クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

観光客でおぎなえる

ひじきとひき肉のパスタ。

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本日の晩ごはん。

バターにしょうゆ、酒にみりんで味付けした甘辛味で、ご飯ともきっと相性よしだけど、パスタにして食べる。やったことないけど、トーストにしてチーズをトッピングしても大丈夫な気がしてきた。

 

節約レシピの一種で、この手のレシピの引き出しが増えると家計防衛力も強まる感じ。それ子供に言えんの?親に言えんの?友達に知られても恥ずかしくないの?という副業に精を出すよりも真っ当さ。

 

人に言えない秘密を共有することで、より強くなる絆なんて、イラネー。世の中が二極化するからと、それまでこき下ろしてきた“上の方“に遅れてはせ参じる人種を待ち受けるのは永遠の「牛後」。ゆっくりとしか進まない牛の後について、行列作って待つだけやね。

 

札幌駅前に大通り周辺にすすきのに。知ってるだけで、今現在3件のホテルが建設中。雪だるまのホテルとして知られた大通公園に隣接するホテルも、今は外資系のホテルとして生まれ変わってる。

 

ここ数年で、市内にずいぶん増えた気がするのは、ホテル。あらここもあそこもと、利便性の高い場所にポコポコできた。

 

住民の数が減っても観光客で補うことができたら、とりあえず社会インフラの維持、地下鉄とか市電とか上下水道とか電気とかはダイジョーブ。社会インフラが劣化すると、住民の生活の質もいきなり下がってお先真っ暗な気分になるから、観光客ウェルカムな姿勢は結局は住民のため。だと思ってる。

 

地元愛には二種類あって、地元の「顔」には誰がなってもいいから地元が潤えばいい人と、ここはわしらのシマやとばかりに、地元の「顔」には自分や自分に連なる人たちがならないと気が済まない人と。理の人と情の人と。二種類あると言いたいだけで、特にオチはなし。

 

観光客に代表される、よそ者の存在感が大きくなることで地元愛に火がついて、地元、ローカルを代表する人に権力を集中させようとすると、ポピュリズムに火がつくのかも。かもかも。

 

近未来、政治の世界に駆り出されたら気の毒だと思うローカル著名人がいるけれど、ローカルから全国に飛び出した著名人だからこそ、逃げられないようがっちり鎖でつながれて、政治利用される未来がチラついてしょうがない。本人たちが望んでのことだったら、余計なお世話やね。

 

保守化して全体主義に寄っていくその根本には、「地獄への道は善意で舗装されている」がきっとある。シュリンクする環境にあってもう個人主義を貫けないほど、大勢の生活を背負う立場に押し上げられたら、自然とその振舞いは保守化するし全体主義化する。

 

保守化して全体主義化するなかで足りないのはその真逆の立場で、個人が生き残りをかけた時、理想ではなく計算でそっちに寄っていく人もいるから注意しましょっ、と。

 

お休みなさーい。

つれない

どれだけ尽くしても報われない。誰に尽くされようが貢がれようが意にも介さず、愛したいものにしか愛を返さないのが、芸術や文化。

 

上場するもしないも企業の自由で、“企業文化”を守りたいからと敢えて上場しない場合もあるけれど。企業が危機に陥った時、それまで守ってきた“文化“が彼らを守ってくれるのかどうかは気になるところ。文化の方だって、あっちからもこっちからも”助けて“の声が上がるばっかりで、いやもう手一杯なんすわと言いたいかもね。かもかも。

 

本州では桜が、チューリップが、菜の花が咲いたと春爛漫っぽくて羨ましい。

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すっきりと晴れ渡ってはいるけれど、空気は冷んやり、蕾は固い。桜よりもひとあし先に咲くこぶしも、当分は咲きそうにない。

 

雪が消える3~4月は、一年のうちで最も見るべきものもない季節。花が咲くのもまだ先だから、殺風景なことこの上ない。とはいうものの。卒業旅行らしい観光客の姿はそれなりに多く、グルメランキングに載るような人気のお店は、どこも賑わっている。並ばなきゃ入れねぇ。

 

気が付けば、もう3月が終わる。年度末できれいに締められるところばかりではないにしても、〆と思うとすっきりさっぱり。

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天気がいいので、久しぶりに中島公園までてくてく歩く。ほんの数ヵ月ぶりに歩くだけで、店の看板が変わり、古い建物がなくなり、新しい建物が出来上がったり建設中だったりで、たったひと冬のこととは思えないほど、変化がある。

