クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

流し雛

桃のカタチをした桃カステラ。昔いちど食べたことがあって、美味しさよりも見た目の可愛いらしさで、今でも忘れがたい郷土菓子。

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これは桃マシュマロ。

長崎では雛祭りには欠かせないお菓子だそうで、雛祭り間近になると大小さまざまな大きさの桃カステラが街中に溢れる光景を思うと、ほっこりにっこり。テレビのニュースでは、紙製のお人形を依り代として川に流し、娘の健やかな成長を願う流し雛の行事が映し出されてた。

 

ひいな遊び、お人形さんで遊ぶのも、もとはといえば貴族のお遊びだったもの。昔は限られた人のお遊びだったからこそ、特に面白くなくても「お貴族様気分」でやってみたい。という需要は、きっと一定数ある。特に面白くもないものを、文句も言わずにこなせるのも、お貴族様の素養や資質のひとつ。

 

舞台を過去や外国に移し、明確な証拠や反証は示せないから雰囲気、印象操作で裁く“事実に基づいたお話”は、タチが悪いったらありゃしない。“基づいた”ってところがミソで、どこからが創作なのかあえてわかりにくくしてると、中身がどれほど誠実でも作り手に対する不誠実な印象は否めないやね。

 

作り手は、毎年うん千億という赤字出してますという一文の持つ破壊力は絶大で、だからといって、隠したい資産についてオープンにしてまで反論する馬鹿はいない。赤字や借金にしつこく言及するのは、隠し資産についてこそ知りたいから。と、考えるくらい色々なことが、素直に受け止められない今日この頃。いかんいかん。

 

「美味しそう」「きれい」「かわいい」には、あんまり裏がないから、深く考えなくて済む。

 

悪名は無名に勝るとはいえ、今年もっとも出来が悪いで賞に選ばれたラズベリー賞の作品群を見ても、そもそも知らないものばかり。古今東西の名作佳作がいつでも入手可能になると、褒めるところが見つからない作品は、どうやっても残らないようになっていくんでしょう。

 

わりと頻繁に電子書籍を利用、購入しているけれど、“タイトルがすべて“を痛感する。下世話なワード入りのタイトルの本は、やっぱり中身も下世話で、下世話な内容に感化されてはいかんと通読する気にもなれずに放り出す。

 

ことばは氷山の一角ならタイトルも氷山の一角で、その下に隠されたものの一端を端的に表してる。

 

教科書的な内容のものは、読み下すのも楽ではないけれど、そもそも感情を動かすことを勘定に入れずに書かれたものだから、読んでいるあいだも気持ちはフラット。穏やかな気持ちになれる。

 

「気」とか、スピリチュアルな方面とは縁遠いほど喜ばしいくらい興味ないんだけど、気持ちを乱さないことの偉大さこそを讃えたい、今日この頃。よくないものは、流されてゆけ。

 

お休みなさーい。

これでも弥生三月

今日から三月。雛祭りまであともうちょっと。

 

とはいえ北の国は、これから本格的な冬の始まりかな?と錯覚する、数年に一度レベルの荒天で、札幌でも朝からずっと雪。そろそろ地肌が見えそうだったベランダも、ご覧の有り様。

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不要不急の外出は控えてとの警告に素直にしたがって、大人しく過ごす。

 

北海道は猛吹雪、沖縄は地震と、春の始まりは波乱ぶくみ。

 

女性の社会進出の歴史は、過去にはできなかったことや当たり前ではなかったことが、今では当たり前になるという営みの積み重ねで、今さらもう不自由だった昔には戻れない。とはいえ人口逆ピラミッド型の日本では、女性の社会進出が今のように当たり前ではなかった時代の記憶濃厚な女性の数の方が多い。

 

私たちの時はもっと大変だった、苦労した。なのに。。という数に勝る人たちの不満を封じ込めるには、窮屈でも法やルールで縛るしかない。逆に言えば、法やルールで縛って対抗策を講じない限り、少数者は際限なく負け続けてイヤな思いをさせられる。

 

『ザ・タウン』という映画は、ベン・アフレック率いる覆面強盗集団に銀行の女性支店長が誘拐され、誘拐したものとされたものとが恋に落ちるという、ありえそうにないストーリーで展開するアクションムービー。

 

誘拐された方は、親しくなった相手が強盗とは知らないまま相手と知り合うので、思ったほど荒唐無稽ではなかった。地元で生まれ育った青年は覆面強盗で生計を立て、よそからやってきた同世代の女性は、若くして銀行の支店長というポジションの対比が何より印象的だった。

