クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

小学生に負けてる

帰宅するだけで、白い悪魔に気力・体力を奪われる季節の始まりー。冬眠できない以上、サバイバルするしかないんだよね。やれやれ。

 

本屋さんで、メガネかけたお利口そうな小学生男子が三浦しをんの『光』買ってた。池上彰のそうだったのか!シリーズと一緒に。推定年齢3年生から4年生の彼の後、カルタする人のイラストがいっぱい入った絵しかない本買うのちょっと恥ずかしかった。そうなるとは思わなかったのに、そうなってしまったのよ。だったらもう、そんなもんと思って過ごすしかないじゃない。

 

『風が強く吹いてる』や『舟を編む』、あるいは『まほろ駅前~』から三浦しをんに入って、『光』読んだらびっくりするんじゃないかな。他人事ながらそう思った。彼女の作品の中ではかなり異色な作品だから、なんじゃこりゃ!ってキライになったりしないでねーって勝手に心配した。

 

爽快で感動的だったり面白おかしかったり、やや屈折してタラタラしてたり。そうかと思えば真剣に言葉と向かい合ってたり。そうした面と、寒々しいまでの暴力性・凶暴性を描く力は、一人のひとの中に存在しうるものなんだよね。当たり前だけど。

 

キレイごとしか書かない。あるいは煩悩にまみれていて、どこまでもキャンダラスでセンセーショナルなことしか書かない。どっちも「そういうポジション」取っただけで、その面だけで一人の人間が出来てるわけじゃないのにね。

 

『光』を読んだ時、こういう作品も書ける人なんだって、三浦しをんがますます好きになった。面白おかしいエッセイがやっぱり一番好きでそこは多分変わらない。だけど、明るくも楽しくもない、どっちかっていうと憂鬱になるほど暗黒面に溢れていて、爽快感とは果てしなく無縁な『光』も、きっと忘れられない。

 

何かの時に折に触れ、あー『光』で読んだ光景に似てるわーこういう人いるわー、こういうこともあるわねーって。きっと何度も思い出す。好きな世界観ではないけど、心に刺さった。そういう作品を、もとより好意をもっていた人が書いたから、驚いたし深く印象に残ったんだよね。

光 (集英社文庫)

こんなものを書く人だったのか!って驚いて、それまでの良い印象吹き飛んでアンチになる。一人のひとの中にある、色んな面のたった一箇所、一面だけを取り出して、「こんな面もあるアレな奴」一色に染め上げたりしないでねー。そう、通りすがりの小学生男子見て思った。

 

厳しい面もあれば、そうでない一面を持ってる人がほとんどなんだよね。一面だけがその人の真実って場合もあるけど。自分に向けられた面が厳しかった時は、いくつもある面からわざわざ厳しい面向けてくるんだから、何か意味があるんでしょとまず考える。

 

良い面を見たいと思ったら、そうでない一面、なるたけ探すよ。どうしても見つからない場合は、しょうがないかなー。

 

小学生男子が『光』を読むのが、どれくらい普通のことかわかんないや。大人が見ても楽しめるアニメやコミックが増えたから、大人びた子どもになってしまうってこともあるのかも。

 

介護でしょ、年金でしょ。小学生の間から考えることいっぱいで、しかも人生80年以上あったりするんだよ。子どもの間は、考えることも大事だけど、感じることも同じように大切にして、息抜きしなよって思っちゃう。世間も一緒に大人への階段上って行けたらいーんだけど。すいません、カルタする人のイラストがいっぱい入った絵しかない本買ってます。

 

おまけに、岩波少年文庫の『トムは真夜中の庭で』や『時の旅人』読み直したいって今モーレツに思ってる。素朴な面白さをもう一度体験したいんだよね。

 

お休みなさーい。