 

地べたのお値段、上がったものね。。

 

それなりに街中にあるだけの、特に特徴らしい特徴もないようなビルが、びっくりするような値段で売れてるんだから、やっぱり地価は上昇してるんだと実感できる。わかることが増えると、面白いと感じることも増えるそうで。

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中島公園の池には、まだ氷。

ここ数年間で、一ブロックあるいは一エリアで実際に動いた金額と、動いたお金の裏にあるドラマを知ってる人ならきっと、ただ街を歩くだけでも興奮できそう。欲望を刺激された人が動いて、お金が動いて、街の景色が変わった。

 

きれいは汚い、汚いはきれいと口ずさみたくなるけれど、一概にそうとも言えなさそうで、奥が深い。周囲が変わっていくなかで、変わらない方が難しい。

 

一見変わらないように見えるお店も“中の人“がすっかり入れ替わっているかもしれず、変わらずにそのままでいる方が、変わってしまうよりも無理ゲ―。

 

一年のうち最も見るべきものもない季節だから遠出する意欲もわかず、本読んだり動画や映画見たりとインドアに過ごした冬の終わり。心に残ったのは、もう死んでしまった人の言葉。

 

基礎、最初の設計がしっかりしてたから、その人の残した作品は今でも相応の地位にあって、大したもんだねと今でも感心できる。そもそもニッチな領域で、模倣犯が真似できないレベルまで作り込むと唯一の存在になれることを証明してる。その代わり後に続くものが出てこなければ、後はもう“公”にでもなるしか生き残る道もなさそうなんだけど、それはその人が望んだことなのか。

 

最初に設計されてから数十年、下手したら半世紀を経て、攻守の立場がすっかり入れ替わるようで、見てるだけなら面白い。中の人はどう思うのか、知らんけどさ。

 

お休みなさーい。

つぶ餡かこし餡か

つぶ餡派かこし餡派かは神学論争みたいなもので、永遠に決着なんてつかない。最終的には「好み」という、曖昧なくせに改宗困難な理由に落ち着くものに、そもそも優劣なんてつけられないし、つけようもない。

 

あら?あらららら?

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既視感のある、あんこをパイで包んだ和洋折衷菓子。

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こちらは北海道を代表するお菓子メーカー、六花亭のもの。中身はつぶ餡。北海道命名百五十年記念のお菓子。

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一方こちらは、札幌ローカルのお菓子メーカーで北海道内でも広く知られた千秋庵のもの。中身はこし餡。季節に合わせ、中のフィリングが時々に変わるのも嬉しいところ。どちらも甲乙つけがたい、間違いのない美味しさで、ミルクやミルクをたっぷり使った飲み物と相性ピッタリ系。うまうま。

 

なんだけど。

 

今では六花亭の方がすっかり大きくなったけど、もともとは千秋庵から分かれたお店。名前を変えて、ビッグになった。らしい。

 

白い恋人面白い恋人だったら訴訟沙汰になったけれど、こういうケースはどうなんでしょ。縁もゆかりもある(らしい)二つの会社。一方はメーカーを代表する、ローカルな人に広く親しまれてきた人気のお菓子。もう一方は、北海道を代表するお菓子メーカーが出した新興の、でも北海道命名百五十年記念という記念のお菓子。

 

この後北海道ゆかりのお菓子メーカーは、続々と“あんこをパイで包んだ和洋折衷菓子”を発売するんだろうか。ネーミングも各社自由につける方向で。

 

あらそのやり方だったら、さっぽろスイーツで見たやつと、似てなくもない。ちなみに、さっぽろスイーツ2018グランプリ作品は、“さっぽろ抹茶チーズ~お豆とともに~”。さっぽろスイーツの場合は、“さっぽろ抹茶チーズ~お豆とともに~”という商品名を変えないところが、キモ。

 

ローカルのメーカーが、それぞれの個性を生かしつつ“札幌のスイーツは美味しいよ♪”と盛り上げようとするなら、みんなで一緒に。みんなで一緒と横並びになれないほど大きくなったら違うフェーズで市場を取りに行き、ライバルは早めに叩き潰そうとするのか。