 

舞台はボストン近郊のチャールスタウンで、恐らく女性は高学歴者。勤務する銀行には年配のオジサンも大勢いるのに、大勢いるオジサン達を差し置いて支店長は若き女性だから、きっと高学歴者なんだと類推した。

 

その光景を、当たり前と思えるかどうか。

 

フィクションの中とはいえカチンとくる人は、女性の社会進出を心底では歓迎していないと思えるかも。男性でも女性でも、エリートというだけで若造がトップになるのがカチンとくる人は、覆面強盗となる地元の若者によりシンパシーを感じそうで、いざという時にはこっそり彼らの味方になってそう。

 

地元を離れられない男性にとって、強盗こそがわりのいい仕事になり、よそから来た同世代の女性は、本来彼らとはまったく交わらない世界で生きる。地元を離れられない女性とよそから来た同世代のリッチマンによるシンデレラストーリーはあっても、その逆は少ない。

 

少ない理由のひとつは、女性の方が社会的で、同性の目や評判をそれだけ気にするからとも言える。

 

正攻法、誰に聞かれても恥ずかしくない仕事で稼ぐ、若くてリッチな女性は都会では珍しくもないけれど、地方や郊外に行くほど、その数は少なくなる。ただでさえ少数派で目立ちがちな女性が、好んで噂のタネになるような話題をさらに提供する義務もなし。

 

という心理的ストッパーも、働いてるかもね。

 

それなりに能力も高く、(不幸なことに)人望もあって土地に縛りつけられるベン・アフレックレベッカ・ホールの本来始まるはずのなかった恋愛は、仁義なき戦いもどきの死闘を経て、穏やかな幕切れを迎える。

 

何事もなければとっくに後にしていた、いいことも悪いことも詰まった故郷で、本当は穏やかに暮らしたかったというラストは、すこし寂しいけど清々しくもあった。

 

涙をビジネスに変えられるのは映画だけとか言う人もいるけれど、涙をチャリンチャリンとお金に変えるビジネスシステムのために、誰かの涙を次から次へと必要とするなら興覚めもいいとこで、ちっとも清々しくないやね。

 

お休みなさーい。

完結しない物語

ハッカーのユニフォームとしてのフード付きパーカー。いつから、どういう理由で定着したんすかね。ホワイトじゃないハッカーは、だいたい目深にフード被って顔を隠した人物として描写される。

 

わかりやすくていいんだけど、そんなわかりやすい恰好のハッカーがほんとに居るのかどうかはきっと別のお話。

 

手の内はすっかりお見通しで隠し事さえできない相手との勝負なら、本人さえ知らないわからないカードを切ればいい。そのつどサイコロ振って、運を天に任せた出たとこ勝負なら、いくら手の内はすっかりお見通しでも相手も出たとこ勝負という点では互角。互角に持ち込めたなら、総合力に勝る方が勝つに決まってるから、予定外で慌てることもなし。

 

人生のほとんどすべてを京都で過ごしてきたような人が、「京都のパン屋とか言うあれはなんや?」と言ったことがある、ふた昔は前のお話。

 

当時「京都で人気」を売りに、東京で大々的に売り出されていたデニッシュパンがあった。東京に出掛けた時にたまたま目にした、ほぼ京都人のその人にとっては初めて見聞きしたパン屋さん。昔からあったのは、古い商店街の中の同じ名前のちっさなお店。そのもともとあったパン屋さんでは扱ってもいないパンは、その後「ブランド」となって今でも全国チェーンでお目にかかる。

 

今ではブランドだけど、「騙り」から始まってるそのお店の商品を、手に取ろうという気にはいまだになれず。カラクリを知っている、半径5㎞圏内の人にとっては、生涯胡散臭い印象がつきまとう。

 

古い商店街の中の同じ名前のちっさなお店は、勝手に名前を使われただけなのかそれともなのか。それさえ定かではないけれど、そもそもあった古いちっさなお店も、今はもうなくなってしまったっぽい。

 

生粋の京都人には「酷薄」というワードがよく似合う。全国47都道府県のうち、もっとも酷薄なのはどこだと問われたら、間違いなく京都がナンバーワン。純朴な地方育ちの人が想像もつかないほど、正統派の京都生まれ京都育ちな京都人は、時に冷たい一面を持つ。

 

美意識に反するものを嫌って寄せ付けない選手権でも、きっと上位入賞は間違いなし。

 

