クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

風立ちぬは風吹きまくり

大泣きしたい気分だったので

人目憚らずに泣いても怪しまれないよう、映画館に行った。

誰かが「号泣した」って書いてたから、見たのは「風立ちぬ」。

 

号泣する準備は万端。さぁ泣かしてもらいましょう!

出でよ涙っ!てな気分で、わくわくしながら涙腺決壊するのを待った。

 

映画始まって、ちょっとウルッときた。ここか、ここか、ここなのか。

でも滂沱の涙流すほどじゃないわよね。

おっ、今度こそここか。でも映画の登場人物ほどには泣けないんだよね。

あらら、映画終わっちゃった。結局泣けないままだった。

私ってやっぱり冷たい女だったんだろうか。

 

正直よくわからない映画だった。

 

「風立ちぬ」は一応読んでるけど、ずいぶんストーリーが変わってるし、

堀越二郎なる人物は初耳だった。

色んな出来事が起こる割には、全てが淡々としていて、

映画ならではのキメ台詞も極端に少ない。どう受け止めていいのか戸惑った。

もしもこの映画を一本見ただけで、

「このシーンにおける二郎の心情を140文字以内で考察せよ」とか言われたら、

いや誰もそんなこと頼んでこないんだけど、すごく困るなと思った。

 

だって、考えようにもあまりにも手掛かりに乏しい。考えたってわからない。

。。。あっ、そっか。考えてもわからないなら、ただ感じればいいのかもしれない。

 

私が感じたのは、「風」。

 

草原で、高原で。故郷で、どことも知れぬ異国で。

何ってたってタイトルが「風立ちぬ」だけあって、風吹きまくり。

 

風が二郎に色々なものを運んでくる。

それは二郎の夢ー飛行機ーを、空高く舞い上がらせもするけれど、

地表に無残に叩きつけもする。

 

カストルプやカプローニといった、思いがけない人物との出会いや

最愛の人・菜穂子との出会いも運んでくれば、

 

全てを焼き尽くすような、禍々しい火をも運んでくる。

 

全ての風が吹き終わった後、二郎は静かにただ立っている。

戦争には負けた。愛した人はもういない。そばに居るのは今はもう居ない友だけ。

風に流され、受け止め、巻き込まれて、

最後には何も残らなくても、妙にすっきりさっぱりした様子でただそこに居る。

 

あぁそういう人生も有りかもしれない、ただそう思った。

 

自分の生きた証として、何かはっきりと形に残るもの、

それは家族だったり、目に見える立派な業績、

「この橋作ったのパパなんだ☆」とか

「駅前のオブジェはママが作ったのよ♪」と、誇りたい人とは全く別の人生で、

そういう目に見えるものを大切にする人からはわかりにくい、

でも、少なからずそーいう人だって居るよねっていう生き方を見たんだと思った。

 

全てを無くし、先に逝った友人だけを友に、

そんな状況でもまぁ酒でも飲むかって心境になれたら、

それはそれで結構素敵な人生だと思う。

 

なのに号泣しなかったのは、ただ単に知ってたから。

もうずっと以前に、そういう生き方も有りだとわかってたから。

 

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ここから蛇足。

 

何かを考えないといけないのに、手掛かりに乏しくて途方に暮れそう。

誰かに聞いて考えたら、それは自分の考えではなくなる可能性があるから、

とにかく自分で考えて答えを出したい。そんな時は感情に従うようにしている。

 

怖いとかじゃなくて、どうしてそこまでするのか。

「どうして」の部分を埋めたかった。なるほどそうだったのかと深く納得することで、

初めて動き出せることもあるから。そこまで考えて筋書き書いた人がもし居たとしたら、

ものすご~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~く性悪だと思うけど。