 

扱ってるものはお菓子で、食べたらほっこりにっこりできんだけどさ。この二品には、追うものと追われるものとの火花が実はバチバチ散ってるぜ。最前線だぜ。と、思うと代わり映えのしない日常でもスリリングで、感受性は自分で守るもの。

 

札幌ローカルを代表するお菓子メーカーの本店は、現在工事中でいつリニューアルオープンするのかと密かに楽しみにしてる。狸小路商店街にも近く、言ってみれば旧市街の中でランドマークになれる場所。何かのポータルにももってこい。

 

10年20年先に、生き残っているのはどちらになるのか。その筋書きを勝手に考えるのは、使い古されたネタが散見されるフィクションを読んだり見たりするより面白い。何しろ答えはわからないんだから。

 

子供が居たら、その子にどんな人生を望んだのかと考えることは、いつでも楽しい遊び。あれもこれもと望むなかで、優先順位が高いのは金融教育。社会人になると、入る会社や配属先によっては現株取引禁止がされてたりするからな(投資信託その他はセーフのケース多し)。

 

少額を種銭として渡し、まずはこれで買えそうな株見つけて増やしてみれば?と、やらせてみたい。

 

有名ではないけれど業績もいい、いい会社が世の中にはあると知ることが、現株取引をやる一番のメリット。世の中の動きと連動した生きた教材から、教科書では学べない生臭さも学んで欲しい。

 

お金も生き物だから、不道徳な面が急成長する時もあれば、その逆もある。世の中が今どちらの方向に向かっているのか。お金の動きから学べることも多く、そのネタは日常に転がってる。そうか、この商品を扱ってる会社が一兆円企業か。。と知ると、なかなかに感慨深く、なぜ今日のグーグルカレンダーのロゴは、ジョージ・ピーボディなんすかね。

 

Wikipediaの記事は真似するには訓練が必要で、相当熱意あるいは覚悟でもないと、取り組めない。編集方針も記事の書き方もすべてオープンで、その気になったら誰でもできそうでできないこと。何しろボランティアだ。今もすべてオープンかどうかは知らね。

 

まずはブログで練習しようとしたけれど、5秒で諦めた。主観的な文章を書きたいから、ブログというフォーマットを選んで満足してる。

 

お休みなさーい。

小姑AI

人里離れた場所で自給自足生活を夢見る人は、他人に頼りたくない人。

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小指いっぽん動かすだけでも大きな反響を呼ぶような人は、いつどこで何に対して自身の影響力を使うべきか。悩みも尽きなさそう。

 

体感的にはバレンタインの時より人が多かった気がする、ホワイトデー売場。私は自分への贈り物を買いに行きました。

 

進学や就職で子供は独立し、配偶者は大都市やあるいは海外勤務で留守を預かっているような女性が、地方には多いような気がする。札幌も、男性より女性の人数の方が多いけれど、独身女性も多く、あるいは女性の方が長生きゆえに数が多い可能性は大いにあり。

 

男性より女性の方が多い職場だったら、マイノリティである男性がマジョリティの女性に気を遣うのは、職場環境を良好に保つための処世術。なのかどうかは知らないけれど、ワッサワッサと買い込まれたプレゼント用のお菓子。どうぞお納めくださいと、三顧の礼で差し出されるお供えにも見えてくる。

 

立つ鳥跡を濁すで何の未練もない職場だったら、お彼岸用のお供え菓子をプレゼントしてもいいかも。落雁固めた不味そうなやつ。身の安全対策として、翌日から有給消化でもう職場に顔を出す必要がないような状態にしとかないと、大変だけど。貰ったもの、その場で開ける人はいないじゃん?

 

僕・私は社会を変える人。社会を変えるにはお金が必要だから、社会を変えないあんたたちは僕・私のためにお金稼ぐ道具になってよが、あまりにもあからさまになったのが今のSNS

 

うっかり、イイね!と承認するのもおっかねぇ。

 

みんなで一緒に豊かになろう!と持たざる者の労働力をアテにされても困るし、みんなで一緒に貧乏になろう!と豊かな人のフトコロをあてにされても困る。

 

要は思想(というほど立派なものでもないけれど。。)や経済力への介入ってことだから、功利や打算が透けて見えると、ただもうひたすら無視したい。もちろん、分かり合えないと無視されてもヘーキ。