その種の捏造を防ぐゲートキーパーになりそうなのは、すべてを見ていたご老人だけど、あいにく彼らは「知っている」だけで、往々にして知ってることを「あれは怪しい」と訴える手段を持たない。

 

怪しいけれど、古いちっさなお店とブランドになったお店と。どちらが世の中の為になったのかと言えば、金銭面で見たらブランドになった方で、お金の力は世の中を変える。だから禍根を残す手法を主流にすると、ボタンは一生掛け違ったままで、ラグジュアリーにはなれずに、スーパーどまり。

 

器物百年を経て霊性をおびるように、騙りも数年経てばブランドになるのなら、言ったものやったもの勝ちで、いつまでたっても変わらない構図にゲンナリする。ゲンナリするけれど、見てるだけよりもっと身近な人たちの方が、もっとゲンナリしてるはず。

 

そういう意味では、自浄作用の効かない界隈と、自浄作用が効かないからこそ活躍できる勢と。彼らが限りなく接近することで、対消滅にも限りなく接近していくと思えばよし。飽和してるものを、今さら過剰に摂取する必要もなし。

 

権威を必要とするのは、そもそも権威からは縁遠い勢。

 

完結しない物語がめったやたらと多いけれど、フィクションの中でさえピリオドを打てないのなら、そりゃ100年企業を持て囃すわな。権威という“箔“を必要とするのは、いつだって新興なんちゃらで、箔を必要としない人はいつだって新しい場所で新しいことをやっている。

 

お休みなさーい。

遠慮のかたまり

法は正義で冷たいものだから、「でも」や「だって」といった曖昧な感情の置き場所はない。

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雪まつりという、宴のあとの雪山。

限られた任期中に自己の功績の極大化をめざし、安泰な余生めざして任期が切れたらハイさようなら。後に続く人の苦労なんて、散々煮え湯飲まされたんだから知ったこっちゃねぇ。

 

まずはマイナスから始めればいいじゃん?という不毛なサイクルを、12周くらい見聞きしたら、勝ち逃げできるシステムにこそ欠陥ありと気付いたのか。

 

逃げることさえ許されない、腐敗すれば身の破滅まで一直線かつ権力の座から退くことは自己の死まで一直線のシステムは、功績の大きな人だったからという「でも」も「だって」も許さない。

 

どんな善人でも状況次第では善人でいられないことがわかっていたら、そそも人の善性をアテにしたシステムに頼ることもない。

 

人も法もどこまでいっても不完全なら、人の情より法に裁かれる方が百倍マシと考える人は、そもそも他人に期待なんかしない。

 

春まで特にめぼしいイベントもない大通公園は、自然に雪が融けるのをただ待っている。イベントがなければ、この状態に不便を感じることもなし。

 

雪が解けて凍って路面がアイスバーンになっての繰り返しだから、局所的に路面はツルッツルで滑りやすい。

 

荷物が重たくなってしまった時は気軽にタクシーを使いたいものだけど、「近くで申し訳ないんですが」と遠慮しつつ使うのもなんだし。。と、結局は自力でどうにかしてる。

 

何人かで会食した時に、お皿に残った誰も手を伸ばさない最後のひと口ぶんを「遠慮のかたまり」とか言ったりするけれど、人より多く取ってはいけない、得してはいけないという気持ちの表れっぽくてなんだか日本人らしい。

 

遠慮なく毎回「遠慮のかたまり」に手を出すと、「あの人は口が汚い」とか言われそうなところまで含めて日本人っぽい現象。

 

相手がおんな子供、あるいは無力な老人と見るや途端に横柄になる人は一定数いるもので、「近くて申し訳ないんですが」「些細なことで申し訳ないんですが」のフレーズは、横柄な人から身を守るおまじないのようなもの。

 

でもさ、そもそもなんで遠慮しなきゃならんのよ。遠慮するくらいなら使わないわ。という気持ちを軟化してくれるのが、無人タクシー。近距離で大した金額にもならないと知ってるからこそ、気を遣う相手も居ない方がラク。

 

人が足りないとわかっている、大したお金にもならないと知っているからといって、いつでも自力で何とかできる人は、結局は強者。強者ではなくても何とかしたかったら、ツールを使えばよくて、ツールさえあればという弱者の数が、それなりに多い都市向けの解決法。

 

弱者は群れて無理を通せというのは、とってもスマートじゃない。そんなことはしたくない人は、いつだって人じゃなくてシステムに向かうんだよな。

 

