチュアみたいな男性じゃなくって、彼らとは対極にあるような男性と雷に打たれたように恋に落ちて、ポロっと子どもも生んで。 夫となった人と喧嘩して「舌かんで死んじゃいたい!」気分になって部屋に閉じこもろうとしたら「ママ-お腹空いた」って服の裾ひっぱる子どもがいて、も うっ一体何なのよ!って頭から湯気出してる。そんな手紙が届いたら、ズーイ、爆笑してるような気がする。
 
 
ズーイは安楽椅子探偵みたいに、一を聞いて十を知る人だけど、ズーイとは真逆のもっと泥臭い方法で、ズーイと同じ結論に至る人。そんな人と一緒に、ジタバタドタバタした日々を笑ったり怒ったりして感情豊かに過ごす。
 
 
フラニーのように育った女性にはすごく難しいことなんだけど、そうすることが結局は「フラニーのお祈り」にも最も近づくような。
 
 
神 様ってやっぱりよくわからない。わからないけれど、感情が受け入れない人を理性で、理性で受け入れがたい人は感情で受け入れる。それを続けるのはすごく大 変だし、疲れる。疲れること、あーそれは大変だわ。そう思うことを長く続けてる人がいれば自然と頭が下がる。そんな感覚なら洋の東西を問わないので、神様 じゃなくて仏様でもいいのかも。
 

フラニーとズーイ』読みながら、開いてしまった思考のスイッチを文章にしたら、こんな長さになった。でも実は書き足りないくらい、もう少しいろんなこと考えた。
 
 
そういう思考のスイッチが入りまくる作品だったのよね。大学生のお兄さんお姉さんがまぶしかった初読時には絶対にできなかったことだから、思えば遠くへ来たもんだと感心してる。
 
 
お休みなさーい。