 

個人に最適化しやすいよう、事前にある程度ローカライズされたAIを作る必要が出てきた時。日本の、特に地方都市でのローカライズにぴったりなのは「小姑根性」。ウザいけど、ローカライズを考えた時、これ以上ピッタリくる言葉もないと思う。

 

イヤだけどな。小姑っぽいAI。

 

重箱の隅を突くように、あーでもないこーでもないとダメだしされたらイヤすぎる。ただし、イヤな人格だから、今時あからさまにする人の方が珍しく、上下関係のある職場でやると、今だったらパワハラ認定されかねないから、ホワイトな職場にはそもそもいない属性。

 

だから、家に居ながらにして社会に揉まれることになって、社会に出た時の理想と現実のギャップにも苦しまずに済む。むしろ、限度を知らないAIよりもリアルな人はなんて優しいんだと、ポジティブに考えられるかも。かもかも。

 

最初はまっさらだったAIが、徐々に人格の悪さを獲得して露悪的に振る舞うようになる未来。あぁイヤだ、ディストピア

 

やっぱり小姑っぽいAIよりも、フレンドリーかつ礼儀正しく愛らしいAIの方が、百倍も好ましい。

 

お休みなさーい。

あとで読む

オリンピックのような大きなイベントで、勝利に一喜一憂しながら浮かれ騒ぐのは、うれしい楽しいで一緒になった極北の姿。極北って使いたかったんだ。

 

うれしい楽しいで一緒になれる人と、辛い苦しいで一緒、一体感を得られる人と。大きく分けたら世の中はこの二つのタイプに分かれそうでもあるけど、喜怒哀楽といった感情表出にためらいのない人は、どちらのクラスタにも馴染めるから説得力はなし。

 

辛いに一本足したら幸せになれるから、離合集散を好む人は辛い苦しいで一緒になって、幸せになれたらハイさようならを繰り返すのかも。うれしい楽しいからイチ抜けし、抜けた後のグループがグタグタになってダメになるのを見るよりは、後味は良さげ。

 

離合集散、くっついたり離れたりを繰り返す組織化のお話で、イチを足すのが得意な人もいれば、イチ抜けして崩壊に導くのが得意な人もきっといる。適材適所は、その逆をやらないことよな。

 

Jリーグがeスポーツに参戦して何するの???と思ったけれど、eスポーツでもサッカーするんですね。プロゲーマーがやるようなゲームは格闘系との思い込みがあったので、サッカーゲームもいまだ健在だったかと、新鮮な気持ち。

 

現実のサッカービジネスを彷彿とさせる、課金要素っぽいものもしっかり実装されていて、ネットとリアルの一体化スポーツ版をしっかり感じる。

 

熱心なファンは熱心な評論家、“大いなる聴衆”になりがち。

 

何を言われようとしょせん“大いなる聴衆”の戯言と、馬鹿にして見下して取り合わない、鉄の心臓の持主ならともかく。取るに足らないファンの身勝手な言動が、束になって選手に襲い掛かってダメージを与えた姿、つい先日の平昌オリンピックでも見たばかり。

 

スポーツ観戦の趣味はないのでよく知らないけれど、同様の、結果に納得できないファンのアンチコメント攻撃によって、選手がメンタル面をやられたケースは、表沙汰にならないだけでこれまでにも結構あったのかも。

 

気にしないようにしたところで、人間だもの。選手は生身の人間だから、AIで代替するわけにもいかず。だったら、“大いなる聴衆”の方を仮想空間上に引っ張り上げて、評論の代わりに実際にプレイもするファンになってもらった方が生産的。と、考えたどうかは知らね。

 

人気選手のアバターとなって活躍したい人、それなりに居そうだからキャラクタービジネスが捗るよな。あるいは生身の人間は酷使できないけれど、仮想空間上で仮想選手が活躍するだけだったら、年間試合数も限りなく増やせそう。と、勝手な妄想も捗る。

 

こういう妄想は、言語化するのも苦ではない。

 

読むのもつらい読み物は、書いた方、言葉にする方もきっとつらい。整理のつかない気持ちを引っ張り出してこねくり回し、言語化する作業はただでさえ骨の折れるもの。思い出したくもない、封印した記憶を手繰り寄せるとなれば、疲労度もさらに増す。

 