悪いものに魂がないのは、魂食べられちゃったからでしょ。魂を抜かれた人型(ヒトガタ)と巡り合う機会は、できれば極小に抑えたいもの。

 

お休みなさーい。

ソーシャライトの逆襲かパワーエリートの逆襲か

二月は逃げるで、オリンピックも閉会し三月はもうすぐそこ。花粉も梅の開花も遠い世界のお話で、まずは雪解けから。レインシューズが活躍する季節が待ち遠しい。

 

情報の集まるところにお金も集まるから、銀行かIT情報サービス系か。情報がより多く集まるのはどちらかといえば、そりゃもう一目瞭然さ。ワンストップは便利な反面、相手にはこちらの情報も筒抜けと思えば、薄っすら気味が悪い。

 

金髪碧眼の欧米系セレブリティと一緒だとさほどでもないけれど、ナイスバディでブロンド美人のイヴァンカさんが、アジア系の中に一人だといやもう目立つったらありしゃしない。

 

ブロンド美人は「頭カラッポ」の代名詞でもあるから、政治家の妻には向かないとボーイフレンドに振られるところから始まる『キューティ・ブロンド』。

 

リーズ・ウィザースプーン出世作で、構えずに楽しめるコメディの良作ながらAmazonはリーズがお嫌いなのか、オスカーも獲った『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』も、Amazonビデオでは見つからず。

 

キューティ・ブロンド』を始めて見た時は、西海岸育ちのリッチで無邪気なお嬢様が、頭でっかちで感じの悪い東海岸エリートの巣窟、ハーバードロースクールに殴り込みという痛快なストーリーが、ただ面白かった。

 

西海岸と東海岸。お勉強秀才とリア充のミーハーと。相性が悪そうなもの同士を同じ土俵で戦わせてみたら、意外や意外、お勉強秀才集団はリア充のミーハーに歯が立ちませんでした。という、庶民の願望をしっかり踏まえてる。

 

リーズ・ウィザースプーン演じるピンクのお嬢様エルの武器は、負けん気の強さに加えて、彼女のリア充ネットワーク。ソロリティという、大学の社交クラブで培ったネットワークが、ここぞという時の切り札にもなってた。

 

ついでに、知る人も居ない東海岸で彼女のよき友となるのは、ネイリストでヘアスタイリストってところも見逃せない。おしゃれ大好きで身なりに気を使う女性あるあるで、リッチな女性が階級の違う普通の女性とどこで親交を深めるのか。よくわかってる。

 

エルの同級生はみな意識高い系だから、難民問題や貧困の解消といった、世界共通の社会的課題の解決に興味や関心が傾きがち。一方のエルは愛情たっぷりに育ち、学生時代も謳歌したタイプだから、興味や関心も等身大。

 

同時代に生きるエリートが最下層の人々に熱いまなざしを注ぐ一方で、真ん中の人はすっ飛ばす。その、すっ飛ばされがちな真ん中の層を、エルのネットワークは巧妙に拾い上げる。

 

友愛で結ばれたネットワークの前に、新しい世界の扉が次々開いていく。鍵となるのは友愛だから、「繋がっとけば有利」という打算や功利が入り込んだ時から、ネットワークは変質する。嬉しいや楽しいというポジティブな気持ちで繋がったネットワークは強く、ネガティブな感情で繋がったネットワークほど脆い。

 

キューティ・ブロンド』を今見返したら、お勉強秀才というパワーエリートに対し、ソーシャライト(Socialite)の勃興、あるいはカウンターと見ることもできそうだけど、何しろAmazonビデオ化されてないので、確かめられず。

 

ソーシャライトとは、ざっくり言えばお金持ちの家に生まれ、その生まれ育ちを生かして社会的に活動する人のこと。黙ってても大金、腐らないお金が転がり込んでくる階層の人は確かに存在するんだから、その種の人にしかできない活動をしてもらうのは、ある意味合理的。

 

その種の人にしかできない活動とは、コネを生かした社交生活。コネの前に開く扉があれば、躊躇なく開くのもソーシャライトの必要にして十分な資質で、エルはその資質を存分に生かして大活躍してた。

 

本来は友愛で結ばれたネットワークだから、功利や打算でのみ形成されたネットワーク持ちのソーシャライトが、社会に悪影響を与えるのはいかがなものか。という悪しき例が増えた時が、ソーシャライトの見直し時で、お勉強秀才集団であるパワーエリートの逆襲が始まる時。