読むのもつらく、言語化する方もきっとつらかったんだろうという読み物は、同じような経験をした人ほど強く共鳴し、つらさが増すのがわかるものだから、敢えて避ける人もいる。

 

今は思ったほど読まれないけれど、あと何十年かしたらきっと今とはゼロの桁が違う数で、共感をもって受け入れられそうな読み物は、ただ時代に早過ぎるのかも。

 

現実の事件や出来事を彷彿とさせる、”事実に基づいた物語”を肯定したくない派ではあるけれど、時代に早過ぎ場所が近過ぎる、それでいて誰かに語るべき手法としてはある種の優しさでもあるのかも。逃げでもあるけれど。

 

肯定したくないのは、オモチャにした後はハイさようならと放り出したくなるようなことには、最初から手を出すなという気持ちがあるから。

 

誰も経験したことのない未曽有の災害や悲劇を伝える生々しい声を、どこの引き出しにしまうべきか。あとで読むタグは、単純にサクサク処理できない、こういう時に便利ね。

 

お休みなさーい。

知らんがな

さらしきってない生のタマネギを食べると、近頃はキモチワルイ。軽く頭痛と吐き気がし、気持ち悪さに耐えること数時間。気を紛らわすために眺めるのは、美味しそうな食べ物がたくさん載った何か。

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これは雨が降る前。このあと雨が降る。

レシピだったり、スイーツランキングだったり。

 

まともに頭使って考える、思考力を要する小難しい本なんかは、体調が悪い時には内容が頭に入ってこない。気晴らしとはよく言ったもので、レシピやスイーツランキングは、気晴らしにぴったり。今だったら“ままどおる”、それもチョコ味が食べたいやね。食べたことないから。

 

今年のアカデミー賞の授賞式中継は視聴率がイマイチだったと聞いたけれど、真偽は知らね。あんまり楽しみにしてなかったのも確か。

 

Me Tooムーブメントのせいで、真っ黒のドレスばかりになるかと思うとセレブウォッチングにも気が乗らず。今年はアメリカ中間選挙の年だから、受賞者その他のどんなスピーチも政治的アピール臭がしそうで、まともに聞く気にもなれず。

 

政治臭が過度に漂うようになると、一年に一度の映画の祭典をただ楽しみたい派としては、関心も急降下。政治”ショー”には、興味関心が薄いんだ。

 

日本だって今年は自民党総裁選の年で、選挙戦ではお金が動いて広告代理店も動くから、ステマと同じく知らぬ間に「作為的に拡散された不適切な情報」に触れる恐れがあって、ステマに利用される恐れさえあるから、知らんがな。

 

ステマ嫌いとしては、「一見これは一般市民の素朴な意見っぽく見えますが、実はスポンサーの意向を受けての政治的発言です」マークくらい欲しいところ。

 

どうせお金使うなら、記事広告としてちゃんと広告枠買ってアピールすればいいと思うけれど、オープンな場所でも臆せず出てこれる人は限られるから、きっとそっち方向には行かなさそう。

 

ヘイトを容認拡散するのも国民感情の一部だから、マイナスの国民感情に配慮する政治家だったら要らない。ヘイトを容認拡散したい国民感情を理解する政治家を欲する限り、“自分達の器以上のリーダー”は決して持てない。だから、マイナスの国民感情に対しては政治的にきっぱり引導渡して欲しい。

 

という面倒くさげなことを思いついたのは、『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』という古い本を引っ張り出したから。

 

雪が降ったあとに雨が降り、足元が悪くて外出意欲も削がれまくりだから、インドアに過ごした一日。札幌はさほどでもないけれど、記録的な大雨で雪解け水が洪水に変わり、テレビのニュースでは終始警報が流れていた。

 

『砂のように眠る~』は、1997年の時点から戦後の昭和を振り返ったもの。ざっくりいえば熱狂のあと、宴のあとを振り返っている。フィクションとノンフィクションが交互に現れる趣向で、戦後の象徴的な出来事、浅間山荘事件や田中角栄のネガティブな面を取り沙汰している。

 

同時代の熱狂の中ではかき消されてしまう意見も、熱狂の去ったあとだと書き残しやすいのか。書き残された「個人の意見」がどこまで時の試練に耐えるかはまた別モノだけど、同時代の熱狂を醒めた目で分析した、とはいえ事実の羅列ではない感情込みで記述されてるから、何度も読み返せる。