 

と、考えると今日も明日も明後日も平和に過ごせる。

 

お休みなさーい。

競技のルール

なぜこの場所にこんな人が?と思う、カッコいいだけでなく豊かそうで、余裕たっぷりだから礼儀正しく腰の低い、ステキ欧米系外国人個人観光客を見掛ける平日真っ昼間のデパ地下。

 

富裕層をターゲットとしたインバウンド観光に、札幌市は予算たっぷり使ってくれても全然かまわないと思ったね。

 

オリンピック女子フィギュアスケートの女王様が決定する日。最終滑走グループが滑り始める前に家を出るはずが、始まってしまったらやっぱり見てしまう。録画してるのに、つい見ちゃう。

 

実力が拮抗する上位グループに、自己ベスト更新で波に乗りそうな上位グループを追う勢と。大番狂わせを期待するも、結果は順当。赤いチュチュ着たザギトワが金メダル。最終滑走者メドベージェワの得点にブーイングの声が上がる観客席の反応は、判官びいきも含めて観客のハートを掴んだのはメドベージェワだったということかもね。

 

競技だから、やっぱり最後は技術点がものを言うけれど、情感たっぷりに見る人の情動を大きく揺さぶってくる演技の方が、記憶に残りやすい。

 

そもそもフィギュアスケートが人気なのは、情動を揺さぶる情感込みの競技だからで、もしもフィギュアから音楽が消え、情感を伴った演技が消えたら今のような人気を保てるのだろうかと時々思う。

 

技術という絶対評価と、演技構成点による美しさという相対評価がひとつの競技の中に混然一体となって存在することで、「完全勝利」のハードルを次から次へと上げていけるところが競技の魅力。

 

赤いチュチュ着て、跳ねて飛んで。若くて溌溂として元気いっぱいね。でも、情感面ではメドベージェワと拮抗してるから、メドベージェワの情感面がもっと評価されていれば、逆転もあったかもねと「たられば」の話は尽きることがない。

 

情感という表現を語る上で絶対はないから、そこに作為、あるいは操作の余地を勝手にみつけることができる。

 

こんな競技があったら面白いなと、勝手にフィギュアスケートの未来のカタチを想像する。

 

自己の否定は進化への第一歩とか言うらしいから、フィギュアスケートからまず音楽を消してみる。音楽なしで、規定時間内にどれだけ多くのジャンプを飛べるか勝負。三回転、あるいは四回転に二回転と、単純に成功したジャンプの回転数を足していって、数の多いもの勝ち。

 

回転数が同じだったら、より難易度の高いジャンプを飛んだ方が勝ちで、フィギュアスケートの技術面に振り切った競技。絶対評価しか存在しないから、操作の余地あるいは作為の入り込む余地もなし。という競技には、一定数の支持がありそうなもんだけど、どうなんでしょ。

 

とはいえフィギュアスケートの魅力は、情感たっぷりに魅せる表現力にこそアリ。という人の方がきっと多数で、だからアイスショーには大勢のファンが押し掛ける。フィギュアスケートから音楽が消え、情感も消えたその先には、“それもうヒトがやることないじゃん”という次元がきっと待っている。フィギュアスケートのような競技ではまだまだ先だけど。

 

でも、より早くやより強くといった、わかりやすい指標に振り切り最速や最強が総取りできる競技世界が来たら、そのためには人体改造も厭わない人種はきっと出てくるに違いない。と、勝手に思ってる。

 

近未来にはオリンピックとパラリンピックの垣根さえ取っ払われ、最強と最速だけをひたすら追及する競技さえ誕生するかもしれないけれど、なかばサイボーグ化した人間と生身の人間がぶつかり合う、「万人の万人に対する闘争」が実現した無階級社会って、おっかないでしょ。

 

階級は、各競技や競技者を守るために設けられたもの。

 

強いものと対戦したくない時には、階級を越えて弱きものを対戦相手に選ぶ。そんな戦術は、階級のある競技では外道だから、外道は外道にふさわしい末路を辿るんでしょ。弱いものいじめが骨の髄まで染みついた人が、いかにもやりそうなことよね。

 

お休みなさーい。

愛情と敬意>好奇心

誰もが表現できる時代だからこそ「個」の気配が消えた、長文であっても読みやすく、個性らしい個性が感じられないことが逆に個性になっている。そんな文章に、価値があるように思える今日この頃。