 

事実の羅列だけでは退屈で、感情の奔流をただ受け止めるのも荷が重い。感情の抑制がほどよく効いていて、こんな風に歴史を記述する方法もあるのかと目からウロコが落ちる。

 

死んだら仏様は、日本以外にも仏教信仰とリンクした東洋ではどこでも見られるものなのか。

 

本人には訂正することもできない、事実とはかけ離れた悪評や風評被害が出回り過ぎて生きるのさえ辛くなった人に、死んだら仏様になれてもう悪口は聞こえてこないよという悪魔の囁きは、甘美に聞こえることもある。

 

事実とはかけ離れた悪評や風評被害をまき散らすことにメリットがある方に、やめろと言っても抑止力はないから、そこはやっぱり「死んだら仏様?ナニソレ?」という文化をぶつけて封じ込めるくらいしか、思いつかないよな。

 

お休みなさーい。

123歳まで生きられる

花粉の代わりに小雪が舞い、最高気温も最低気温もマイナスとなった真冬日。冬用コートを引っ張り出す。寒い。

 

123歳まで生きられる未来はお好きですか?私はイヤです。

 

一生をかけて追及したい何かがある人はともかく。長い長い老後を、どうやって過ごすんですかね。一生をかけて追及したい何かがあっても、先立つもの、お金がなければどうしようもない。123歳まで生きる未来について、何よりも知りたいのは老後破産しないマネープランと、長寿社会でもパンクしない社会保障制度についてさ。

 

新興国と、新興国のダブルスコアを生きる先進国と。社会の在り方があまりにも異なると、分断もさらに深まりそうなんて思ったところ、エチオピアでさえ平均寿命はすでに64歳(2015年)を超えていた。あらら。

 

40歳代後半あるいは50歳代前半かと、勝手にイメージしてた。報道で知るアフリカはネガティブニュースが多いから、今でも長生きが難しいエリアかと思っていたけれど、想像よりもずっと社会は安定していた。世界平均では67歳。

 

若年人口を、たっぷり含んでいるかどうかで国のカタチや活力も違ってくるけれど、社会が安定すれば寿命が延びるのは間違いなし。

 

先進国には都市の貧困や格差がつきものだけど、その層にも健康で文化的な生活が保障されたら、理論上は123歳まで生きるのも難しくないのかも。かもかも。

 

パラリンピック日本アイスホッケーチームの平均年齢は、42歳。ゴールキーパーは61歳。失った機能の代わりに強力なツールが手に入れば、いくつになってもアスリートとして活躍できる。

 

ついでにパワースーツがあれば、非力ではない、パワフルな老人にだって変身可能で、スリやひったくりにだって対抗できそうで、いくつになっても臆することなく外出だってできる。

 

本当は、非力な人だって堂々と外出できる方が望ましいんだけどさ。

 

現実にはおんな子供や老人とみれば、容赦なく暴力をふるったり、甘い言葉でだまくらかしたり。危険がいっぱい。ゲーテッドシティの中だったら、おんな子供や老人でも安心して暮らせる度合いは上昇するから、ゲーテッドシティの中と外という、ディストピアSFでありがちな設定にも現実味が出てくる。

 

123歳まで元気で暮らせる社会は、ゲーテッドシティの中でなら想像もしやすい。

 

中と外と。侵略あるいは襲撃しようとする外敵に備えるとなると、西域あるいは北方の異民族の襲撃に悩まされた漢民族みたいで、都市生活者を脅かすものはいつだって代わり映えしない。

 

123歳まで元気で暮らせる社会で、蛮族の襲来に備えて都市の守りを固める人材は、何も若者に限らない。失われた機能をパワーアップさせる、パワースーツ的なものさえあれば誰でも、老若男女がその任務につける。

 

当然これらもSFの世界ではすでに認知されているアイデアで、認知されてるアイデアを社会に実装するのに成功したもの一等賞で、神通力あるいは影響力という名の武器を得るコンペティションとか、なくてもいい。

 

ディストピアなアイデアと知りつつ、それを実装するとか。倒錯としか思えない。果てを可視化して、可視化された果てを避けようとする方が、知性のあり方としてはよりレベルが高く見えるやね。

 

お休みなさーい。