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煮りんごのケーキ。

自分で書くものは、到底そのレベルには達しないんだけどさ。

 

イヴ・サンローランの生涯をテーマにした、ドキュメンタリーと伝記風な二種類の映画を見たことがある。対象として取り上げる人物への愛情と敬意が、好奇心に勝っているかどうかで、見終わった後の印象もずいぶん異なるものだと思った。

 

愛情と敬意に勝っていれば、対象となった人物も好ましく思え、好奇心に勝った好奇の視線が強ければ、好ましからざる人物としての印象が強くなる。

 

描く人によって描かれる人物の印象は、よくも悪くもどうとでもなるんだよな。

 

だから多面で複雑な内面を持つ人を、一方向から見た「赤の他人」によるプレゼンテーションを鵜呑みにして、簡単に評価しちゃいかんいかん。ということで、堤清二氏に関する二冊目の本『叙情と闘争 辻井喬堤清二回顧録』を消化中。

 

先に読んだ『堤清二 罪と業 最後の「告白」』に比べれば、とっても読み進めにくい。1ページあたりの情報量が二倍くらい濃いから、読むスピードもそれだけ遅くなる。

 

堤康次郎という、西武グループの創業者にして衆議院議長まで務めた政治家の父を持ち、学生時代は共産党員として活動、卒業後は経営者にして文学者だからな、堤清二氏。

 

政界・財界に文芸界隈と、交友のあった人物や界隈が多彩で多岐。しかも世に知られた著名な人物ばっかりで、個人史がそのまんま昭和史に直結しそうな勢い。コネがあったとはいえ、マッカーサーアイゼンハワーにまで会ってるって言うんだから、そりゃすごい。

 

勢いのあるニューリッチの前には、次から次へと各界の扉が開くものなのかと、錯覚する。癖のある人物だったとはいえ、大物政治家の息子ならではと言うべきか。

 

最初は読み難くて生硬だった文章も、章を追うごとにどんどん読みやすくなってゆき、鬱陶しそう面倒くさそうな人という印象も、薄れていく。むしろ、冷製で理知的な面が露わになっていく。

 

面白かったのは、不仲と噂されていた義弟にして西武鉄道グループオーナーの堤義明氏に対しては、悪感情を隠してなかったところ。仲が悪いのは伝聞にしか過ぎないのかな?と思っていたけれど、不仲説には根拠があったらしい。

 

2009年にハードカバー発行、その後2012年に文庫化と、決して昔々に書かれたものではないにもかかわらず、時が癒し薬にならずに兄弟は不仲なままだった。2005年の証券取引法違反による義明氏の逮捕が、不仲を決定づけたのか。金持ち喧嘩せずとか言うけれど、喧嘩する人は喧嘩してる。

 

ともに経営の一線からは退いているから、遠慮もないのか。感情的な振舞いを、メディアに残すことにためらいもないあたり、やっぱり今時の経営者とは、ちと違ってる。

 

堤清二は、阪急創始者である小林一三に、同じ電鉄系デパート経営者として関心があったのか、この回顧録でもわざわざ章を割いて、思い出や彼について思うことを語ってる。

 

そのくだりが、『堤清二 罪と業 最後の「告白」』で小林一三についてのインタビュアーとの問答とはちと趣が異なり、どちらが彼、堤清二氏の本音なのかわからなくなる。

 

言葉の力を熟知した明晰な人が、不用意に不用意な発言を記録に残すとは思えないから、過去の発言を言質に取られての狼狽かなと解釈しとこ。本当のことなんて、本人談による映像メディアでもない限り、確かめようがないんだから。

 

ところでホロコーストで生き残った証人の発言を、AIに記憶させるプロジェクトを最近見た。

 

解釈や編集で恣意的に歪められ、本人の望まない不用意な発言でもって後世に記録されたらたまらんからな。

 

後世に名を残すつもりで歪められた発言が世に流布するのを望まない人は、積極的に動画メディアで「これこそが俺・私の言葉で考えたことなの!」というのを、記録に残した方がいいんじゃないすかね。

 

筆が立ったゆえに文章の力に頼りすぎ、過去の発言が未来を縛って望まない人物像が世に流布したら、ただ不幸よなと思うばかり。

 

声の大きな人に頼るだけでなく、いろんな人の意見を聞いた方が、多面な人の複雑な内面には迫れるのかも。取材対象者に対する媚を極力排したら、対象者に対する悪感情こそがすっかり露わになることもあるんだから。

 

お休みなさーい。